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「?.密教の世界」の「一.秘密の教え」を読みました。

密教と一口にいっても定義が難しい、ということが書いてあります。「日本の真言密教」という最も限定的な意味にとったとしても、古代インド由来の瑜伽、呪術、宗教儀礼、自然科学(天文、医学、数学)、日常生活の規則など、アジア各地の宗教文化・民族文化が包含される。ましてこういう限定を設けなければ、国や人によってかなり異なる内容を指しているので、気をつけなければいけないようです。

「密教概論」にも出ていた因分可説・果分不可説について噛み砕いてあるので、メモっておきます。

「秘密の伝達」より
一般に仏教においては、現象世界を因分、悟りの境地である絶対の世界を果分に分け、現象世界のできごとは五官によって把握したり、文字とか音声によって表現することができるから因分可説といい、絶対の世界はそれを日常的な方法では表現することができないから、果分不可説と説いている。


私も似たようなこと考えてました。でも密教は違う考え方らしい。

密教では…この絶対の世界を現実に表現し、他にその内容を伝達することが可能であるという。…果分可説を主張するのである。密教の世界観の特徴は、説くことができないとされてきた宗教体験そのものも、象徴によって表現し、他に伝達しうると考えたところにある。…絶対の世界といえども、芸術作品の姿をかりてその一部分を現実に表現することができる。この思想はまた真理は抽象的な原理ではなく、人格をもち、現象界の具体的な事物の中に内在するという密教独自の真理観と表裏一体をなしている。

全部は無理としても一部可能という意味なら、私も果分可説に賛成です。逆に、果分不可説は「全く不可能」という意味ならば、お経を上げることさえ虚しくなるようにも思うのですが。

「三密」より
絶対世界も象徴を通じて現実の世界に表現され、他にそれを伝達することも可能となる。では現実世界に生きるわれわれが、絶対の世界に入るためにはどうすればよいか。現象より実在へいたる懸橋として、身体と言葉と心の三種の機能の合一を説く三密の瑜伽がある。…身体のはたらきとして手に印契を結び、言葉のはたらきとして口に真言とか陀羅尼を唱え、心のはたらきとして精神集中を意味する三摩地に没入することが要請される。…この三密の行は必ずしもながい年月をかけた厳しい修行を必要とせず、衆生が本質的に仏にほかならないという宗教的な自覚に到達すれば、現存在のまま、即時に成仏しうる…


お勉強だけではダメですよ!というところがいいなと思います。だから、「宗教的な自覚」に到達するまではいろいろ大変でしょうね、実際は。そこまで行けば、即座だとしても。

「密教の神話」より
日常的な経験とか思考を誤りなく言葉とか文字とかによって他人に伝えることは難しい。…宗教的な体験の世界を日常的な言語や文字によって、完全に描写しつくすことはなおさら不可能であるといってよい。


果分可説と矛盾するのでは?とも思いますが、難しいから神話のような荒唐無稽な内容で仏教経典は語られているんですよ!ということでした。

これと似たようなこと、先日テレビを見て思いました。

《つづく》

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