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《以下引用》…イスラム教徒は思想に対して非常に大きな不信感をいだき、強制的なきびしい修行によって、ものを考える力を捨て去ってしまっている。…《引用終わり》
これはイスラム教徒ではない私でさえも非常に不快を感じる文章です。自分たちの神を崇拝し、仲間内で盛り上がるのは結構ですが、他人の神様にケチをつけるのはいかがなものでしょうか。この著者は、他の宗教に関して、ものを考える力を捨て去ってしまっているようです。
《以下引用》…きわめて優秀な頭脳を持ち合わせた人々の一部には、もう一つの反論が深刻に受け止められているらしい。それは、人間に危害を加える無用このうえない生物の存在を神がなぜ許しているのか、という反論だ。つまり、ガラガラヘビや黒後家グモ、マラリアの媒体であるハマダラカ、恐るべきライ病菌、種の存続を脅かす梅毒の病原菌はなぜ存在するのか、こういうたぐいのものは、すべて神のもつ善意と両立しないではないか、と言うのである。…《引用終わり》
これに対する説明はこうです。
《以下引用》…もし、ある最高の力が真実の諸法則を「創造した」という事実を受け入れるならば、これらの法則がいったん形づくられると、みずからその機能を果たしていく、という事実をも受け入れなくてはならない。言い換えれば最高の力自体でも、さまざまな現象がこうした法則の定める方向に展開していくことを食い止められないのだ。さもなければ、法則などもはや存在せず、気まぐれだけが残ることになる。…《引用終わり》
これは全然納得できません。諸法則が実行されていくとモンスターを生み出してしまうという弊害があるのなら、そんな法則は最初から創造しなければいい。そんな言い訳は神ならぬ身のみができることなのであって、そんな法則を創造してしまうのであれば全知全能の創造主ではないということになります。
私は、道徳という分野に関してさえも、絶対的な善悪の判断基準というのは無いと思っています。まして、科学者が生物を善玉と悪玉に分類するなんて、正気とは思えません。
これについては、明日、もう少し書きたいと思います。
《つづく》
コメント
コメント一覧 (4)
先刻、化学のことを書きましたが、古生物学とか地質学とかの研究は欧州が成果をあげました。世界中のいろいろなところに行って発掘などをしなければ成果が上がらない分野ですね。大航海時代から世界中で酷いことをしたから、白人を見るとどこの民族も逃げて行くようになったため、どこにでも足を踏み入れて研究ができたのだという話を聞いたことがあります。
物理学も欧州発ということになりますが、古典力学は運動の記述を微積分で行ったものです。そして、ニュートンは単に微積分が得意だっただけ。微積分はイギリス人が発見したと欧州の人は自慢しますが、実は和算の中にもあるそうです。だから、インドも東インド会社を阻止して鎖国していたら、ゼロを発明したインド人ですから微積分も容易に発見できたはず…
西洋人以外の人が世界史を語ると、どうしても厳しくなってしまうんじゃないですかね「遣唐使」というのは、私なりにかなり西洋に遠慮した表現です(笑)
そんなに高級なものでもなかったと思いますよ。事実、同じキリスト教国であるビザンツ帝国の首都・コンスタンティノープルや、イタリア都市国家も襲撃・略奪してたわけですし…とりわけ後期の十字軍はほとんど官製の海賊でしょう。
個人的には、十字軍にあまり文化輸入の功績は感じられないです(もちろん私、十分な知識や根拠があるわけじゃないですが…)。
ヨーロッパがイスラーム圏の知識を輸入するにあたっては、明治時代の「お雇い外国人」よろしく、実際にムスリム学者を招聘したからだと思います。
また、イベリア半島の歴史的功績は大だと思いますし、15世紀にオスマン・トルコがビザンツ帝国を滅ぼして、ビザンツ知識人が西欧に移動ことも影響が大きいでしょうね。
…って、西欧に厳し過ぎますね(笑
西欧には西欧の素晴らしい伝統と文化があったことは事実ですから、あんまりケチョンケチョンに言うのも本意ではないですが…。
先日、スペインの世界遺産をユーミンが訪ねる番組を何となく見ました、仕事中に。レコンキスタで街を奪還した後も、イスラムの建造物は大切にされたとのこと。それだけイスラム世界の高い文化に対する憧れがあったんですね。科学の中でも、特に化学にイスラム文化の痕跡が多く残っています。
十字軍というのは、実質的には日本の遣唐使みたいなものだったんじゃないでしょうかね〜
著者は、クリスチャンの中でも偏った側の人みたいですね。
ルネッサンスや近代科学は誰のおかげで始まったのかと問いたいところです。イスラーム世界やビザンツ世界がギリシャ・ローマ思想を保存し、インド由来の数学や天文学、あるいは中国由来の技術を「文化的後進地域」ヨーロッパに移植したからじゃないですか。
>思想に対して非常に大きな不信感をいだき、
これはまさに、ルネッサンス興起時代のカトリック教会の姿勢そのものではなかったでしょうか?
そして現在の福音派を中心とする急進的プロテスタントも、聖書逐語霊感説を奉じて、聖書の文言に理性のすべてを投擲しているわけですが。
著者もクリスチャンであるのなら、イエス・キリストの「他人の眼の埃は見えても、自分の眼の中の梁は見えないものだ」という言葉を吟味すべきですね。