2012年01月
子どもとの交渉術
大晦日に仙台のアンパンマンミュージアムに行ってきました。次女にずっとせがまれていて、やっと去年のうちに達成。初めてだったので結構にぎわっているなと思っていたのですが、「今日は随分空いてるね」という声が聞こえてきましたから、普段はこんなもんじゃないらしい。ラッキーでした。
天気も良かったのですが、その強い日差しのせいか、娘がドキンちゃんのサングラスが欲しいと言い出しました。「そんなの要らない」と何度も却下したのですが、どうしても要るということで、お正月は下のようなファッションでコタツにあたってました…

年明けて、正月に買い物。子どもたちの机の下に敷くマットを買いに行きました。子どもたちはキャラクタものがいいと主張。しかし、その隣にはハート柄で結構かわいいのがありました。サイズは少々小さいものの用途には十分間に合うもので、値段は半分。「これではダメなの?」と尋ねると、口を揃えて「絶対ダメ!」
そうこうしているうちに、娘たちは店の奥にあるゲームを見つけました。そして、「100円ちょうだい!」
「じゃあ、お年玉から天引きね」「何それ意味分かんな〜い」
ということで、ちょっと試してみました。
「これ(キャラクタものじゃない方)を選んでゲームもするか、あれ(キャラクタもの)を選ぶ代わりにゲームは我慢するか、どっちにする?」と聞いてみると、
すかさず「こっち」と、キャラクタものじゃない方を選びました。
さっきの「絶対ダメ!」は何だったんだ!?と妻と顔を見合わせてしまいました。
でも、今度からこれで行こう!ということになりました。
天気も良かったのですが、その強い日差しのせいか、娘がドキンちゃんのサングラスが欲しいと言い出しました。「そんなの要らない」と何度も却下したのですが、どうしても要るということで、お正月は下のようなファッションでコタツにあたってました…

年明けて、正月に買い物。子どもたちの机の下に敷くマットを買いに行きました。子どもたちはキャラクタものがいいと主張。しかし、その隣にはハート柄で結構かわいいのがありました。サイズは少々小さいものの用途には十分間に合うもので、値段は半分。「これではダメなの?」と尋ねると、口を揃えて「絶対ダメ!」
そうこうしているうちに、娘たちは店の奥にあるゲームを見つけました。そして、「100円ちょうだい!」
「じゃあ、お年玉から天引きね」「何それ意味分かんな〜い」
ということで、ちょっと試してみました。
「これ(キャラクタものじゃない方)を選んでゲームもするか、あれ(キャラクタもの)を選ぶ代わりにゲームは我慢するか、どっちにする?」と聞いてみると、
すかさず「こっち」と、キャラクタものじゃない方を選びました。
さっきの「絶対ダメ!」は何だったんだ!?と妻と顔を見合わせてしまいました。
でも、今度からこれで行こう!ということになりました。
優秀児は読書好き(ソ伝15/20)
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優秀児の共通点、それは本好きということでした。
《以下引用》
…幼児で方程式にまで進んだ子どもたちがわたしたちに知らせている、どの子も不意にできるようになったこと、そして、この偶然を生むための環境がそなわっていたことを。実際に調べてみると、はたして、この優秀児たちは、例外なく本好きなのだった。しかも、しぜんな形で周りには、その環境がととのっていた。子どもたちは、この支援を当たり前のように受け、これを吸い取って、自分の可能性の扉をなんの抵抗もなく、スッと開いていく。…
《引用終わり》
この発見を基に、国語、特に読書重視へと変わっていくのだと思います。国語力がないと、算数の伸びにも限界があるようだということは、今も言われています。
《以下引用》
子どもみずから外にあらわす可能性の発現こそ、幼児にも自習ができるという証明である。幼児はかまえることなく、自分で自分の好きな本を選んでは読み、読んでは選ぶ。これはまさに幼児が自習している姿そのものなのだ。幼児のなかの底流には、すでに自習精神があふれ出していた。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。自学自習力を幼児にもつける、だと。公は今さらのように自分の迂闊さを悔やんだ。
《引用終わり》
教室に最初に来た時には机に向かって勉強するなど想像もできないような幼児さんでも、数回通ううちに、大人しく座って、運筆教材や数字盤をやるようになります。机に向かう習慣をつけることは、実は小さい時ほどつけやすいのではないかとさえ、私も最近思います。
幼児さんのそんな変化を発見するたびに、その子の幼児期を有意義にできたような気がして嬉しくなります。
《つづく》
善も善いわけではなく、悪も悪いわけではない(自道17/25)
「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。
人々は二元葛藤の世界から離れようとしない。罪とは、そのこと。悪が罪ならば、善も罪。
《以下引用》
イエスが言った、「あなたがた一つであった日に、あなたがたは二つになった。しかし、あなたがたが二つになるときに、あなたがたは何をするであろうか」。(『トマスの福音書』11)
一なる世界(一元性の世界)にあった人間が二なる世界(二元性の世界)に退転し、そこでわれわれ人間は一体何をし、何を求めているかという問に答えるのはそう難しくない。それは二元相対する「表」、すなわち、生、愛、美、善、喜、富…を、ただひたすら追い求めているだけなのだ。そして、それが自分の幸福につながると誰もが考えている。しかし、事の本質からしてそんなことはあり得ない。というのも、表には必ず「裏」、すなわち、死、憎、醜、悪、悲、貧…が、ついて回るところにわれわれの不安、恐れがあり、それが二元葛藤する世界に存在するわれわれ人間の避けられない宿命なのだ。一例を挙げれば、祝福された生(誕生)が厭うべき死によって終るところに二元性の世界の矛盾と限界があるということだ。そして、ナグ・ハマディ文書はわれわれが生息するこの二元性の世界を「幻影の世界」と言い切る。
生きているものたちは死ぬであろう。どうして彼らは幻影の世界の中に生きられようか。富める者たちは貧しくなり、王たちは投げ捨てられてしまった。万物は流転するものなのだ。この世界は幻影である。こう言っても、私はこの世の事物を不当にけなすことにはならないだろう。(『復活に関する教え』)
《引用終わり》
私たちが日々やっていることは、二つにわけて、一方を選び、一方を捨てるという作業、ただひたすらそれをやっているのだということに、なかなか気付かない。それくらい当たり前になっている。
《以下引用》
光と闇、生と死、右のものと左のものは互いに兄弟である。それらが相互に引き離されることは不可能である。だから、善きものも善いわけではなく、悪しきものも悪いわけではなく、生も生ではなく、死も死ではない。(『ピリポの福音書』)
《引用終わり》
二元性の世界では、自分の幸せの裏に必ず誰かの不幸がある。今の幸せの裏に必ず将来の不幸がある。それは、右にばかりハンドルを切り続けていたら、いつか必ず左にハンドルを切らざるを得なくなるのと同じである。
《つづく》
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。
人々は二元葛藤の世界から離れようとしない。罪とは、そのこと。悪が罪ならば、善も罪。
《以下引用》
イエスが言った、「あなたがた一つであった日に、あなたがたは二つになった。しかし、あなたがたが二つになるときに、あなたがたは何をするであろうか」。(『トマスの福音書』11)
一なる世界(一元性の世界)にあった人間が二なる世界(二元性の世界)に退転し、そこでわれわれ人間は一体何をし、何を求めているかという問に答えるのはそう難しくない。それは二元相対する「表」、すなわち、生、愛、美、善、喜、富…を、ただひたすら追い求めているだけなのだ。そして、それが自分の幸福につながると誰もが考えている。しかし、事の本質からしてそんなことはあり得ない。というのも、表には必ず「裏」、すなわち、死、憎、醜、悪、悲、貧…が、ついて回るところにわれわれの不安、恐れがあり、それが二元葛藤する世界に存在するわれわれ人間の避けられない宿命なのだ。一例を挙げれば、祝福された生(誕生)が厭うべき死によって終るところに二元性の世界の矛盾と限界があるということだ。そして、ナグ・ハマディ文書はわれわれが生息するこの二元性の世界を「幻影の世界」と言い切る。
生きているものたちは死ぬであろう。どうして彼らは幻影の世界の中に生きられようか。富める者たちは貧しくなり、王たちは投げ捨てられてしまった。万物は流転するものなのだ。この世界は幻影である。こう言っても、私はこの世の事物を不当にけなすことにはならないだろう。(『復活に関する教え』)
《引用終わり》
私たちが日々やっていることは、二つにわけて、一方を選び、一方を捨てるという作業、ただひたすらそれをやっているのだということに、なかなか気付かない。それくらい当たり前になっている。
《以下引用》
光と闇、生と死、右のものと左のものは互いに兄弟である。それらが相互に引き離されることは不可能である。だから、善きものも善いわけではなく、悪しきものも悪いわけではなく、生も生ではなく、死も死ではない。(『ピリポの福音書』)
《引用終わり》
二元性の世界では、自分の幸せの裏に必ず誰かの不幸がある。今の幸せの裏に必ず将来の不幸がある。それは、右にばかりハンドルを切り続けていたら、いつか必ず左にハンドルを切らざるを得なくなるのと同じである。
《つづく》
陶道(経穴メモ)
とうどう:GV13(督脈)
〈取穴〉:第1胸椎棘突起の下に取る。
〈標準〉:上背部、後正中線上、第1胸椎棘突起下方の陥凹部。

〈交感神経〉:眼,涙腺,唾液腺,心臓。
〈筋肉〉:棘上靭帯、棘間靭帯
〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:胸神経後枝
〈血管〉:肋間動脈背枝
〈主治〉:発熱、頭痛、感冒、咳嗽、喘息、うつ証、背筋痛。
〈特殊〉:解熱、降圧作用
〈関連痛領域〉:
参考文献1「経穴マップ」
〈取穴〉:第1胸椎棘突起の下に取る。
〈標準〉:上背部、後正中線上、第1胸椎棘突起下方の陥凹部。

〈交感神経〉:眼,涙腺,唾液腺,心臓。
〈筋肉〉:棘上靭帯、棘間靭帯
〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:胸神経後枝
〈血管〉:肋間動脈背枝
〈主治〉:発熱、頭痛、感冒、咳嗽、喘息、うつ証、背筋痛。
〈特殊〉:解熱、降圧作用
〈関連痛領域〉:
参考文献1「経穴マップ」
雪道で転ばない歩き方(その筋2)
それから10日後、娘と一緒に雪道を歩いていたら、かなりの上達ぶりに驚きました。
雪道で転ばない歩き方とは、まず重心をなるべく偏らせないことだと思います。それから、どっちに急に滑り出すか分からないから、どっちから変な力がかかっても体勢が崩れないように足に力を入れておくこと。
で、これは先日書いた「そのまんま筋トレ」のロボット歩きと同じです。
雪道の歩き方は余計な力が入るという点で効率が悪いです。それともうひとつ、重心が偏らないという点でも効率が悪いのです。直立二足歩行というのは、動物の中では格段に効率のいい移動手段らしいのですが、これは直立二足という非常に重心の不安定な体勢に起因しているからです。
「効率が悪い」というのは、車で言ったら燃費が悪いということで、カロリー消費が増えるということです。ダイエットには良いということ。
雪国の人間は、ノーマルモードと雪道モード、2つの歩き方ができます。この雪国モードを、筋トレやダイエットに応用できないか?というのが「そのまんま筋トレ」だと、言えるかもしれません。
《つづく》
鎌倉仏教白熱教室(国語K-090)
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『正法眼蔵随聞記』と『歎異抄』を読みました。今回はどちらも仏教書です。前者は道元、後者は親鸞の言葉をいずれも弟子がまとめたものです。
『正法眼蔵随聞記』での引用部分は、他人を助けるために自分の命を投げる覚悟が持てるか?ということが問題となる箇所です。現代文の解説は、和辻哲郎の「沙門道元」ですが、親鸞との対比によって道元の思想を説明しています。当然、学習者は親鸞にも興味を持つはず。そこで、次の教材が『歎異抄』となるわけで、ここでもありがたい構成になっているなあと思います。
『歎異抄』は、前半の引用部分では悪人正機説について理解することができます。後半の引用部分では、親鸞が弟子を試すように難題を提示し、弟子が困惑したところで「宿業」について覚らせようとしている箇所が取り上げられています。
ところで、親鸞が出した難題とは、「私の言うことには何でも従うんだな?」と念を押した上で「人間を千人殺して来い!」というもの。この究極の選択のような問題提起は「ハーバード白熱教室」を思い出しました。でも、ハーバードに遜色ない迫力と面白さです。
悪人正機説には、善人だけが救われるだろうという一般的な考え方を猛烈に批判したいと言う親鸞の気持ちを強く感じます。ニュートラルに表現すれば、昨日書いた「罪には善も悪も無い」ということかと私は思います。サンデル教授の「正義」に関する講義より、こちらの方が私には興味深いです。
【グラス片手に大人の公文】国語〔K-090〕
罪には善も悪もない(自道16/24)
「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。
人々は二元葛藤の世界から離れようとしない。罪とは、そのこと。悪が罪ならば、善も罪。
《以下引用》
人は時に不条理な事件などに巻き込まれると、つい何の罪もないのにどうしてこんな不幸な目に遭わねばならないのかと言う。ここには何も悪いことはしていないのにどうしてという想いが働いているようだ。しかし、考えてみなければならないことは、罪とは悪しき行い(不善)をいうのだろうか、そうではない。悪は罪(堕罪)の結果生じてきたものであり、悪だけではなく善もまたそうなのだ。つまり、堕罪の結果、われわれは善悪、幸不幸など二元葛藤する世界へと退転してきたということだ。従って、罪はもとより何ら価値を伴うものではなく、われわれが「本来の場所」から堕ちてきた事実を指しているに過ぎない。そして、「罪から来る報酬は死です」とパウロも言ったように、生と死もそうなのだ。なぜなら死は生(誕生)なくしてあり得ないからだ。
《引用終わり》
仏教の視点から『瞑想の心理学』でも同様のことが述べられていました。
《以下引用》
…ひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、死が全人類に拡がったという一連のプロセスは(『ローマ人への手紙』)、決して彼に何かが欠けていたというのではなく、自ら内に懐いた「大いなる富」に目を閉ざし、過ぎ行く「世の富」を求め始めたに過ぎない。
イエスが言った、「アダムは大いなる力と大いなる富から成った。それにもかかわらず、彼はあなたがたにふさわしくならなかった。なぜなら、もし彼がふさわしくなったなら、彼は死を味わうことがなかったであろうから」。(『トマスの福音書』85)
《引用終わり》
「大いなる富」とは真心(心真如)、「世の富」とは妄心(心生滅)と置き換えれば、これは全く仏教と同じに読めそうです。
《つづく》
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。
人々は二元葛藤の世界から離れようとしない。罪とは、そのこと。悪が罪ならば、善も罪。
《以下引用》
人は時に不条理な事件などに巻き込まれると、つい何の罪もないのにどうしてこんな不幸な目に遭わねばならないのかと言う。ここには何も悪いことはしていないのにどうしてという想いが働いているようだ。しかし、考えてみなければならないことは、罪とは悪しき行い(不善)をいうのだろうか、そうではない。悪は罪(堕罪)の結果生じてきたものであり、悪だけではなく善もまたそうなのだ。つまり、堕罪の結果、われわれは善悪、幸不幸など二元葛藤する世界へと退転してきたということだ。従って、罪はもとより何ら価値を伴うものではなく、われわれが「本来の場所」から堕ちてきた事実を指しているに過ぎない。そして、「罪から来る報酬は死です」とパウロも言ったように、生と死もそうなのだ。なぜなら死は生(誕生)なくしてあり得ないからだ。
《引用終わり》
仏教の視点から『瞑想の心理学』でも同様のことが述べられていました。
《以下引用》
…ひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、死が全人類に拡がったという一連のプロセスは(『ローマ人への手紙』)、決して彼に何かが欠けていたというのではなく、自ら内に懐いた「大いなる富」に目を閉ざし、過ぎ行く「世の富」を求め始めたに過ぎない。
イエスが言った、「アダムは大いなる力と大いなる富から成った。それにもかかわらず、彼はあなたがたにふさわしくならなかった。なぜなら、もし彼がふさわしくなったなら、彼は死を味わうことがなかったであろうから」。(『トマスの福音書』85)
《引用終わり》
「大いなる富」とは真心(心真如)、「世の富」とは妄心(心生滅)と置き換えれば、これは全く仏教と同じに読めそうです。
《つづく》
耳はエラだった!(人矛7/13)
「新・人体の矛盾」の「7 耳の歴史」を読みました。(小林教室収蔵)
魚のエラ、見てると不思議です。こんなとこに大きな穴があいてる。人間もこんなだったらかなわんな…
ところが、この穴の名残がちゃんと残ってるんです!それがなんと耳の穴。
耳の穴を入っていきますと、鼓膜にぶち当たります。ここまでが外耳。鼓膜の奥には鼓室(耳小骨が並ぶ)という部屋があります。そこにはノドにつながるに通路(耳管)があります。
普段は鼓膜という扉が閉じていますが、鼓膜に穴があいたりすると煙草の煙を耳から出したりできるようになるそうです。でも、宴会の余興にいいとか言って穴をあけないように。難聴になりますから。
飛行機などに乗って気圧の変化が生じた時、耳管が閉じていると鼓膜の内外で気圧差が生じて聞こえが悪くなります。飴をなめると解消するのは、唾を飲み込む時に耳管が開くからです。耳管が役に立つのはこんな時ぐらいでしょうか。中耳炎の原因になっているのも耳管ですから…
でも、この通路が昔はエラ孔だったのです。原始的な魚には顎に続くエラが数列並んでいたそうで、この最前列のエラ孔が耳管→耳の穴ということらしい。
町を歩いていると、車も通れないような小路に立て札が立っていて、昔は何とか街道というメインストリートだったなんて解説が書いてることがあります。
耳の穴も、そんな昔の大通りと言えそうです。
《つづく》
魚のエラ、見てると不思議です。こんなとこに大きな穴があいてる。人間もこんなだったらかなわんな…
ところが、この穴の名残がちゃんと残ってるんです!それがなんと耳の穴。
耳の穴を入っていきますと、鼓膜にぶち当たります。ここまでが外耳。鼓膜の奥には鼓室(耳小骨が並ぶ)という部屋があります。そこにはノドにつながるに通路(耳管)があります。
普段は鼓膜という扉が閉じていますが、鼓膜に穴があいたりすると煙草の煙を耳から出したりできるようになるそうです。でも、宴会の余興にいいとか言って穴をあけないように。難聴になりますから。
飛行機などに乗って気圧の変化が生じた時、耳管が閉じていると鼓膜の内外で気圧差が生じて聞こえが悪くなります。飴をなめると解消するのは、唾を飲み込む時に耳管が開くからです。耳管が役に立つのはこんな時ぐらいでしょうか。中耳炎の原因になっているのも耳管ですから…
でも、この通路が昔はエラ孔だったのです。原始的な魚には顎に続くエラが数列並んでいたそうで、この最前列のエラ孔が耳管→耳の穴ということらしい。
町を歩いていると、車も通れないような小路に立て札が立っていて、昔は何とか街道というメインストリートだったなんて解説が書いてることがあります。
耳の穴も、そんな昔の大通りと言えそうです。
《つづく》
サンタクロース作戦
余りにも使い古されたダジャレですが、クリスマスは苦しみます。サンタクロースというのが、本当に悩みの種。
欲しいものが何なのか分からないので、おもちゃやさんに連れて行ったりするわけですが、目移りしてなかなか決まらない。「これがいい」とすんなり決まったとしても、サンタ名義のプレゼントだと子どもの前で買うわけにもいかない。
今回は、妻が子どもたちの目をそらしている隙に私が離脱して、サンタ名義のプレゼントを買い、車に隠してから、何食わぬ顔で合流するという方法を取りました。
「パパ、どこに行ってたの?迷子になったらダメでしょう!」とか、言われながら…
人に見られないように行動するというのは、何か悪いことをしているみたいで、そのスリルは多少快感ではありますが、何かと忙しい年末には面倒くさいくなります。本当のことを言った方が楽なんだけど…
熟睡したところ見計らって、枕元に置く。これでサンタの任務終了…
翌朝は、娘に起こされました。「パパ、サンタさん来たみたい…」嬉しそうに言いました。
「中身、見たの?」と私。「まだ見てない」と娘。
中身を見る前に私を起こしたところが、何だか嬉しかった。やっぱり、まだバラさないでおこう。
欲しいものが何なのか分からないので、おもちゃやさんに連れて行ったりするわけですが、目移りしてなかなか決まらない。「これがいい」とすんなり決まったとしても、サンタ名義のプレゼントだと子どもの前で買うわけにもいかない。
今回は、妻が子どもたちの目をそらしている隙に私が離脱して、サンタ名義のプレゼントを買い、車に隠してから、何食わぬ顔で合流するという方法を取りました。
「パパ、どこに行ってたの?迷子になったらダメでしょう!」とか、言われながら…
人に見られないように行動するというのは、何か悪いことをしているみたいで、そのスリルは多少快感ではありますが、何かと忙しい年末には面倒くさいくなります。本当のことを言った方が楽なんだけど…
熟睡したところ見計らって、枕元に置く。これでサンタの任務終了…
翌朝は、娘に起こされました。「パパ、サンタさん来たみたい…」嬉しそうに言いました。
「中身、見たの?」と私。「まだ見てない」と娘。
中身を見る前に私を起こしたところが、何だか嬉しかった。やっぱり、まだバラさないでおこう。
