トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2012年02月

皆様はどのくらいの頻度でクレームしてるものか分かりませんが、私は黙ってることができない方なので多いんじゃないかと思います。

今年の初めころから、うちの近くで住宅の新築工事が始まりました。一月の中頃、基礎工事をしているときに、工事業者がダンプを道路のど真ん中に止めて作業してました。まだ余り降雪もなく、幅寄せすれば他の車は通行できるにも関わらず、です。時間は朝の8時からですから、通勤通学で、1分を争うような車が多く通ると思われる時間帯。通りかかった車がクラクションを鳴らしても無視して作業を続行。たまらず、「車が通れないんですけど」と言いに行った人がいたのですが、そうしたら工事している敷地内にあっさり移動しました。止めるところがなくて路駐してたのではなかったのです。この時から、カチンときてました。

二月二日に大雪が降りました。連日、除雪に追われ疲労困憊の状態でしたが、五日(日曜日)は天気が良かったので死ぬ思いでご近所の皆さんが除雪を行い、道路を広くしたりもしたのでした。

ところが、翌6日の朝、何の前触れもなく、工事現場に人が集まっていて、皆で除雪して確保したスペースにちゃっかり乗ってきた車を無断で縦列駐車していたのでした。そして、一日、通行止め。断続的だったかもしれないけど、空の大型トラックが道路の真ん中に少なくとも午前中は止まっていました。

その日の夜に、これに関する苦情を、この工事を担当している大手住宅メーカーに対して、メールしました。●車を路上駐車するのなら、幅寄せをして欲しい●他人が除雪したところに駐車するなら声がけくらいすべきではないか●通行止めをするなら事前に周囲の住民にチラシなりで連絡してくれてもいいじゃないか…というようなこと。

2時間後くらいに現場の責任者から電話が来ました。「どうもすみませんでした」を連発したので謝っているのだと思い、上記の件をお願いできないかと話してみたのですが、道路の通行止めはほんの少しの間だったから大したこと無かったでしょう?みたいなことを言うのです。で、私が午前中2回通ったけど2回とも迂回させられたとか、近所の人がずっと通れなかったと言ってたとか申し上げましたら、「私は建設工事が間違いなく行われているかを管理する立場の人間だから道路のことはよくわかりません」とおっしゃいました。「現場の責任者というのは道路の方も責任があるんでしょう?道路の方は管理できないのなら道路の方の責任者が別に必要だということではないですか?」と申し上げたら、「そうですね…」と気のない返事。

そして、「私共のような仕事というのは誰にも迷惑をかけずに進めることはできませんので…」とおっしゃったのです。「だから、しょうがないでしょうということなのですか?」と尋ねましたら、「そんなことは言ってません!」とおっしゃる。「では、どういうことなのですか?」というと「私共のような仕事というのは…」とまた同じことを繰り返し同じ所で言葉を止めました。「だから、しょうがないというんでしょう?」と言いましたら、「こんな言葉尻つかまえられても水かけ論ですよ!」とおっしゃる。

この人には何もお願いできそうにないと思ったので、「とにかく私が迷惑したということを現場の責任者のあなたにお伝えできたので、もうこれでいいです。終わりにしましょう。」と言いましたら、「私共は営業の会社ですから、このような件を電話で済ませるようなわけにはいきません。直接お会いしたいので住所を教えてください。」とおっしゃる。会っても、あなたが水かけ論と呼ぶようなやりとりを面と向かってやるだけのことでしょうから御勘弁下さい、と言って電話をきりました。

でも、翌日、さがえ屋の菓子折を持って、我が家にいらっしゃいました。私が家にいる時で良かったです。また、「どうもすみませんでした」を連発して、菓子折を差し出します。私は誇り高きクレーマーであってユスリ・タカリではない(一般的にはユスリ・タカリ目的に苦情を言う人をクレーマーと言うみたいですね)ので、「こんなものはいただけません」と言いました。それよりも、周辺の住民に迷惑をかけない努力をお願いできないものかと私が話し始めますと、その現場責任者様の携帯電話が鳴りました。私が話し中だったにも関わらず、この方は何のためらいもなく電話に出ると、話ながらさっさと我が家から立ち去ってしまいました。私は追いかけて菓子折をその人の手に握らせ「電話が来たから『はい、さよなら』というのは失礼じゃないですか!」と叫んだのですが、電話を続けていらしたので、そのまま帰ってきました。

謝りに来て、この態度というのは考えられません。この人はただ菓子折を置きに来ただけなのですね。口では謝っていたけれど、済まないという気持ちは全くないのだなということが分かりました。

余りに頭にきたので、この様子をメールに書きまして、支店長宛に送りました。「御社の責任者様のビジネスマナーはとても私には真似できない」というようなことを書き添えて。数日後、支店長様より、丁重な、「どこに出しても大丈夫な」というよりは「どんな案件にでも流用できそうな」謝罪文がメールで送られてきました。一応、ここで諦めようと思います。続きがあれば、またご報告します。

「誰にも迷惑をかけずに進めることはできません」というのは何事もそうなのでありまして、「なるべく迷惑をかけないようにする努力をしているかどうか」が大事なのです。傍目から見て、そういう簡単な努力すら怠っているように見えるから苦情を言っているのであります。その努力をしたくてもできない事情が何かあるのなら教えて欲しくて、対話しようとしているのであります。

それなのに、何も言わせまいとしているかのように「どうもすみません」を連発する。すまないと思っていないのなら、言って欲しくないのです。

でも、そうやって封じ込めて、それでも黙らなければ赤子をあやすようにお菓子を預けるという方法。結局、これが他人の迷惑を顧みずに自分たちのやり方を押し通す、もっとも効率的なやり方なのかな…と思いました。

東電さんも、「すみません」と言いながら、値上げは自分たちの権利と主張しています。政界、官界でも広く行われている、慣習なのですね。やっと、分かりました。

今回のことに関して言えば、道路の方の責任者を内覧会とか担当している営業の人にやらせて、前日くらいまでに周辺にチラシを配って「通行止めの御協力」をお願いする。これは同時に「二階建ての家を一日で組み上げる工事をしますよ〜」という告知にもなり、「見物したい方はご自由にどうぞ!」とすれば立派な宣伝になるような気がするのです。

一日で家が建つというのは今では珍しくも何ともない技術ではありますが、見てみたいという気持ちは私の中にはあります。一日しかかからないから、見物できる機会も少ないはずです。出来上がった家の中を見るのも面白いことですが、組み上がっていく過程を見るのも楽しいと思うんですけどね…。

こんなふうにきちんと通行止めを教えてくれる工事業者と言うのは少ないと思うのです。だから、教えてくれたというだけで私なんかは好感度アップするはずです。ただ、内覧会で名前書かせるより、ずっと効果があるような気がするんですけどね…。

こういった前向きな提案を準備している時だけクレームをするように心がけております、誇り高きクレーマーなので。
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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「2、自分から学ぼうとしない(1985〜1988)」の「3 作業力と読書力」を読みました。(小林教室収蔵

前回書きました公文式指導第一目標の変更で「読書力重視」ということになったわけですが、かつて提唱していた「算数一科目主義」はどうなったのか。これは「一科目主義」ということで、一貫しているということであります。

《以下引用》
…公の「一科目主義」に何の変更もなかった。力の弱い生徒には多くの課題を与えてはいけない。与えても消化不良になるだけである。まず、得意科目を中心にして、基礎学力を学年以上にまで伸ばす、そして、頭を改善する。学習態度をととのえる。そうすれば、勉強とは、なるほど、こうしてやるものか。その後、他科目へと進むべきなのだ。学習の方法は自覚的になれば、効果も高まる。全教科をまんべんなく教える塾とは、その指導の仕方が根本的にちがう。

公文式の特長である一科目主義が、これまでは数学だけであったため、数学一科目主義になっていただけである。
《引用終わり》

国語力の重要性は、言われてみるとナルホドです。

《以下引用》
小学校と中学校の、要求される国語力のレベルの違いが意外にも知られていないのだ。国語といえば、文章を読んで、漢字や語句を覚えるぐらいにしか理解されていない。しかし、子どもたちの国語力の差は予想以上に大きい。まず、読むスピードがおそい。このスピードの遅さは文章理解にも悪影響をもたらす。重要な情報とそうでないものとの区別ができにくいから、音に出して読んではいても、そこから取り出す情報の量には大きな差が生じてしまうのだ。しかも、国語の教科書は、意外にも、数学や理科、社会の教科書よりも、語彙レベルでも、文レベルにおいても易しい。国語力不足がてきめん、他科目の学習不振をまねいてしまう。
《引用終わり》

公文の国語教材には、理科の本とか、社会科の本の文章も含まれています。専門書の読解力も国語力ということになると、国語という教科は教科の垣根を越えてどこまでも関わってきます。

《つづく》
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悟りへの道 に参加中!
「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第五章 真知の覚(グノーシス)」を読みました。

《以下引用》
真珠は泥の中へ投げ込まれても、価値を失いはしない。…神の子たちについてもちょうどそれと同じである。彼らがどこに居ることになろうとも、それでも、彼らは彼らの父にとっては常に変わらない価値を持っている。(『ピリポの福音書』)
《引用終わり》

これと似た例えは『如来蔵経』にたくさんありました。

《以下引用》
イエスが言った、「私は彼らのすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」。(『トマスの福音書』77)

神は至るところに存在する。人間だけではなく自然の中にも神は存在するが、それはひとえにわれわれの「見る」能力に関係している。尊いのは人間だけではなく、見るものすべてが神なるもの(神性)を顕しているから尊いのだ。人も物も利用価値があるかどうかという価値基準で動いているところに現代社会の病巣の一つがある。…

ともあれ、宗教を考える場合、尊大になるのでも、また不当に自分を蔑むのではなく、「真珠は泥の中に投げ込まれても、価値を失いはしない」と言ったイエスの言葉だけは心に留めておいて良いだろう。
《引用終わり》

目ある者が見れば、この世は全て光り輝いている…

《つづく》
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2000円コースの構成例
〔1〕触察のみ:触察(35分)
〔2〕鍼か灸か:触察(33分)+鍼(4本)or 灸(4壮)
〔3〕鍼も灸も:触察(31分)+鍼(4本)+ 灸(4壮)

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で 1743円
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・人数に関わらず:217円

追加項目:
・鍼25円(1本)、灸25円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)99.6は12月のものです。
※当院の価格に対する考え方はこちら

・2月の価格
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「背筋のはなし」という記事を以前ブログに書きました。「セスジを伸ばす」ことと「ハイキンを伸ばす」ことは全く逆ですよ、という話。今回は「伸ばす」ということについて考えてみましょう。

「身体を伸ばす」という動作は、両手を挙げ、両手の指からつま先まで身体を真っ直ぐに伸ばすこと。身体の長さが最長になる状態と言っていいでしょう。とっても気持ちいいですよね。

さぞや、全身の筋肉がストレッチされ、リラックスしているだろうと思いきや、そうでもなさそうです。グーッと伸びた瞬間にふくらはぎ(腓腹筋)がつったりしたことありませんか?

背筋に関して言えば、「セスジ」を伸ばしていますから「ハイキン」は伸びた状態ではありません。お世辞にもストレッチされているとは言えない状態。しかもかなり力が入っていますからリラックスしているとも言えません。伸展している関節の伸筋は全てこの状態になっていると言っていいでしょう。

これに対する屈筋ですが、これはだいたい伸びた状態で、そんなに力も入っていないかもしれません。だから、ストレッチにはなっているかもしれない。でも、私の場合、屈筋にも少し力が入っているような気がします。脱力したリラックス状態ではないようです。

さて、「伸びる」快感はストレッチとかリラックスとは異質のものらしい…だとすると、思いっきり伸びた時の快感は何なのでしょう?もちろん、私もわかりません(笑)

私なりに想像しますと、背骨(とその周辺の筋群)というのは魚時代からの構造です。前に進もうという形に出来上がっているはず。それが、人間として縦になった場合には上に伸びようという形になります。「伸びる」ということは、そういう本来的な衝動に回帰することなのかな、と思います。

姿勢を良くする(「セスジ」を伸ばす)ということは、背骨の本来的な使い方だから「良い」だと思います。

もうひとつは、力を入れることも快感なのではないかな?ということ。筋肉に力を入れると、その周辺の静脈は圧迫され静脈血が押し出される、それがマッサージに似ているので快感なのではないか、と。

運動をしよう!という気持ちがある種のホルモン(セロトニンだったかな)を分泌させ、それがうつ病の予防などに効果があるというのもどこかで読んだ気がします。

理由づけはともかく、筋肉に力を入れることが快感だというのはまんざら間違いでも無いような気がしています。

みなさんは、どう思われますか?

《つづく》
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K教材の190番まで終わりました。

『雨月物語』を読みました。「1776年刊行。上田秋成作。読本。和漢の多くの書を典拠とした翻案怪異小説集で、9編の短・中編から成る。作者の倫理観・人間認識が織り込まれた傑作。」と教材で紹介されています。

1776年と言えばアメリカ独立の年。享保に生まれ、天明とか寛政といった時代を生きています。天明年間に次の教材で出てくる本居宣長と論争したりしています。

読本というのは、大衆娯楽小説のようなものでしょう。江戸怪異文学という分野があるほどに、江戸庶民は怪談好きだったのでしょう。そこに僧の背徳や妖しい美を織り込んだ深みは、それだけ江戸文化が円熟しているということだと思います。

現代人もホラーとか好きですよね。

【グラス片手に大人の公文】国語〔K-190〕
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第四章 永遠の故郷」を読みました。

《以下引用》
宗教とは本来、外側を探し求めた末に、一つとして真に安らげる場所もなければ、移ろう時間の中に真実はないと知った者が、内側へと目を転じたところから始まる。その旅を歩み始めた者がたとえどれだけいたとしても、本質的にその旅は全く独りの旅であるだろう。なぜなら、少なくともプレーローマへと辿る旅の初めは自分自身と向き合うことになるからだ。…
《引用終わり》

「旅人は自分の家の戸口に辿りつくまでに、他人の戸口を一つひとつ叩かなければならない。…」というタゴールの言葉は「瞑想の心理学」でも引用しました。やはり、目に止まるのは同じフレーズです。

《以下引用》
…このタゴールが言う「内奥の神秘」こそ宗教が説こうとしているものであり、宗教はそれを「隠れた宝」(共観福音書、スーフィズム)、「自家の宝蔵」(禅)、「一つの真珠」(グノーシス)、「摩尼宝珠」(仏教)など、さまざまに呼んだのだ。

まことに、神は造りたもうてのち立ち去ったのではなく、これらのものは神からでながら神のうちにある。一体、真理はいずこにましますか。いずこにおいて味わわれ得るか。心の最も奥深いところにおいてだ。しかるに心は、そこからさまよい出てしまった。道をはずしたものたちよ、心に立ち帰れ。(アウグスチヌス『告白』)
《引用終わり》

《つづく》
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のうこ:GV17(督脈

〈取穴〉:後正中線上で、外後頭隆起の上縁の陥凹部に取る。
〈標準〉:頭部、外後頭隆起上方の陥凹部。



〈筋肉〉:後頭筋

〈運動神経〉:顔面神経
〈知覚神経〉:大後頭神経

〈血管〉:後頭動脈

〈主治〉:後頭痛、頭重、めまい、嗄声、テンカン。
〈特殊〉:

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」
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卒園感謝祭「思い出アルバム」DVD作成を今年も担当させていただくことになりました。昨年はビフォーアフターをメーンにしましたが、同じことをしないのが私流。今年はどうしましょうか…

昨年のDVDを見ていて気付いたのは、4:3の映像を16:9の画面で見ることになるので、両隅の黒が勿体ないということ。もう、16:9がスタンダードですから、16:9で作ってもいい時期なのだなと思いました。「思い出アルバム」をワイドスクリーンで作ることが、地デジへの移行が行われた2011年度を象徴することになります。

それから、AKBなど多人数のステージが最近増えていますが、これが精細なワイドスクリーンにマッチしているように思います。一人の顔をアップすると、シミとか鼻の穴とか、見苦しい部分ばかりが強調されますから、多人数が入れ替わる広いステージをワイドに捉えた方が、見ている方も気分がいい。

そこで今年の「思い出アルバム」は1080iの画面を7分割することにしました。1080iは映像信号としては1440×1080の画素数ですが、元の映像は1920×1080(16:9)です。720×540(4:3)の中窓を4個と480×360(4:3)の小窓を3個で構成することにしました。

BGMには昨年のDVDと同じく、発表会の時の歌をそのまま使いますが、今年はその映像を小窓ひとつを使って映し出すことにしました。

6枚の写真でひとつの画面を作ります。同じ行事の写真を組み合わせることによって、何の時の写真か分かるようにしたいと思います。

やっと10枚ほどできたところです。

(2012/2/3記)
《つづく》
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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「2、自分から学ぼうとしない(1985〜1988)」の「2 幼児方程式よりも四歳読書」を読みました。(小林教室収蔵

公文式指導の第一目標を変更することになりました。

《以下引用》
子どもの能力開発の可能性を考えますと、ことばや読書の能力が先であり、読書とくらべれば、数学などはいつでもできると言えるほどです。読書能力がかなりある子どもであれば、反復回数も少なくてすみ、方程式などは短期間で進めるのではないでしょうか。読書能力が育ってない状態であれば、教材が先にいってなかなか進みにくくなるのは、当然のことと言えるでしょう。その面から言えば、幼児方程式というよりも先に、四歳までに読書ができるようにしておくことのほうが、子どもの能力開発には大切なことであり、結局は子どもも親も指導者もらくな近道と思われます。また、世間一般の方から見られた場合でも、「幼児方程式」というよりは「四歳までに読書」というほうが、かなり受け入れられやすいばかりでなく、当会の能力開発の目的がわかっていただきやすいのではないでしょうか。(『山彦94』1985)

…たしかに公の専門は数学である。あまたの試行錯誤の結果、幼児でも方程式の学習が可能という地点にまでたどりついたのだった。この地点にまできて、公には公なりの達成度を感じたはずである。しかし、こんな成就感に酔う公ではなかった。公の酔いを醒ます例外的な子どもの事例が、幼児で方程式よりも、四歳読書の方が大事と言っていた。公が教育に、すなわち、子どもの奥に見ていたものは、一般に想像するものとはまるでちがう。数学の教師が国語の領域にズカズカと入り込む。

方針などは何度でも変えられる。変えればいいのだ。…
《引用終わり》

この潔さは何なのでしょう。「改めるに憚ること勿れ」という言葉はありますが、なかなか行うに難しであります。自分の半生をかけて築き上げたものをそうやすやすと改められるものでしょうか。守りに入ってもいいだけの実績は既にあったはず…。

それだけ、四歳読書の有効性が無視できなかったということかもしれません。

《つづく》
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