「映画妖怪人間ベム」を見た。
子ども時代にアニメ版を見ていたということ以外にもこの作品に惹かれるのは、設定が興味深いからだ。
妖怪人間は善の心だけを持っているという。「早く人間になりたい!」と叫ぶ彼らは、悪の心だけを持つ謎の博士と融合することで人間になれる。人間は善と悪の両方を持つ存在だからだ。
例えば、男と女という2つの偏った状態になることによってこの世に生を受けるのが人間だ、という捉え方ができる。だから、善悪という二極のどちらかに偏ることで出現する存在という設定にどうしても惹かれるのだ。
しかし、そもそも善と悪というのは、常にハッキリ区別できるものではない。だから、善とか悪を純粋に抽出するのには無理がある。
そこはフィクションですから…という納得の仕方はあるが、男と女の区別さえ難しい場合があることを鑑みれば逆にリアルとも言える。
電池でさえ、+と−をしっかりつながないと電流が流れないように、どっちが+でどっちが−か判断は難しいということなのだ。
自分が+極となる由来となった−極とつないだ場合しか、つまり自分が生起する段階で電位差が決定済みの両者間でしか+−の関係は判然としないのだ。これは妖怪人間と謎の博士との関係に似ている。
今回の映画でも、謎の博士に由来する悪(観月ありさに取り憑いた緑のドロドロ)に対しては妖怪人間も敢然と立ち向かうけれども、そうでない悪人(中村橋之助)は社会的制裁に任せた。
因縁ある相手としか善悪が判然としない。ここいら辺に二元論の虚妄性が感じ取れるのであるが、この法則のようなものをキチンと守っているという点で、今回の映画の筋書きも私なりに納得できるものだった。
(2013.1.1記)
子ども時代にアニメ版を見ていたということ以外にもこの作品に惹かれるのは、設定が興味深いからだ。
妖怪人間は善の心だけを持っているという。「早く人間になりたい!」と叫ぶ彼らは、悪の心だけを持つ謎の博士と融合することで人間になれる。人間は善と悪の両方を持つ存在だからだ。
例えば、男と女という2つの偏った状態になることによってこの世に生を受けるのが人間だ、という捉え方ができる。だから、善悪という二極のどちらかに偏ることで出現する存在という設定にどうしても惹かれるのだ。
しかし、そもそも善と悪というのは、常にハッキリ区別できるものではない。だから、善とか悪を純粋に抽出するのには無理がある。
そこはフィクションですから…という納得の仕方はあるが、男と女の区別さえ難しい場合があることを鑑みれば逆にリアルとも言える。
電池でさえ、+と−をしっかりつながないと電流が流れないように、どっちが+でどっちが−か判断は難しいということなのだ。
自分が+極となる由来となった−極とつないだ場合しか、つまり自分が生起する段階で電位差が決定済みの両者間でしか+−の関係は判然としないのだ。これは妖怪人間と謎の博士との関係に似ている。
今回の映画でも、謎の博士に由来する悪(観月ありさに取り憑いた緑のドロドロ)に対しては妖怪人間も敢然と立ち向かうけれども、そうでない悪人(中村橋之助)は社会的制裁に任せた。
因縁ある相手としか善悪が判然としない。ここいら辺に二元論の虚妄性が感じ取れるのであるが、この法則のようなものをキチンと守っているという点で、今回の映画の筋書きも私なりに納得できるものだった。
(2013.1.1記)
参考文献1「経穴マップ」