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《以下引用》
一般に、教育はできるだけ幅広く、十全なる基礎力を子どもにはあたえるべきだと考えられている。生活重視の実物教育も、労作教育も、総合教育も、子どもの全体を教育するという発想である。低年齢のときの教育は、かぎりなく自由にして、そして、ゆたかに、「ゆとり」を持って。物心ついたあたり、自覚が生まれるころから、少しずつ目標をしぼって、それぞれの具体的な目標のもとに計画的な教育をおこなう、自立をめざす教育のイメージがこれなのだ。こうした意味の広い基礎力と自由が、そして、愛情が、とくに幼児期、幼いころには必要だとされている。
《引用終わり》
まことしやかに聞こえるので、つい「うんうん」とうなづいてしまいそうな文言ですが…。
《以下引用》
しかし、この考え方はまやかしっぽい。子どもの実際の姿を見ない一方的なものだから、自由だ、自立だと言っても、かえって、不自由感がまといつく。公の考えは、富士山のように上にいくほど狭まるイメージとはむしろ逆である。なにもかもやることなど、もともと、できはしないのだ。幼児教育や初等教育では、むしろ、できるだけ基礎学力にしぼる。子どもに栄養となるものを、あれもこれもあたえるのではなく、何をしないかが大事な要諦なのだ。これがなくては先で困るものだけにして、そして、成長していくにつれて、初めて子ども自身の力で学習の可能性の領域を広げていく。先にいって専門のせまい領域に閉じ込めようとするのではない。そうではなく、むしろ、上にいけばいくほど、子どもを自由の荒野に解き放つ教育の形である。公の教育の仕方は、世間が考える方向といつも反対を走る。第二次性徴はなにも体の変化だけをいうのではない。異性に興味をもつのは、むしろ、子どもたちが異世界への関係性を求めている証拠ではないのか。こうした時期に、あてがった専門の選択をせまり、モノサシを当てた規範のなかに子どもを押し込めようとするのは、新たな関係のなかに見出そうとする子どもの成長、また、子どもの可能性の発現に、むしろストップをかける。
《引用終わり》
総合的な教育を目指した「ゆとり教育」の失敗は、こういうことなのかもしれません。漠然とした「あれもこれも」にこだわって、この先に必要になることをしないまま、小学校時代が、あるいは大切な幼児期が終わってしまう。これは、とても勿体ないことです。
《つづく》