「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。
老子によれば、上士、中士、下士という区別があるようです。これは、坂本竜馬の時代に土佐藩で見られた武士内部の階級とは当然関係が無いようです。
《以下引用》
上士は道を聞けば、勤めてこれを行う。中士は道を聞けば、存するがごとく、亡するがごとし。下士は道を聞けば、大いにこれを笑う。笑わざれば以て道と為すに足らず。(『老子』)
これまで私が「言わずもがなの繰り言」を書き連ねてきたのは、もちろん「上士」のためではない。…いわんや、嗤って聞く耳を持たない「下士」を相手にしているのではない(そう言えば、イエスは繰り返し「耳あるものは聞け」と言っていた)。…私の繰り言は道(真理)があると聞いても、もう一つしっくりと理解されず、ややもすれば挫けそうになる「中士」に向けられている。
《引用終わり》
密教の「密」も、下士にとっては秘密(言っても通じない)という意味のはずです。
《以下引用》
イエスが言った、「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現れ出た。私は彼らが皆酔いしれているのを見出した。私は彼らの中に一人も渇ける者を見出さなかった。そして、私の魂は人の子らのために苦痛を受けた。なぜなら、彼らは彼らの心の中で盲目であり、見ることがないからである。彼らは空でこの世に来、再び空でこの世から出ようとしているかである。しかし今、彼らは確かに酔いしれている。彼らが彼らの酒を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう」。(『トマスの福音書』28)
《引用終わり》
酒池肉林の宴会の如き下士の人生。「酒の席で堅い話はやめろよ」と言って戯言に明け暮れるのが酒宴のルール。酒に酔いしれて、盲目であり続けようとする。
酒はもちろん例えですね。でないと、アル中の話になってしまう。
彼らが見ようとしないものとは…
《つづく》
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。
老子によれば、上士、中士、下士という区別があるようです。これは、坂本竜馬の時代に土佐藩で見られた武士内部の階級とは当然関係が無いようです。
《以下引用》
上士は道を聞けば、勤めてこれを行う。中士は道を聞けば、存するがごとく、亡するがごとし。下士は道を聞けば、大いにこれを笑う。笑わざれば以て道と為すに足らず。(『老子』)
これまで私が「言わずもがなの繰り言」を書き連ねてきたのは、もちろん「上士」のためではない。…いわんや、嗤って聞く耳を持たない「下士」を相手にしているのではない(そう言えば、イエスは繰り返し「耳あるものは聞け」と言っていた)。…私の繰り言は道(真理)があると聞いても、もう一つしっくりと理解されず、ややもすれば挫けそうになる「中士」に向けられている。
《引用終わり》
密教の「密」も、下士にとっては秘密(言っても通じない)という意味のはずです。
《以下引用》
イエスが言った、「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現れ出た。私は彼らが皆酔いしれているのを見出した。私は彼らの中に一人も渇ける者を見出さなかった。そして、私の魂は人の子らのために苦痛を受けた。なぜなら、彼らは彼らの心の中で盲目であり、見ることがないからである。彼らは空でこの世に来、再び空でこの世から出ようとしているかである。しかし今、彼らは確かに酔いしれている。彼らが彼らの酒を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう」。(『トマスの福音書』28)
《引用終わり》
酒池肉林の宴会の如き下士の人生。「酒の席で堅い話はやめろよ」と言って戯言に明け暮れるのが酒宴のルール。酒に酔いしれて、盲目であり続けようとする。
酒はもちろん例えですね。でないと、アル中の話になってしまう。
彼らが見ようとしないものとは…
《つづく》