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「意識の形而上学」
第三部「実存意識機能の内的メカニズム」の「13.「覚」と「不覚」」「14.「不覚」の構造」の前半を読みました。覚と不覚について書いてあります。

《以下引用》…「アラヤ識」のこの新しい局面を具体的に分析するために、ここで『起信論』は「覚」と「不覚」という一対のキータームを導入し、さらに「覚」を二分して「始覚」と「本覚」というキータームの一対を作り出す。…これら4つのキータームが、たがいに接近し、離反し、対立し、相剋し、ついに融和する力動的な意識の場、それが個的実存意識のメカニズムとして現象する「アラヤ識」の姿なのである。《引用終わり》

「覚」について。
《以下引用》…「覚」の実存的現成のためには、何よりも先ず個的実存意識が、MからAの方向に進んで、道の極限に達し、絶対無分節的「自性清浄心」そのものとの合一を体験すること(「離念」)が必要である。それが「覚」現成の第一段。だが、それだけでは「覚」はまだ完成しない。「自性清浄心」との合一を体験した実存意識は、そのままひるがえってBの方向に向かい、A・Bの両方を無差別的に、全一的に、綜観する境地に達さなければならない。と言うよりも、むしろ、Aの道の究極に達することが、同時にそのままBへの道を極め、Bの真相を覚知することになるのでなければならない。そのような意識状態が実存的に現成したとき、それを「覚」というのである。《引用終わり》

「不覚」について。
《以下引用》…このような「法界一相」的世界観は、我々平凡人の普通の現実観ではない。…普通の人は現に「不覚」の状態にあるはずだ…「不覚」とは文字どおり「覚」の否定、つまり、人がA←Mの道に行くかわりに、ひたすらM→Bの道に行き、ただ現象的現実の中に跼蹐(きょくせき:ひどく恐れかしこんで身のおきどころも無い状態)して生きることである。…理論的、いや、理念的に言えば、人は誰でも(=「一切衆生」)「自性清浄心」をもっている。それが、いわゆる現実界の紛々たる乱動のうちに見失われている。いかにすれば、本性の「清浄」性に復帰することができるか。これが『起信論』の宗教倫理思想の中心課題として提起される。《引用終わり》

さらに「不覚」を、「根本不覚」:根源的・第一次的「不覚」(無明)と、「枝末不覚」:派生的・第二次的「不覚」と、二段階に分けています。

「根本不覚」とは、真理(「真如」=「心」の真相)を、全一的意識野において覚照する能力がないこと。

「枝末不覚」とは、「真如」についての根本的無知ゆえに、「真如」の覚知の中に認識論的主・客(自・他)の区別・対立を混入し、現象的事象を心の外に実在する客観的世界と考え、それを心的主体が客観的対象として認識する、という形に構造化して把握する意識のあり方。

「根本不覚」の全体的支配の下で、人が「妄念」の所産である外的世界を、真実在の世界と誤認して、その結果、限りない迷い(=煩悩)の渦に巻き込まれていく実存のあり方が「枝末不覚」。

《つづく》