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「意識の形而上学」
第三部「実存意識機能の内的メカニズム」の「14.「不覚」の構造」の後半、「15.「始覚」と「本覚」」の前半を読みました。不覚と覚が細かく分析されています。

不覚は9つの段階に分けられています。

1.業相(ごつそう):現象「有」の起動因。「心真如」の本源的無分節性を覚知していないという根源的無知のために、「アラヤ識」が「(妄)念」として動き出す(忽然念起)。その「念」の起点。「有」と「無」の中間に揺れる「アラヤ識」のあり方を「業識」という。

2.見相(=能見相):「妄念」としての「アラヤ識」の主体的側面。自我の成立。この自己的凝固が「不覚」への決定的な第一歩となる。「見相」的側面において働く「アラヤ識」を「転識」という。「業相」的に生起した「アラヤ識」は生起と同時に見相と現相に分かれて機能し始める。

3.現相(=環相,境界相):主体としての心の作用(見相)に対して、対応し対立して、同時生起する客体としての対象世界の現われ。「現相」的側面において働く「アラヤ識」を「現識」という。

4.智相:「現識」的に映現された対象的事物は、全て「妄念」の所産であり、妄象にすぎないが、我々の心は外界に実在するものとして認識する(「五蘊集合」的物象化)。このように機能する「アラヤ識」を「智識」という。

転識としての心(主体)が現識としての心(客体)を外的対象として認知しなければ、妄象的に映現したものを客観的実在と見誤るようなことは絶対にあり得ないのだが…

5.相続相:「智相」的「妄念」は、ひとたび生起するや、果てしなく、念々に起こって絶えることがない。愛着・嫌悪の情を中心とする執念が、この段階で現われ始める。

6.執取相(しゅうしゅそう):「智相」の連続の結果、虚妄の事物を真実在と思う心がますます強まり、それらに対する執着が深まっていく。

7.計名字相(けみょうじそう):未だどこにも、特別の「名」が現われていない実存意識の茫漠たる情的・情緒的空間に、様々な名称を妄計して、そのひとつ一つを独立の情的単位に仕立て上げていく言語機能に支配される「アラヤ識」のあり方。

一般に情念はただ漠然とした気分のようなものであって、それほど恐るべき力はない。ところが「名」によって固定され、特殊化され個別化され、言語的凝固体群となるとともに、情念は我々の実存的意識に対して強烈な呪縛力を行使し始める。この言語的凝固体が「煩悩」ということになる。

8.起業相(きごつそう):煩悩に巻きつかれた人間主体は、生存するかぎり絶え間なく、「身・口・意」三様の「業」を重ねていく。その暗澹たる事態生起の発端。

9.業繋苦相(ごつけくそう):数かぎりない「業」の重なりの果報を受けて、人は実存的「苦」にひきずり込まれ、逃れがたくそれに繋縛される。「不覚九相」の最終段階。

「始覚」と「本覚」については…

人は実存的に不覚の状態にいる。「妄念」の所産に過ぎない妄象的存在界を純客観的に実存すると思い込み、それに執着し、それとは気付かずに(まさに不覚)自己本然のあり方から逸脱して生きている。

ところが、ふと何かの機会に、『起信論』的には本覚からの促しによって、不覚の自覚が生じることがある。己が自己本然の姿を忘れて生きていることに気づき、慄然として自己のあるべき姿(=「覚」の状態)に戻ろうとする。それが「始覚」。

「始覚」は「覚」を志向する修行の道。修行の全プロセスが「始覚」で、決して最初の一歩だけを指すのではない。この「始覚」との特殊な関連において、「覚」は「本覚」と呼ばれる。「本覚」は「覚」に対する関係概念で、「覚」と違った「本覚」という特別なものがあるわけではない。

…不覚の自覚…無知の知…なんか似てるな…

《つづく》