トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2012年04月

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

ついに、性に関する記述です

《以下引用》
愛とは、かつて成立していた男女両性具有への追憶と憧憬である。人間は性愛の中に、かつての本来的な在り方を無意識のうちに(これを本能と言い換えてもよい)志向しているのである。どんな人間も止み難い異性への憧憬と性愛を通して満たされたいという止むにやまれぬ衝動に駆られてゆくのも深い形而上的理由があるのだ。しかし、一方で性の分裂が人間の歴史に計り知れない暗い影を落としてきたことも事実である。人間は情欲に燃え、満たされぬ苦悩を募らせつつ、性のエネルギーは人間の意識下に鬱々とそのはけ口を求めて彷徨う。いずれにせよ、人間の愛の中に流れているどんな感情をとってみても、その一つ一つが深く形而上的な悲劇の投影、あるいは反復をなしているのである。
《引用終わり》

もともと一つであったものが二つに分けられているために、再び一つという本来的な状態に戻ろうとする…それが愛。

電気の+と−、磁気のNとSのようです。自分に無いものを持つ人に対して抱く、尊敬、憧憬、羨望、嫉妬…これらの感情も、再び一つという本来的な状態に戻ろうとする求心力が発端となるのでしょうが、自他の別が頑として存在しているために、そのレベルに留まってしまっているということなのでしょう。

男女の分離とは、生物学的に言えば有性生殖の開始のことであろう、という指摘は、以前書いております。「性」の別は、単に自分が持っていないものに対する求心力以上の意味があります。それは「死」が関わってくることです。

それについては、次回のお楽しみ…

《つづく》
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だたん:GV27(督脈

〈取穴〉:前正中線上で、赤唇上縁に取る。
〈標準〉:顔面部、上唇結節の中点。



〈筋肉〉:口輪筋。

〈運動神経〉:顔面神経。
〈知覚神経〉:上顎神経。

〈血管〉:上唇動脈。

〈主治〉:唇炎、歯肉炎、口臭。
〈特殊〉:

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」
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2000円コースの構成例
〔1〕触察のみ:触察(35分)
〔2〕鍼か灸か:触察(33分)+鍼(4本)or 灸(4壮)
〔3〕鍼も灸も:触察(31分)+鍼(4本)+ 灸(4壮)

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で 1742円
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・人数に関わらず:238円

追加項目:
・鍼25円(1本)、灸25円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)99.5は2月のものです。
※当院の価格に対する考え方はこちら

・4月の価格
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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「3、自信と余裕がない(1988〜1993)」の「4 ちょうどには、評価よりも記録」を読みました。(小林教室収蔵

公氏の素晴らしいところは徹底した現場主義だと思います。それには記録が必要です。

《以下引用》
「特長」〈23〉「認める、ほめる、あせらない、腹を立てない、関心のあるものを選んで与える」ために、どうしても必要なのが〈記録〉をとるということです。子どもに何をしてあげたのか、また子どもはいつ何ができるようになったかをはっきり確認することなしには、次に何をしてあげたらいいかが正しくわからないからです。

記録をとり続けることによってこそ、母親は、なかなか気づきにくいわが子の成長と能力の伸びを確認できますし、その伸びを(他の子どもとくらべるのではなく)おおいにほめることもできます。親をおおいにほめることで子どもはさらに伸びていきます。さらに大切なことは、先生がその記録を見て母親をおおいにほめることで、母親は子どもの成長をしっかり確認でき、そのことが親自身の成長を可能にするという点です。(『山彦119』1989)
《引用終わり》

「ほめるために記録する」ということと「親をほめる」というのは興味深いことです。

《以下引用》
公には昔から記録魔と言われるほどの性癖があった。記録をとるから、違いも見える。せっかくの記録をとりわすれて、あとで後悔することのないように、記録にはいつも注意する。比較するものが多くなればなるほど、子ども一人一人の差もわかる。…親の目は子どもへ子どもへと向かう。

生徒事例は指導の宝庫。調べれば調べるほど、おもしろい。学習は個人別とはいうものの、記録にはそれでもある傾向性が表れる。公は事例を徹底して調べる。そうして見出したのが、「歌」であり、「四歳読書」「三歳読書」「二歳読書」だった。「記録をとれ!」という公の言葉には、公文式を守れの響きさえあった。
《引用終わり》

数学者であるがゆえの統計的手法ということでしょうか。多くの事例から、傾向性を帰納的に見つけ出していく。より良いものを追求し開発していくには、実際のところ、これしか方法は無いと私も思います。

《つづく》
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悟りへの道 に参加中!
「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

さらに、復活が先か死が先か、というのが問題になるらしい。

《以下引用》
主は初めに甦り、それから死んだのである。 『ピリポの福音書』
《引用終わり》

通常は死ななければ甦ることはできないはずですが、宗教的には、甦るのが先でそれから死ななければならない。

この順番の場合、キリスト教で言う「復活(甦ること)」は仏教で言う「悟り」と同義語のようです。生きているうちに甦れば(悟れば)、本源へと還ることができます。

順番が逆の場合(通常、多くの場合はこちらの道を辿るけれども)、死んでしまうと中間世界(バルドとかバズラフとか呼ばれる場所)に行ってしまいます。その後の復活は、再びこの二元性の世界に生まれ堕ちることを意味します。

私たちは生きているうちに、甦らなければいけない…

《以下引用》
さて私は熱がひどくなり、いまにも死にそうでした。もしそのときこの世から去ったならば、私はどこへいったことでしょうか。あなたの真実の秩序のもとに、自分の行いにふさわしい地獄の火と責め苦のもとに行くよりほかなかったでしょう。……しかしあなたは、このような状態のまま私が二重の死をとげることを、お許しにならなかった。実際、母がどれほど私のことを心配していたか、私を霊において産むために、肉において産んだときよりもどんなに大きな気遣いをしていたか、私はとうてい言いあらわすことができません。(アウグスチヌス『告白』)
《引用終わり》

悟らないうちには死ねない…これが生きる意味であり、命を大切にしなければいけない宗教上の理由ということになるでしょうか。

《つづく》
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すいこう:GV26(督脈

〈取穴〉:前正中線上で、人中の中央のやや上に取る。
〈標準〉:顔面部、人中溝の中点。別説では上から3分の1。



〈筋肉〉:口輪筋。

〈運動神経〉:顔面神経。
〈知覚神経〉:上顎神経。

〈血管〉:上唇動脈。

〈主治〉:顔面神経麻痺、三叉神経痛、失神。
〈特殊〉:救急の常用穴。

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」
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平均:2024円
最安値:1000円
最高値:3100円

初診者と紹介者1000円キャンペーンは継続中です。

※当院の価格に対する考え方はこちら

・2月の実績
・3月の価格
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L教材の120番まで終わりました。

『戦国策』は前漢の時代にまとめられたもので、前漢の前の戦国時代のことが書かれています。いくつもの国がある中で、その間の外交交渉を担う「説客(ぜいかく)」という人たちがいました。彼らが使った弁論術、詭弁や巧みな比喩や寓話が、一国の命運を救っていくところは実に痛快です。

「蛇足」「漁夫の利」「先づ隗より始めよ」の一節が教材では引用されています。いずれも以前習ったものですし、故事成語として今まで何度も使いましたし、寓話の内容もだいたい覚えているのですが、戦国時代の外交交渉で使われていた点だけはすっかり忘れていました。

それだけ、寓話が面白いということだと思います。

『陶淵明』の「桃花源記」「飲酒」「五柳先生」などは確かに高校で習いました。「五柳先生」を「ゴリラ先生」と呼んで喜んでいた記憶があります。「桃花源記」は、不思議な国に迷い込むところや風刺がきいているところなど、「ガリバー旅行記」に似てます。

「飲酒」の「ここに真の意あり、弁ぜんと欲してすでに言を忘る」は、『荘子』の「真の弁説は理論を振り回さないものであり、言論が分析的になればなるほど真実というものは把握できない」という考え方をベースにしているとのこと。とってもいい解説文を引用して下さっています。

呂律が回らないほど酔っぱらって、困ったものですね…という意味だとばかり思っていました。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-120〕
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

《以下引用》
血肉で蒔かれたわれわれ人間には死が避けられない。ところが、イエスのアポクリュフォンの一つは死すべきものから不安なるものへと人間を連れ戻し、再び死を味わうことがないように用意を整えることであった。すると、そもそも土で造られた肉体という形をとって存在すること自体に問題が在りはしないかということだ。そう、われわれは何よりもこの患いの本である肉体(老子の言葉)、あるいは空海が「六道の苦身」と呼んだものから開放されなければならないのだ。
《引用終わり》

解剖学的に人体が矛盾だらけであることを考えると、これが全知全能の手による被造物としては余りにお粗末です。「土で造られた肉体」は泥船のようでもあり、そう「いう形をとって存在すること自体に問題が在りはしないか」という指摘は当然のように思います。

《以下引用》
しかし、肉体から開放されるためには、心という要素から解き放たれねばならないと気づいている人は少ないようだ(「生死を離るゝをいうなり」『一遍上人語録』)。というのも、生と死という、一見肉体にかかわるように見える出来事も、実は、心に深く根ざしたものなのだ。心と肉体の関係を大変分かり易く言ったものとして、リチャード・バックの「我々の肉体は思考そのものであって、それ以外の何ものでもない」(『かもめのジョナサン』)を例に説明してみよう。ここでは思考となっているが、心と理解しても大過はない。肉体は思考(心)そのものであるという彼の洞察は、仏教的に言えば、「生死(肉体)はただ心より起こる」(『華厳経』)ということになるだろう。ともあれ、肉体から開放されるためには思考、つまり心の鎖を断たねばならないのだ。彼が続いて「それ(肉体)は目に見える形をとった君たちの思考そのものに過ぎない。思考の鎖を断つのだ。そうすれば肉体の鎖も断つことになる」と言うのもそのためだ。肉体は思考(心)を離れて存在しないから、思考の鎖を断つことが肉体の鎖も断つことにもなる。われわれを構成している肉体と心(思考)の要素から自由にならない限り(仏教はこの二つの要素を本来一つのものと考え「身心一如」と言う)、われわれは本当の意味で自由に天翔ることはできないのだ。
《引用終わり》

思考は、前出の3つの身体(霊的、心的、物質的)の心的に属します。悟ったときに残るのは霊的身体でしょうから、「悟り」ということで大別すれば霊的と心的・物質的の二つに分かれます。ゆえに「身心一如」。

科学的に見ても、思考とは脳神経の活動と言えるので、思考と肉体を一つに扱うのは変ではありません。また、思考は、随意運動はもちろんのこと、ホルモンの分泌や自律神経にも大きな影響がありますから、「肉体は思考から離れて存在しない」というのも変ではありません。

もっとも、ここでは唯心論的な意味合いを含んでいるんだと思いますが…。

「思考の鎖を断つ」とは、「止」のことでしょう。

《つづく》
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そりょう:GV25(督脈

〈取穴〉:前正中線上で、鼻先の陥凹部に取る。
〈標準〉:顔面部、鼻の尖端。



〈筋肉〉:

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:眼神経。

〈血管〉:顔面動脈、鼻背動脈。

〈主治〉:鼻の諸疾患。
〈特殊〉:

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」
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