「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。
ついに、性に関する記述です。
《以下引用》
愛とは、かつて成立していた男女両性具有への追憶と憧憬である。人間は性愛の中に、かつての本来的な在り方を無意識のうちに(これを本能と言い換えてもよい)志向しているのである。どんな人間も止み難い異性への憧憬と性愛を通して満たされたいという止むにやまれぬ衝動に駆られてゆくのも深い形而上的理由があるのだ。しかし、一方で性の分裂が人間の歴史に計り知れない暗い影を落としてきたことも事実である。人間は情欲に燃え、満たされぬ苦悩を募らせつつ、性のエネルギーは人間の意識下に鬱々とそのはけ口を求めて彷徨う。いずれにせよ、人間の愛の中に流れているどんな感情をとってみても、その一つ一つが深く形而上的な悲劇の投影、あるいは反復をなしているのである。
《引用終わり》
もともと一つであったものが二つに分けられているために、再び一つという本来的な状態に戻ろうとする…それが愛。
電気の+と−、磁気のNとSのようです。自分に無いものを持つ人に対して抱く、尊敬、憧憬、羨望、嫉妬…これらの感情も、再び一つという本来的な状態に戻ろうとする求心力が発端となるのでしょうが、自他の別が頑として存在しているために、そのレベルに留まってしまっているということなのでしょう。
男女の分離とは、生物学的に言えば有性生殖の開始のことであろう、という指摘は、以前書いております。「性」の別は、単に自分が持っていないものに対する求心力以上の意味があります。それは「死」が関わってくることです。
それについては、次回のお楽しみ…
《つづく》
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。
ついに、性に関する記述です。
《以下引用》
愛とは、かつて成立していた男女両性具有への追憶と憧憬である。人間は性愛の中に、かつての本来的な在り方を無意識のうちに(これを本能と言い換えてもよい)志向しているのである。どんな人間も止み難い異性への憧憬と性愛を通して満たされたいという止むにやまれぬ衝動に駆られてゆくのも深い形而上的理由があるのだ。しかし、一方で性の分裂が人間の歴史に計り知れない暗い影を落としてきたことも事実である。人間は情欲に燃え、満たされぬ苦悩を募らせつつ、性のエネルギーは人間の意識下に鬱々とそのはけ口を求めて彷徨う。いずれにせよ、人間の愛の中に流れているどんな感情をとってみても、その一つ一つが深く形而上的な悲劇の投影、あるいは反復をなしているのである。
《引用終わり》
もともと一つであったものが二つに分けられているために、再び一つという本来的な状態に戻ろうとする…それが愛。
電気の+と−、磁気のNとSのようです。自分に無いものを持つ人に対して抱く、尊敬、憧憬、羨望、嫉妬…これらの感情も、再び一つという本来的な状態に戻ろうとする求心力が発端となるのでしょうが、自他の別が頑として存在しているために、そのレベルに留まってしまっているということなのでしょう。
男女の分離とは、生物学的に言えば有性生殖の開始のことであろう、という指摘は、以前書いております。「性」の別は、単に自分が持っていないものに対する求心力以上の意味があります。それは「死」が関わってくることです。
それについては、次回のお楽しみ…
《つづく》