「龍樹」(講談社学術文庫版)
「まえがき」と、「?ナーガールジュナ(龍樹)の生涯」の「はじめに」と「1『龍樹菩薩伝』」を読みました。
《以下引用》…大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって、空(sunyata)の観念を基礎づけた。空(sunya)とは、その語源は「膨れあがった」「うつろな」という意味である。膨れあがったものは中がうつろ(空)である。われわれが今日数学においてゼロと呼んでいる小さな楕円形の記号は、サンスクリット語ではシューニャ(空sunya)と呼ばれる。それが漢訳仏典では「空」と訳されているのである。ゼロはもともとインド人の発見したものであるが、それが西紀1150年ころにアラビア人を通じて西洋に導き入れられたのである(アラビア数字はその起源に関するかぎり、インド数字なのであって、アラビア数字ではない)。…《引用終わり》
「はじめに」の一節です。インドは現代においても数学を重視し、
数学教育に力を入れているようです。
数学も自然数だけを扱っているうちは高級感が無いのですが、ゼロという概念が入ってくるとアカデミックな感じがしてきます。仏教においても「空」の概念は非常に大きなもののような気がします。量子力学との類似も興味あるところです。
考えてみると、私は般若心経(色即是空空即是色)以上のことは何もわかっていないのかもしれない。だから、どうしても龍樹さんについては勉強しなければ、と思っておりました。
龍樹さんは小さい時から大天才で、わからないことは何もないと言われていたようです。若い頃は悪いこともし、才能ゆえに高慢にもなったようですが、龍から教えを受けて(?)…。と、どこまで本当かわかりませんが、昔の話ですから仕方がないでしょう。でも、「私も若い頃は手がつけられないワルだったんですよ。」と言うような人が、発心について説いたら説得力はありますね。
「八宗の祖師」と呼ばれる人ですから、宗派に関係なく、大乗仏教を知るためには避けては通れません。難しそうな本ですが、頑張ります。
《つづく》
「まえがき」と、「?ナーガールジュナ(龍樹)の生涯」の「はじめに」と「1『龍樹菩薩伝』」を読みました。
《以下引用》…大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって、空(sunyata)の観念を基礎づけた。空(sunya)とは、その語源は「膨れあがった」「うつろな」という意味である。膨れあがったものは中がうつろ(空)である。われわれが今日数学においてゼロと呼んでいる小さな楕円形の記号は、サンスクリット語ではシューニャ(空sunya)と呼ばれる。それが漢訳仏典では「空」と訳されているのである。ゼロはもともとインド人の発見したものであるが、それが西紀1150年ころにアラビア人を通じて西洋に導き入れられたのである(アラビア数字はその起源に関するかぎり、インド数字なのであって、アラビア数字ではない)。…《引用終わり》
「はじめに」の一節です。インドは現代においても数学を重視し、
数学教育に力を入れているようです。
数学も自然数だけを扱っているうちは高級感が無いのですが、ゼロという概念が入ってくるとアカデミックな感じがしてきます。仏教においても「空」の概念は非常に大きなもののような気がします。量子力学との類似も興味あるところです。
考えてみると、私は般若心経(色即是空空即是色)以上のことは何もわかっていないのかもしれない。だから、どうしても龍樹さんについては勉強しなければ、と思っておりました。
龍樹さんは小さい時から大天才で、わからないことは何もないと言われていたようです。若い頃は悪いこともし、才能ゆえに高慢にもなったようですが、龍から教えを受けて(?)…。と、どこまで本当かわかりませんが、昔の話ですから仕方がないでしょう。でも、「私も若い頃は手がつけられないワルだったんですよ。」と言うような人が、発心について説いたら説得力はありますね。
「八宗の祖師」と呼ばれる人ですから、宗派に関係なく、大乗仏教を知るためには避けては通れません。難しそうな本ですが、頑張ります。
《つづく》
コメント
コメント一覧 (2)
ただ、それにしても、インド哲学はより幅広くいろんなことが議論し尽くされていたような痕跡があります。そのひとつがゼロだと思います。「何も無い」という状態を「ある」と表現するんですから、最高にひねくれた表現ですね。我が子ならゲンコツものです(笑)。
これが量子力学の考え方ととても似ているので、またまた「スゴイ!」ということになります。考え得るあらゆる事柄を議論しているわけだから、後世にどんなにひねくれた理論が登場しても、必ず何かと似ていることになるんでしょうけどね。
でも、現代の閉塞を打破するヒントもインドにはあるかもしれない…そう思わせる奥深さがあります。
インド哲学(主にヴァイシェーシカ系や文法学派ですが)では、単に「ない」という概念は基本的には「ない」ですよね(笑
「ない」という「存在」が「ある」。
例えば、「机の上に何もない」のではなくて、「リンゴがない」「空気がない」「パンダがいない」等々の具体的な存在・状態が「ある」。
だからとても存在存在存在…に取り囲まれた「暑苦しい」認識世界に生きているようです(インドの哲学者や宗教者が…ですが)。
ゼロとは、とっても賑やかな世界ですから、そういう所で生まれた「空」の概念と、中国的「無」の思想は、言葉は似ていても恐らくまったく違ったものなんでしょう。だから仏教は難しいのかも知れませんね。