会社員時代の十数年間、
仙台に住んでいました。
なのに、一回も
多賀城を観光していない!
数えきれない一生の不覚のうちの
ひとつです。
たかが多賀城、されど多賀城。
山形県天童市とも
深いつながりがあります。
そう言えば、
天童の小座間さんとコラボした
「赤い宝石のひみつ
山形さくらんぼ王国物語」。
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こんにちは!
スラスラ解る!
小林教室特別講師の
とがし としみつ です。
宮城県の県名の由来も多賀城。
ここには律令制時代、
国府が置かれていました。
「壺の碑(つぼのいしぶみ)」が
あるのも多賀城。
蝦夷討伐の時に
坂上田村麻呂(征夷大将軍)が
書いたと言われています。
でも、江戸時代初期まで
どこにあるか
分からなかったのです。
平安の頃から、
「どこにあるか分からないもの」
として、
多くの歌人が歌に詠んでいます。
それが発見された!!
というのは江戸初期の大ニュース。
本物か偽物かで
議論は真っ二つに分かれました。
有名な
徳川光圀(水戸の黄門様)とか
新井白石、松尾芭蕉は本物派。
「おくのほそ道」
としてまとめられた
芭蕉の東北旅行の目的のひとつが
壺の碑を見ることでした。
碑を前にした芭蕉は
旅の疲れも忘れて涙を流した
と書いています。
私は
公文の国語K教材で
これを知りました。
芭蕉の旅の目的は、
古来多くの歌人たちが詠んだ
数々の歌枕を自分の目で
確認することだったんですね。
確認できないものもあったので、
壺の碑での芭蕉の感動は格別。
逆に芭蕉が目にした
象潟(秋田県にかほ市)の情景を
私たちは目にできないんだよ!
とドナルド・キーン氏は
指摘しています。
(この一節もK教材で
確認できます)
「おくのほそ道」から
およそ百年後(1804年)の
象潟大地震で
大きく地形が変わったからです。
先月、
多賀城に行く機会がありました。
ついに私も、
その壺の碑を見て感涙!!
と思ったのですが…
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