トトガノート

All about TOTOGA

2012年01月

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K教材の140番まで終わりました。

『徒然草』『太平記』『風姿花伝』を読みました。鎌倉から室町へと移っていきます。

『徒然草』は、誰もが知ってる作品。「書き手も気軽に書いてますから読む人も気軽にね」的なイメージがあったのですが、やはりそれは上辺だけで、底には深〜いものがあるようです。

「仁和寺にある法師」とか「神無月のころ」とか今でも何となく覚えているものがあるのですが、教科書で習っていたのは深みのないところばかりだったんじゃないかと思われるくらいに、教材で引用されている個所は私の今までのイメージとは違うものばかりでした。

今を思うと、古文の授業というのは解釈ばかりに終始していたような気がします。兼好法師の人柄や、後世への影響、現代における評価など、もう少し教えてもらえたら興味を持ったかもしれない。

理系だったから古文なんか(!)に興味を持つ暇がなかったのかもしれませんね。やはり、高校教材は高校に入る前にやるべきです。

『太平記』は、最大の軍記物語なのですね。楠木正成など、天皇を救うために、積極的に犠牲となっていく場面が描かれています。鎌倉時代よりも武士の地位が確固たるものとなり、その忠義の証となる切腹はこの時代に圧倒的な数になるとのこと。新渡戸稲造の『武士道』も引用され、とても興味深い解説文です。

『太平記』は「義」のために命をかける武士の姿が美しく、私は好きなので、もっといろんなところで取り上げて欲しいと思っていたのですが、どうも戦前にかなり取り上げられていたようですね。楠木正成は父の世代には国民的ヒーローだったようです。これが自決を厭わない大日本帝国軍を作り上げたのかもしれません。その反動から、戦後はあまり取り上げられなくなったんでしょうか。

ともかく、この時期の文学を俯瞰する際、無視できない大作であることは間違いないようです。

『風姿花伝』は何となく興味があって、本を買ったことがあります。結局、買っただけで終わってしまいましたが(笑)。生まれつきの美しさ、容貌がいいのはいいと認めた上で、そうでない美しさについても触れています。

確かに論の中に矛盾めいたものがあって、そこが芸術の奥深さだと解し、分かったような分からないような気持ちで読んでいたのですが、世阿弥の中でも整理がついていないようだという指摘が解説にあり、とてもスッキリしました。

【グラス片手に大人の公文】国語〔K-140〕
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第二章 神の国・地の国」を読みました。

ところで、神の国(浄土)はどこにあるのか?地の国(穢土)はどこか?

《以下引用》
六年におよぶ修行の結果、悟りを開いたとされるブッダにとって、この世の見るものすべては美しく、欠けるものは何もない。いわば仏土(浄土)と映っている。しかし、弟子たちの目にはとてもそうは見えていない。むしろ穢土といった方がふさわしいのではないかと弟子の一人であるシャーリプトラが疑問に思っていると、ブッダは、彼の心を察し、太陽や月の光が輝いていても、目の不自由な人にとって闇としか映らないように、この世は仏土であるけれどもそう見えていないのは、あなたがたの咎(罪)であって、誰のせいでもない。この世が仏土と見ることができないのはあなたがたの側に問題があるとして、「舎利弗よ、我が此の土は浄けれども汝見ざるなり」と結んでいる。
《引用終わり》

「耳ある者は聞け」の目バージョンみたいなものですね。

耳があったとしても超音波は聞こえません。超音波が聞こえるコウモリやイルカと人間とでは同じ音を聞いても聞こえ方が違います。

目があったとしても赤外線や紫外線は見えません。紫外線が見える昆虫と人間とでは同じ物を見ても見え方が違います

「六塵ことごとく文字なり(空海)」という言葉があります。五官が感じ取るものは全て文字のように意味を持つけれども、読み取る能力がなければ意味を見逃してしまうということだと私は解釈しています。

チューナーを合わせないと雑音しか聞こえないラジオ、砂の嵐しか見えないテレビ(これはアナログ時代の話ですね)。同じ電波を受信しているのに、周波数が合っている者と合っていない者とでは、聞こえ方も見え方も全く異なる。周波数が合った時、「この世の見るものすべては美しく、欠けるものは何もない」ように見えるわけです。

《以下引用》
彼の弟子たちが彼に言った、「どの日に御国は来るのでしょうか」。イエスは言った、「それは待ち望んでいるうちは来るものではない。『見よ、ここにある』、あるいは『見よ、あそこにある』などとも言えない。そうではなくて、父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない」。(『トマスの福音書』113)
《引用終わり》

こちらでもブッダとシャーリプトラのやりとりのようなことをしています。真理は同じだということです。悟りとはそういうものでなければおかしい、と私も三年前に思っていて、その後に「龍樹」がニルヴァーナブッダについてそういうことを書いていることを知り、うれしく思ったものです。

《つづく》
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だいつい:GV14(督脈

〈取穴〉:第7頚椎棘突起の下に取る。
〈標準〉:後頚部、後正中線上、第7胸椎棘突起下方の陥凹部。



〈筋肉〉:棘上靭帯、棘間靭帯、棘間筋

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:胸神経後枝

〈血管〉:肋間動脈背枝

〈主治〉:発熱、頭痛、感冒、背筋痛、うつ証、皮膚発疹。
〈特殊〉:解熱、強壮作用

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」
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白一色で殺風景な冬を彩る植物として、写真のようなものを親戚の人が持ってきました。玄関に飾らさせていただいています。

花なのか、葉っぱなのか…

名前も聞いたような気がするけど忘れてしまった…何だっけ…

そうしたら、次女が名前を付けてくれました。

「あっ、ベラの頭だ!」

それからというもの、「早く人間になりたい…」という呻き声が聞こえてきそう…。

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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「1、教材が進んでも能力が広がらない(1983〜1985)」の「1 可能性を伸ばす仕事」「2 コップは一つ一つ大きさがちがう」を読みました。(小林教室収蔵

1983年に社名を「公文数学研究会」から「公文教育研究会」と改め、既に数学だけでなく英語と国語を増やしていましたが、さらに盆栽、囲碁など教育以外の領域にも公文式のメソッドを用いて教材化を進めようとしていたそうです。そして、会のスローガンも「個人別・学力別指導」から「ひとりひとりの可能性を伸ばす」に変更しました。

《以下引用》
可能性を伸ばす教育に「方法」があるということを世間に知らせること自体、意味のあることではないか。この方法が世の中に行きわたれば、子どもたちはもっと容易に自分を伸ばしていけるのだ。今のままではあまりに障害物が多すぎる。だから、研究会は子どものこの可能性に応えられるだけの準備をしなければならない。これからの教育の仕事は、何かを教えるという仕事から、子どもの可能性を伸ばす仕事へと展開していく。(p493)
《引用終わり》

子どもの個人差・能力差については以下の記述が興味深かったです。

《以下引用》
…普通の子どもが一教材先で身につく感覚が、能力の低い子どもの場合は二教材先まで進まないとつかない場合があり、能力の高い子どもであれば半教材先で身についたりするのです。公文式の指導経験がまだ少なく、先に進んだ生徒をもったといっても、もともとの能力のかなり高い生徒の場合しか経験がないと、まだまだ公文式の実態を知ることができません。私たちが注意しなければならないことは、こうした優秀児のケースと他の生徒とを比較してしまうことです。「優秀なA君は半教材先の時にかなり応用力も感覚もあった、それなのにB君は半教材先に進んでいるのに、まだまだその力はない。お母さんも『計算は十分にできるようになったが、文章題や他のことができない』と言われる。能力のさほど高くない子どもには、やはり計算だけでは感覚や応用力は育たないのでは」という不安にとらわれることがあります。しかし、だからと言って文章題などの練習をしたところで、まだまだ感覚が育ってないのですからいっこうに力はつきません。このような生徒こそできるだけ先に進めることが大切です。そうすれば必ず、ある段階まで進んだところで急に感覚がよくなり、応用力がついてきます。(『山彦79』1983)
《引用終わり》

能力の低い子どもの場合は逆に教材をずっと先まで進ませてしまうという、常識からすると全く逆のような指導法もアリなんですね。結果として、その子どもが伸びるのであればそれでいいわけです。

これは、同様のことが以前にも書かれていました。「…六年生の算数がよくわかるためには六年生の参考書を多くあたってみるというのは、すぐれた勉強法とはいえません。むしろ、中学一年生、二年生と進んで勉強してみることが大切です。…(「進度一覧表」1972)」おそらく、公氏が経験的に到達した持論なのでしょう。

学校の授業のように一斉に進んでいく場合では、これに似た状態が自然に発生してしまうことはあるでしょう。分からない子が分からないまま先に進んでしまう状態です。要するに落ちこぼれですね。

公文式の教材を先に進ませることが落ちこぼれを作ることにならないのは、先に進んで別な方面からの展望が開けた時に、また前の教材に戻るということができるからです。一年先、二年先の教材へ数カ月で進み、ポーンとまた元に戻って必要な箇所だけ復習するということができるからです。

学校の通常の授業でこれをやるためには、一年とか二年とかの歳月がかかってしまいます。それでは、もう取り返しのつかないほど貴重な時間が失われてしまうことになります。ポーンと二年前に戻って復習してみましょう、なんてフォローも学校の先生はしてくれません。これでは、脱落する子が出てしまうのは当然のような気がします。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。

《以下引用》
エバがアダムの中にあったとき、死はなかった。彼女が彼から離れたとき、死が生じた…分離が死の始めとなったのである。(『ピリポの福音書』)

愛憎、幸不幸、悲喜…など、どれを取ってみても男女の性と深く結びついているが、何より性の分裂が死の原因であったとするグノーシスの宗教は、今日われわれが生と死を根本的に問い直す場合に、傾聴すべき重要なヒントを与えてくれるであろう。…

ともあれ、性は命の始まりであり、死は命の終わりである。それゆえ、われわれが命(生命)というものを根本的に問い直そうとする場合(宗教などはそうあるべきなのだが)、当然のことながら二つの方向からのアプローチが考えられる。一つは命の始まりである性を問い直す、もう一つは命の終わりである死とは何かを問う道である。
《引用終わり》

性の分裂は、生物学的には有性生殖の開始に相当するかもしれません。それまでは自分のDNAパターンをそのままコピーして増殖したのに対して、自分とは違う(半分は自分のDNAパターンだけれど)DNAパターンの細胞を分裂させて増殖することになります。

前者の場合は、自分のクローンみたいなのがたくさん存在するわけで、少し死んだとしても他の自分が大多数生き残っていれば一種のアポトーシスのようにみなすこともできそうです。

有性生殖が始まって、異なるDNAパターンで増殖するようになって、「死」というものが大事件になったような気もします。

性とともに死も始まる…宗教的な意味とは違うかもしれませんが、全く非なるものでもなさそうなので、ここで指摘しておきます。

《以下引用》
しかし、われわれの命の始めと終り、つまり性と死を考慮することなく、その間(あわい)をいくら論じても生命の本質は決して明らかにはならないだろう。せいぜい取りたてて考えなくとも、誰もの意見が一致する、一度しかない人生を悔いなく、精一杯生きるという結論に落ち着くことは明らかだ。しかし、宗教は、この未熟な大人たちの子供騙しというか、そんな気休めやまやかしに満足できず、性と死の問題に果敢に挑んだものたちの体験的に引き出した結論に基づいている。そして、いずれ方法論(復活)を扱うところで詳しく取り上げるが、『トマスの福音書』は宗教書としては珍しく、性をどう理解し、またその分裂を如何に解消して一元性の世界に帰っていくかを説いているのだ。
《引用終わり》

何だか理趣経に似てますね。先がますます楽しみになってきました。

《つづく》
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2000円コースの構成例
〔1〕触察のみ:触察(35分)
〔2〕鍼か灸か:触察(33分)+鍼(4本)or 灸(4壮)
〔3〕鍼も灸も:触察(31分)+鍼(4本)+ 灸(4壮)

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で 1743円
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・人数に関わらず:204円

追加項目:
・鍼25円(1本)、灸25円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)99.6は11月のものです。
※当院の価格に対する考え方はこちら

・1月の価格
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正月に、コタツが混雑して気付きました。私が小さい時は、もっと小さなコタツにもっと大勢であたっていたような気がします。コタツの火が暖かいのか、他の人の足で暖かいのか、わからないくらいに。

足と足の隙間を探して、そこに自分の足が入るように身をよじって、結構無理な体勢をしていたような気がします。今回もそれに近い状態になって、少し筋肉痛にもなったような…。

コタツに限らず、私たちの住環境は経済の発展に伴ってサイズアップしています。昔はこんな狭いスペースに家が建ってたの!?こんな狭いお茶の間で間に合っていたの!?こんな狭い所に皆で座っていたの!?しかも人数は今の2倍とか3倍とか。

それに比べたら、今はゆったり。コタツでなければ、椅子とかソファとか、ほとんど体に力を入れることなく寛ぐことができます。

これは本当に体にとって良いことなのか?デメリットは全くないのか?

実は、かなり大きなデメリットがあるんじゃないか?という気がします。例えば、車に乗るようになったことで運動不足になったのと同じようなこと。

コタツに入っている間、身をよじっているとすると余計な筋力を使います。これが実はトレーニングになっていたんじゃないか?と。

同じように、座椅子もなく畳の上に座っていたころは、ソファに緩みっ放しで座っている現在よりもトレーニングになっていたんじゃないか?と。

和式のトイレの方が、洋式よりもトレーニングになるんじゃないか?軽い運動靴よりも下駄の方が…

と、身の周りのことをひとつひとつ考えてみると、文明の進歩は私たちの住環境を快適にしてきましたけれど、見方を変えれば、それは私たちがトレーニングする機会を奪ってきたのだと言えるんじゃないのか?

運動不足解消のため、例えば一区間、電車に乗らずに歩くという方法があります。でも、上のことを踏まえると、もっと細かいところで、やる方法はたくさんあるような気がしてきたのです。

そこに、そのまんま筋トレのヒントがあるように思います。

《つづく》
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K教材の110番まで終わりました。

『十六夜日記』と『とはずがたり』を読みました。前者は鎌倉中期、後者は鎌倉後期の作品です。毎回ですが、昔の人を馬鹿にしちゃいかんなぁと思います。

『十六夜日記』は、遺産相続問題という実に生々しいお話。筆者(阿仏尼)の夫が亡くなり、遺言どおりであれば実子が財産を相続できるはずなのに、嫡男(正妻の子)が渡そうとしない。京の役所では埒が開かないので、鎌倉に訴えに行く話です。最高裁まで訴えに行くみたいな感じでしょうね。とても、現代的です。

現代文で解説されているように、この切羽詰まった旅でありながら、文章に技巧が施されていて、緊迫感が感じられない。例えるなら、息も絶え絶えの人が、五七五で季語と韻を施しながら助けを求めているような状況です。「本当に苦しいんですか?」と言いたくなるような…。ウケます。

『とはずがたり』は、前半が作者の数多くの恋愛の記憶、後半は出家後の見聞を記している日記。現代文の解説でも、「自己否定を知らない、自己嫌悪に陥ることもない」と酷評されています。出家しても、煩悩の塊…。

たばこプカプカ、お酒ちびちびやりながら、若い頃の自分の恋愛遍歴を、「もういいですから」サインをさんざん送っているにも関わらず、語り続けているオバサン(若い頃は美人だったかもしれない)…そんな状況を思い浮かべました。まさに、問わず語りです。

【グラス片手に大人の公文】国語〔K-110〕
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悟りへの道 に参加中!
「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。

《以下引用》
イエスが言った、「この天は過ぎ去るであろう。そして、その上の天も過ぎ去るであろう。そして、死人たちは生きないであろう。そして生ける者たちは死なないであろう」。(『トマスの福音書』11)…

イエスは人間を死せる者(死人)と生ける者の二つに分けるが、彼が教えようとしていることは、まさに死せる者から生ける者へ、死すべきものから不死なるものへ、如何にして到達するかということだ。…彼はまた、不死なる生を知らず、ただ過ぎ行く肉体に過剰にかかわり続ける死人同様のわれわれ人間を「屍」とも言う。
《引用終わり》

「死人たち」とは、二元性の(幻影の)世界を追いかける人たち(残念ながら我々の殆ど)のことですね。「死せる生」あるいは「生ける死」とはうまい表現(アウグスチヌス『告白』)です。

《以下引用》
イエスが言った、「この世を知った者は、屍を見出した。そして、屍を見出した者に、この世はふさわしくない」。(『トマスの福音書』56)

われわれはこの世に死すべきものとして生まれてくる。が、われわれはそのことを知って生まれてくるのではない。やがてその事実を知ったとしても、自分自身が永遠に「生ける者」であると知らない限り、自分をも含め、この世が屍(死人=死せる者)から成り立っているということが本当には分からない。もし人が自己の真実に目覚め、不死なるものを知ることができたら、この世は死すべき人間(屍)がただ欲望(願望)の赴くまま跋扈しているに過ぎないと明らかに知るだろう。そして、彼は再びこの「死の国」に戻り来ることはないだろう。なぜなら、この世は死すべきもの、過ぎ去るものからなる幻影の世界であり、不死なるものを知った者に「この世はふさわしくない」からだ。
《引用終わり》

お金は、屍が恋焦がれる象徴のようなものかもしれません。「お金なんて、あの世には持っていけないから…」とつぶやく人は多いけど、やはり執着がないわけではない…。

《つづく》
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