第11章「人間の知性が「本能」を克服するとき」を読みました。
私はどうもしっくり来ないのですが、人間の知性は動物の本能や知性の延長ではないということをこの章でも強く主張しています。それを顕著に示す例が、人間のみが持っている抽象的概念だそうです。
《以下引用》…たとえば子どもが使う丸いボールを例にとってみよう。…動物は、ボールに対する自分なりの「定義」にすっかり満足する。この定義は、その動物がボールから期待するものと一致しているし、おそらくは子どもや原始人がくだす定義と違ってはいないだろう。
ところが知性をもつ人間は、ボールの特性をいくら言葉で言い表したとしても、そんな定義には満足しない。動物と人間の二種類の知性のあいだに根本的な差が生じるのはこの点だ。
人は、現実のボールをもとに、幾何学的な特性を備えた理想のボール、ただしその特性が限界にまで突き詰められた絶対的に完全なボールを想像すること、言い換えればそのようなボールを創造することからはじめる。人はその理想のボールに、形状にまつわる特性だけを与え、ボールの実体、つまり色や硬度、重さ、弾力性などに関する特性は排除する。と言うのも、このような特性は、別の形をした他の物体にも見られるからだ。…そして人は…最後に、この新しい対象を完全に「理解する」ために、大きさも質量ももたない目に見えない要素を考案する。この要素はこれまで一度も存在せず、いまも、そして今後も現実に存在することはないが、球体を定義するには絶対に欠かせない要素であり、それなしに球体を思い描くことができない。この奇妙な要素が「中心」である。そしてこの「中心」という人間独自の考え方が、抽象的な観念にほかならない。《引用終わり》
でも、やっぱり動物の知性の延長ではないという根拠にはならないと思うんだな…。子供は動物と同じなんでしょう?大人の知性は子どもの知性の延長ということにはならないのかな…?
《つづく》
私はどうもしっくり来ないのですが、人間の知性は動物の本能や知性の延長ではないということをこの章でも強く主張しています。それを顕著に示す例が、人間のみが持っている抽象的概念だそうです。
《以下引用》…たとえば子どもが使う丸いボールを例にとってみよう。…動物は、ボールに対する自分なりの「定義」にすっかり満足する。この定義は、その動物がボールから期待するものと一致しているし、おそらくは子どもや原始人がくだす定義と違ってはいないだろう。
ところが知性をもつ人間は、ボールの特性をいくら言葉で言い表したとしても、そんな定義には満足しない。動物と人間の二種類の知性のあいだに根本的な差が生じるのはこの点だ。
人は、現実のボールをもとに、幾何学的な特性を備えた理想のボール、ただしその特性が限界にまで突き詰められた絶対的に完全なボールを想像すること、言い換えればそのようなボールを創造することからはじめる。人はその理想のボールに、形状にまつわる特性だけを与え、ボールの実体、つまり色や硬度、重さ、弾力性などに関する特性は排除する。と言うのも、このような特性は、別の形をした他の物体にも見られるからだ。…そして人は…最後に、この新しい対象を完全に「理解する」ために、大きさも質量ももたない目に見えない要素を考案する。この要素はこれまで一度も存在せず、いまも、そして今後も現実に存在することはないが、球体を定義するには絶対に欠かせない要素であり、それなしに球体を思い描くことができない。この奇妙な要素が「中心」である。そしてこの「中心」という人間独自の考え方が、抽象的な観念にほかならない。《引用終わり》
でも、やっぱり動物の知性の延長ではないという根拠にはならないと思うんだな…。子供は動物と同じなんでしょう?大人の知性は子どもの知性の延長ということにはならないのかな…?
《つづく》
コメント
コメント一覧 (3)
キリスト教徒全てがそうでもないのでしょうが、現在もその考えを堅持している人たちがいて、人型ロボットが日本でしか開発されなかった理由だという指摘もありますね。
私としては、この本の最初の方に書かれてある「進化と適応の考え方」が好きだったので長年書棚においていましたが、それなりの批判能力を持ってから後半まで読み進んだことはありませんでした。一応、最後まできっちり読んで吟味した上で、決別するつもりでいます。
佐々木閑先生の本も読んで見たくなりました。まずは仏教の基本をもう少し勉強してから、いろいろなものに手を出したいと思っています。が、勉強はすればするほど読みたい本が増えていきますし、時間はどんどん過ぎ去って行きます。
修行に終わりはありませんし、一歩一歩進むしかありませんね。
理系出身の仏教学者・佐々木閑先生によれば、科学のパラダイムシフトとは、絶えざる「神の人間化・下降感覚」によって進む…この場合の「神の人間化」とは、絶対的あるいは特別な存在に感じるものは、すべて突き詰めていくと他と同等な現象でしかないことが分かることだそうですが、つまりそういうモノだそうです。
この本の理論は、佐々木先生流に解釈すれば、いまだ神の領域(この場合は「人間の特別性」)を防衛するための理論、ということになるのでしょうか。
だとすればいずれ崩壊、という結末に…なるのでしょうか?
無明分別によって妄想されたのが「概念」なのだから、それを原始的だの動物的だの人間的だの「分別」したところで、お釈迦様手のひらで右往左往する孫悟空以上のモンじゃないでしょう。決定的な相違にはならないと思います。
>人間の知性は動物の本能や知性の延長ではない
延長…というか、概念化の深まりというか、真如からの一層の後退というか…でしょう。いずれにしても連続性のものだと思います。
より無明が深まって妄想たくましくなればなる程、人間的になるのでしょうけれど、そんなもの自慢にもなりません。
ただ人間の悲しいところですが、もはや度し難いところまで概念操作に馴染んでしまっていますので、それを超えるにも最初は概念から入らなくてはならない。
そしてそこに留まらずに、概念的方便を過ぎ越して行ける者だけが、何かしらを覚せるのでしょう。
概念・観念を無二の素晴らしいものと捉えるパラダイムでは、恐らく永遠に「真理探究の試み」が迷走を続けるだけだと思います。