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《以下引用(p329)》
思考力をつける国語教育の方法について、いつも刺激的な発言をしている宇佐美寛氏の比較的早い時期の著作に『論理的思考――論説文の読み書きにおいて――』(1979)がある。看護教員養成のための講習会での授業報告であるが、氏はここで冒頭、次のように語り出す。
「宇佐美です。45時間にわたる「論理的思考」の授業をはじめます。ふつう、このような一つの科目の授業をはじめるときには、まず「論理的思考」とは何かを話すのでしょう。つまり、まず表題に出るような重要な概念の説明は一応する場合が多いようです。しかし、私は、そういう理屈をしゃべってみても、むだだと思っています。特に、最初の時間からそういう話をするのはまったく無意義です。なぜでしょうか。それを聞いている学習者がたるむからです」。…
「楽であることもできる勉強は受け身の勉強であり、身につくものが少ないのです。自分の頭を酷使せざるを得ない、「しんどい」勉強でなければ見につきません。「勉強」とは、文字通り「勉め強いる」ことなのです」。…
「ことばで話しても受講生にはわからないということです。なぜ、わからないのか。この「なぜ、わからないのか」に今ことばで答えることもできないのです。答えてみても、その答えのことばがわからないのです」。
ちょうど水泳を言葉で語って教えようとしても受講者が泳げるようにはならない、自分で泳ごうとすることによってのみ泳げるようになるのと同じである。言葉がわかるようになるのは、泳げるようになった後である。
《引用終り》
「授業」という言葉自体、ひたすら受け身で積極性を感じさせないものですが、勉強の取っ掛かりはそれを受けることが当たり前のようになっているのはなぜなのでしょうか?
勉強は、危険に自ら挑む冒険家のように、自発的な衝動がなければ本来は成立しない行為です。「しんどい」ものでなければ身につかないわけで、「しんどい」けれどもやるんだ!という積極性がなければ続きません。
「授業」という勉強のやり方。メリットもあるのでしょうが、ベストとは言えないと思います。
《以下引用(p330)》
「緻密に、正確に考えるとは、緻密で正確なことばを使って考えることです。ことばを、なるべく意識的に検討しながらしんどく考えるには、緻密・正確な文章を書くのがきわめてよい方法」だとして、「みなさんに、おおいに書いてもらおうと思っています。いわゆる講義調で私の方から話をするのは、みなさんが作文を書いた後にします」。
学んだあとにおこなう講義にしても、「ただ聞いているだけではいけません。必ずノートをとってください」。ノートをとるとは、講師の話を分析・整理することである。頭の働きがだいじである。ノートをとるのも、「頭をのんびりさせないため、しんどく考えさせるためです」。
《引用終り》
これを行わせるための教材…と考えたとき、「縮約」は確かに良い方法だと思います。
《インデックス》
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