譬喩品第三では、釈迦がシャーリプトラに例え話をしています。この世は火事になって燃えている家のようなもので、苦しいのが当たり前。わたしたちはそこに取り残された3人の子供。そこから逃げ出せば楽になれるのに、そうしようとしません。そこで何とか騙して外に出てくるようにしなければいけません。

3人それぞれの好みに合わせて、「羊が引く車,鹿が引く車,牛が引く車をあげるから今すぐ外に出てきなさい!」と呼びかけます。実際に車は無くても、火事場から救われた子供は「騙された!」と怒ったりはしないでしょう?というお話。

声聞,縁覚,菩薩とそれぞれの立場の違いに合わせて(仏教の)教え方は違うけれども、目的(苦しみから救う)は同じなのだよ、ということのようです。牛に引かれて善光寺参りという逸話もありますが、関係があるような気もします。

信解品第四は、釈迦の例え話を受けて、シャーリプトラが例え話をして謝意を表しています。大富豪の子供が親と生き別れになり、貧しい暮らしをしておりましたが、偶然再会します。そして大富豪のもとで働くことになります。糞尿の処理などの仕事を何年とさせ、自分の死期が近づいたときに人を集めて実の子であることを告げました。いわゆる3Kと言われるような仕事をしていても、いつか見ていろ!みたいな気持ちにさせるお話です。

大富豪が子供にいくら自分と同じ豊かな暮らしをさせようとしても、子供は拒み続けます。仏の教えを前にして、すぐに信じようとしない凡夫を意味しているようです。シャーリプトラはこの富豪が如来だと言っているのですが、大富豪は贅の限りを尽くした生活をしていますし、子供が自分のところから逃げないように金で釣っています。仏教という心の豊かさを金銭的豊かさに例えているところに違和感を感じます。

つづき(30%)を見る