トトガノート

All about TOTOGA

2012年08月

「新・ヒトの解剖」の「はじめに」(p2〜3)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p3)》
いまや、人体解剖学は、医学・歯学・人類学といった専門家だけの独占物ではなく、ひろく一般の人びとのものになろうとしている。医師の立場からも、一般の人びとが人体のしくみを理解し、その構造と機能を充分に知っていることが、最近その重要性を強調されているインフォームド・コンセント、すなわち、患者の理解と承諾にもとづく医療を実現するために、必要な条件となってきている。
《引用終り》

最近、人体の構造を描いた子ども向けの絵本、人体模型付きの本(どっちが本体でどっちが付録か分からない)、オモチャのような人体模型など、よく見かけるようになりました。

私の場合は、仕事上、触察して骨と筋肉の判別ができなければ話にならないので、等身大の骨格模型は購入し、毎日眺めています。患者さんに説明する場合にも有った方がいいのですが、出張専門のため、等身大のガイコツを車に乗せて走りまわるわけにもいかないので、上記の何分の1スケールかの人体模型は有った方がいいかなと日頃思っているところです。

筆者は、一般の人でも解剖実習ができるような設備や制度を確立したいと書いています。そこまでは、どうかな…と思いますが、この本を読み進むうちに考えが変わるかもしれません。

《インデックス》
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J教材の160番まで終わりました。

141番からは連立方程式、151番からは整式の割り算です。

連立方程式は、これまでの二元一次のものとは違って、とっても複雑です。解と係数の関係を利用して解く方法なども出てきますと、何段階かの工程を経て答えを出していくので、自分が今やっていること何なのか、全体の工程の中のどこだったのかが、分からなくなってしまいそうです。

それでも、答えが何通りも出てくる問題ですから、解と係数の関係を用いて解くのが一番楽だということなのですね。「解と係数の関係を使うとらくに解けることが多い」という解説があります(J-147a下欄)。

学生時代、こういう解説を聞いていたのかどうか、いたずらにややこしい計算をさせられているような印象を持っていた気がします。

整式の割り算は、整数の割り算のように筆算でやっていきますが、私は整数より正式のほうが簡単で好きです。

連立方程式も割り算も、以前やったことがさらに数学的にレベルアップして再登場した感じです。大局的な視点で見直すポイントかもしれません。

【グラス片手に大人の公文】数学〔J-160〕
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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「どこに価値をおいた教室をつくるか」(p134〜144)を読みました。(小林教室収蔵

バベルの塔の建設に邁進していた人々に、神がそれぞれに違う言葉を話させた瞬間、人々は建設を止めて、世界各地に散っていった…そんな逸話が現実化したのではないか。

高度経済成長という塔をみんなで一緒になって造っていたはずの人々が、それぞれに異なる価値観を持ち始め、言葉の使い方や意味まで多様化してしまい、家庭とか職場とか社会の様々なところで言葉が通じなくなり、心も通じなくなっていきました。

私が、社会に出て、それに気づくよりもずっと前に、公文氏はそれに気づいていたようです。

《以下引用(p134)》
1983年といえば、例の「オレ様化した子どもたち」が登場し、国の教育行政にあっても中曽根首相がすすめる臨教審において新保守主義的な政策がさかんに議論されていた時代である。グローバル化の波がおしよせ、わが国にも聖域なき構造改革の声が聞かれるようになったのもこの時期だった。世の中の価値観が多様になり、子どもたちは以前のようにひとくくりして語れる存在ではなくなっていたのである。

公文氏は時代の動きに敏感な人であった。このとき、すでに「優秀児をつくる」時代は終わったと感じていた。だから、「可能性を売る」仕事への転換を指示したのである。
《引用終り》

「可能性を売る」仕事への転換、ソフィスト伝での該当箇所はこちらです。

《以下引用(p136)》
社会が変われば、親たちも変わるし、子どもたちも変わる。自分より上には三学年先、四学年先……そして、最終教材学習者がいるが、それがどうした、自分には関係のないことだ。それぞれの都合でいまは教室に同じようにかよっていても、その気持ちには他からはおしはかれないほどの違いが生じている。高進度をめざすというスローガンは通じない。時代は移り、高進度はめざすべき対象ではなくなった。最終教材というエサを目の前にぶらさげても、みんながこれを求めて走り出すとは限らなくなっていたのである。
《引用終り》

ただ、多様化を悪いことと断じることはできません。従来の余り工夫の無い画一的教育が通用しなくなったというだけのこと。社会としては成熟してきたということでしょう。教育は、それに追随していかなければなりません。

公文氏は、自分のやり方を改めることにためらいを持つ人ではありませんでした。

《インデックス》
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けんぐう:LI15(大腸経

〈取穴〉:肩関節の前方、肩峰と上腕骨頭との間の陥凹部に取る。
〈標準〉:肩周囲部。肩峰外縁の前端と上腕骨大結節の間の陥凹部。

〈筋肉〉:三角筋

〈運動神経〉:腋窩神経。
〈知覚神経〉:鎖骨上神経。

〈血管〉:胸肩峰動脈三角筋枝。

〈主治〉:肩関節及び周囲軟部組織障害、五十肩、片麻痺、頚部リンパ節腫脹。
〈特殊〉:アレルギー体質の改善。

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」
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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第四章 十字架の聖ヨハネ」(p71〜90)を読みました。

宗教とは…。

《以下引用(p80)》
では宗教とは一体何を為し遂げることであろうか。その目的と方法論は何か。

われわれの努力はいまだ所有していないものに向けられる。探求というのも未知なるものを探し求めることだ。そして努力なくして何事も成就しない。しかしこれとは全く異なる様式の探求がある。求められるものがすでに与えられているが、顧みられないために死に絶えたように埋もれたままになっている、それを再び甦らせるという試みだ。何か新しい画策とか、探求ではなく、すでに魂の内側に予定された「隠れた奥義」を探す。それを聖ヨハネは「ほかの日に神が魂に与えたもうたあのもの」と言った。
《引用終り》

神とは…。

《以下引用(p82)》
それなくして生が意味をなさない究極の真理を神という。そして、「神は魂の最も奥深くに隠れている」と聖ヨハネは言う。それなのに何故われわれは神を見ることも、感じもしないのであろうか。それは単純な理由による。神はわれわれの内側に隠れているのに、われわれは外側であらゆることにかかずらって隠れようとしないからだ。隠れたものを見い出そうとする人は、そのものが隠れているところまで入って行かねばならないであろう。同様に、神を見い出すためには、孤独のうちに引き退いて、われわれに属するすべてのことを忘れ、あらゆる被造物から遠ざかり、魂の奥の院に神とともに隠れるのでなければならない。そしてそれを見い出したときには、われわれもまた神と同じように隠れてしまうのである。

“隠れ”は聖ヨハネの宗教性を理解する上で殊に重要な意味を持っている。自己の内奥の深い隠れ家のうちに沈潜し、神と魂との一致(見神)に至るための方法論としての観想につながり、それはまた魂の肉体からの解放を可能にする。その結果、肉のわざは終り、魂の彷徨に終止符をうつのだ。その時、魂は自分自身から出て、神と冥合し(union de Dios)、彼と同じように隠れてしまう。そして隠れたものに隠れて奉仕する、それが祈りなのである。
《引用終り》

自分の中にある神の隠れ家、そこを訪れて、奉仕する…。

《インデックス》
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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9〜132)の「ちょうどの学習が実現できる場」(p110〜132)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p128)》
斉田先生の指導はその場でできることだけに限定されている(まるで日常の家事労働のごとく、だ)。…生徒の学習が停滞して、とどこおっていることはないか、これをできるだけ簡便な徴候に見出す。そして、ここを突破口にして、ここに指導解決の方途を見出すのが指導者の務めであると覚悟しているのだ。徴候は徴候である。これ以上の意味はない。ないが、その原因をつかむ必要がある。そうでないと、生徒の真の学力の実態がつかめない。この指導者の仕事への向かい方が問題解決への道を開いていく。
《引用終り》

かつて公文氏が提唱した「3つのちょうど」。これを、斉田先生も指導の軸に据えてはいます。しかし…

《以下引用(p129)》
(1)「理解のちょうど」かどうかは、採点によって見つけられる。また、(2)「作業のちょうど」は教材一枚にかかる「標準完成時間」によって見出される。(3)「学習態度形成のちょうど」はその日の学習プリントの一枚目によって、ひいては新しい課題に入るところ、生徒にある意味の跳躍をもとめる問題において、把握されるのだ。…

しかし、じつはこうした教室の運営方法に先生の教室の秘密があるわけではなかった。…

生徒の学習状態が「ちょうどの学習」の状態にあるか否かは、こうした尺度ではわからない。わからない、と覚悟する点こそ斉田先生の指導のすごさなのだ。
《引用終り》

では、どうすればいいのか。

《以下引用(p130)》
自学自習の指導とは何か。生徒が次につづく教材を学んでいく準備ができているかどうか、準備ができていなければ、その準備をその場でする。つまり、生徒のいまの学習の次につづく学習を看る。…

斉田先生はその生徒が次のプリントに進んでいくのに必要なレベルの要求を生徒にする。生徒はその先生の要求にこたえる。こうした応答のなかで、はじめて生徒の学習が「ちょうど」かどうか、これがわかるのである。
《引用終り》

本文中にもありますが、本当に、当然と言えば当然のことです。

《インデックス》
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ひじゅ:LI14(大腸経

〈取穴〉:肩ぐうから曲池に向かい下3寸、三角筋の停止部の橈側に取る。
〈標準〉:上腕外側、三角筋前縁、曲池の上方7寸。

〈筋肉〉:三角筋上腕二頭筋

〈運動神経〉:腋窩神経、筋皮神経。
〈知覚神経〉:外側上腕皮神経。

〈血管〉:上腕深動脈三角筋枝。

〈主治〉:肩関節及び周囲軟部組織障害、五十肩、片麻痺、頚部リンパ節腫脹。
〈特殊〉:

〈関連痛領域〉後斜角筋

参考文献1「経穴マップ」
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「新・人体の矛盾」の「ノドチンコの謎」(p208〜210)を読みました。(小林教室収蔵

俗に「ノドチンコ」と呼ばれているものですが、正しい名前は「口蓋垂」というようです。口の上の方(口蓋)は骨が裏打ちしているので固いのですが、奥の方は柔らかくなっています。名前も「軟口蓋」。内部に筋肉があり、よって可動性があります。

軟口蓋は、物を飲み込む時に後ろの咽頭壁に跳ね上がって、鼻腔に蓋をします。このお陰で、食塊が鼻腔に入らないようになり、逆立ちしても水が飲めるとのこと。ノドチンコは、この密閉度を高める働きをしていると考えられています。

チンパンジーもノドチンコを持っているそうですが、イヌには無いそうです。

《以下引用(p209)》
イヌでは口蓋垂にあたるような突起はないものの、内部には立派な口蓋筋という人の口蓋垂筋とおなじ筋が見られる。ここで重要なことは、動物の軟口蓋のはたらきがヒトとは大きく異なっている点である。動物のばあい、軟口蓋の後ろに、気管の入口である喉頭の筒を鼻腔の方に挿入する形になっている。軟口蓋はこの喉頭の筒を押さえこむはたらきがある。

イヌは、喉頭を自在に鼻腔側に出し入れすることができる。ふだんは挿入状態にあるが、吠えたり口でハーハーと呼吸するときには、出すか半挿入状態にしている。餌を食べるには、喉頭を鼻腔に入れた状態にして呼吸を確保しておき、食塊は筒になった喉頭の脇を通って食道へ送りこまれるか、あるいは大きな食塊のばあいは、喉頭蓋が自動的に押し倒されて喉頭をふさぐ仕組みになっている。

これがヒトのばあいにはまったく事情が異なり喉頭がずっと下にさがっている。…そこで、ヒトは食物をのむ瞬間が大問題となる。下方でぽっかり口を開けている喉頭(気管の入口)に食塊がはいらないように、喉頭全体を持ちあげて蓋をする。つまりその瞬間は呼吸を止めて、喉頭を締めつけつつ食塊を押し下げて飲みくだすのである。
《引用終り》

これは、直立姿勢になることで首の角度が変わってしまったことが原因と考えられています。そのおかげで、自由な発声ができるようになりましたが、嚥下は非常に難しいものになったということのようです。

ものごころついた頃には特に意識することなく食べ物を飲み込んでいるわけで、そんなに難しい行為でもないと思っておりました。でも、高齢になると嚥下困難という状況はよく見られます。食物が肺に入って肺炎にでもなれば命取りになります。もう長くないと言われた方が、胃ろうの手術をしたことで何年も生きられるようになる例も少なくないようです。

それだけ、飲み込むことは難しいことなのですね。

《初めから読む》
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J教材の140番まで終わりました。

121番からは判別式、131番からは解と係数の関係です。

そういえばそういうのがあったな〜と懐かしい感じです。

判別式はいいとして、解と係数の関係って何かいいことあるの?という印象でした。

でも、大人になって見てみると、二次方程式を自由自在に操っている感じがして、やはり楽しいです。

特に、解の公式を使って導き出された±√が付いている解の場合、α+βやαβを計算すると、厄介な部分がきれいに消えてしまって、有理数になってくれます。この辺の便利さが数学的に重要なことなのでしょう。

証明問題も、いかにも数学的な内容になりました。これでこそ数学です。やはり三角形の合同だけじゃパッとしません。

【グラス片手に大人の公文】数学〔J-140〕
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