「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。
グノーシスの宗教では、人間が存在する場所として、この世、中間、復活の三態が考えられているそうです。
《以下引用》
…復活には二つあることになる。一つは永遠のいのち(霊のからだ)に蘇り、本源の世界(プレーローマ)へと繋がる「第一の復活」であり、キリスト教(だけではないが)が勧めている真の意味における復活である。もう一つは、死はすべての終りと高を括っている愚か者も含め、死しても本源の世界(永遠の故郷)へと辿り着くことができず、無知ゆえに、真に悪しきものから「中間の場所」へと入って行く「第二の復活」である。
《引用終わり》
「復活」は解脱、「中間」は輪廻を繰り返している状態、と置き換えれば、インド哲学と同じになるかもしれません。
さらに、血肉のからだ(肉体)を脱ぎ捨てても、復活を成し遂げずに(つまり霊のからだを得ずに)中間世界を彷徨っているからだを考える必要があると指摘しています。
《以下引用》
人間はその本質において、霊的、心的、物質的の三種類に分かれて、存在するようになった。(『三部の教え』)
…現在のわれわれが知っているのは一番外側にあって物質からなる身体の次元である。その内側に心(魂)からなる身体(次元)がある。生と死、闇と光、神と悪魔、あらゆる二元対立はその中にあり、天国と地獄もその心に属している。肉体を脱ぎ捨てて「中間の場所」を彷徨う者はこの心からなる身体を纏っているのだ。そして、さらなる内側に究極の次元である霊からなる身体がある。それはもちろん、真理の身体(真なる肉)と呼んだものであり、完全に満たされたプレーローマの次元なのだ。その真理の身体はイエスの場合と同様、われわれが本来そうであったところの身体であり、真の復活を通してわれわれが再び回復することのできる身体と言ってもいいし、また世界(次元)と言ってもよい。そして、前の二つはいずれもこの真理の身体の模像であり、それらは真理の影、つまり幻影の世界をなしているのだ。
《引用終わり》
緻密な論理を積み上げた結果、霊とか魂に到達しました。
昔、オーラカメラをいじっていた頃、オーラの本も読みました。その時は、七つくらい自分の身体があって、重なっているというような考え方だったと思います。
でも、3つくらいで充分だと思います…
《つづく》
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。
グノーシスの宗教では、人間が存在する場所として、この世、中間、復活の三態が考えられているそうです。
《以下引用》
…復活には二つあることになる。一つは永遠のいのち(霊のからだ)に蘇り、本源の世界(プレーローマ)へと繋がる「第一の復活」であり、キリスト教(だけではないが)が勧めている真の意味における復活である。もう一つは、死はすべての終りと高を括っている愚か者も含め、死しても本源の世界(永遠の故郷)へと辿り着くことができず、無知ゆえに、真に悪しきものから「中間の場所」へと入って行く「第二の復活」である。
《引用終わり》
「復活」は解脱、「中間」は輪廻を繰り返している状態、と置き換えれば、インド哲学と同じになるかもしれません。
さらに、血肉のからだ(肉体)を脱ぎ捨てても、復活を成し遂げずに(つまり霊のからだを得ずに)中間世界を彷徨っているからだを考える必要があると指摘しています。
《以下引用》
人間はその本質において、霊的、心的、物質的の三種類に分かれて、存在するようになった。(『三部の教え』)
…現在のわれわれが知っているのは一番外側にあって物質からなる身体の次元である。その内側に心(魂)からなる身体(次元)がある。生と死、闇と光、神と悪魔、あらゆる二元対立はその中にあり、天国と地獄もその心に属している。肉体を脱ぎ捨てて「中間の場所」を彷徨う者はこの心からなる身体を纏っているのだ。そして、さらなる内側に究極の次元である霊からなる身体がある。それはもちろん、真理の身体(真なる肉)と呼んだものであり、完全に満たされたプレーローマの次元なのだ。その真理の身体はイエスの場合と同様、われわれが本来そうであったところの身体であり、真の復活を通してわれわれが再び回復することのできる身体と言ってもいいし、また世界(次元)と言ってもよい。そして、前の二つはいずれもこの真理の身体の模像であり、それらは真理の影、つまり幻影の世界をなしているのだ。
《引用終わり》
緻密な論理を積み上げた結果、霊とか魂に到達しました。
昔、オーラカメラをいじっていた頃、オーラの本も読みました。その時は、七つくらい自分の身体があって、重なっているというような考え方だったと思います。
でも、3つくらいで充分だと思います…
《つづく》