トトガノート

All about TOTOGA

2011年07月

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「瞑想の心理学」(法蔵館)
第一章「認識論―不覚無明」の「心の教育」を読みました。

前回の「無知」と「無明」の違いを踏まえますと、「無知」から「知」への移行は「無明」への接近にも等しく、「知」を追求し続ける我々の社会が発展すればするほど事態は悪くなっていることが当たり前に思えてきます。

《以下引用》
…無明から起こってきたわれわれの心(妄心)が健康であるか、不健康であるかなど、われわれの本心である真心(自性清浄心)から見ればさしたる違いはない。ここで、心の健康とは社会に適応し、普通に社会生活が営める良識ある人々であり、一方、不健康とはそれを行うことが難しい病める人のことだ。もちろん、後者を普通に社会生活が送れるように教育し、また引き上げることに手を差し伸べることは大切なことである。

しかし、その社会がどうしようもなく病んでいることは、心の健康に絶対に自信を持っているだけでなく、過剰なまでに社会に適応している不遜な輩が、国防よりも自分たちの保身のために証拠隠滅を図っている社会なのだ。こんな社会に適応し、順応したところで、少しばかりプライドが満足されるかもしれないが、あなたが本当に得るものなど何もないだろう。
《引用終わり》

この境地に立てば、存在価値が見出せない国の政治に腹を立てる気持ちも無くなります。ただただ、悲しい…

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

げかん:CV10(任脈

〈取穴〉:前正中線上で、神闕の上2寸に取る。
〈標準〉:上腹部、前正中線上、臍の中央の上方2寸。

〈筋肉〉:白線

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:肋間神経前皮枝

〈血管〉:肋間動脈、上腹壁動脈、下腹壁動脈

〈主治〉:食後腹脹、腸鳴、腹痛、吐き気、胃腸炎
〈特殊〉:

参考文献1「経穴マップ」
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「瞑想の心理学」(法蔵館)
第一章「認識論―不覚無明」の「無明と明、無知と知」を読みました。

前回の学問と宗教の違いを踏まえますと、無明と明は宗教の話、無知と知は学問の話であることが分かります。

《以下引用》
…知識には知るもの(主)と知られるもの(客)がまずなければならないが、この主客の分裂は無明(妄心)から生じてきたものである。そして、現在われわれは世々生々に迷う無明存在であるが、知るものと知られるものとの関係の中で、われわれは知識を増やしていく。すると、無明とは知識がないということではなく、むしろたくさんの知識を溜め込んでいることになる。

大変皮肉な言い方になるが、われわれ人間は無明存在であるがゆえに、知的欲求を駆り立てられ、学問というあらゆる知の体系を作り上げたといえるかもしれない。しかし、無明は生死輪廻の根本原因であるから、学問を積み上げることによって、生死の問題が解決されることは、事の道理からしてありえない。たとえ仏教(宗教)の研究に一生を費やしても、それは同じことだ。
《引用終わり》

いい例えか分かりませんが、仏教を自動車に例えると…

自動車の構造も知らず、運転することもできないけれど、自動車の歴史を研究しているという人がいるかもしれません。自動車メーカーについてなら何でも知っているという人もいるかもしれません。自動車を売ってお金儲けをするのが上手な人というのもいるでしょう。

同じように、仏教の教えを知らず、実践など全然無理だけど、仏教の歴史は詳しいとか、お寺の観光が好きだとか、お布施を集めるのが上手だとか、…

知識としての仏教もいろいろあるわけです。そして、それはいずれも仏教本来の狙いとは全然違うということになります。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

すいぶん:CV9(任脈

〈取穴〉:前正中線上で、神闕の上1寸に取る。
〈標準〉:上腹部、前正中線上、臍の中央の上方1寸。

〈筋肉〉:白線

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:肋間神経前皮枝

〈血管〉:肋間動脈、上腹壁動脈、下腹壁動脈

〈主治〉:腹脹、腸鳴、腹痛、吐き気、胃腸炎
〈特殊〉:

参考文献1「経穴マップ」
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
くもんのすいせん図書(Cの3番)「ちいさいモモちゃん」の前半を読みました。(小林教室収蔵

モモちゃんが生まれるところから、お話が始まります。野菜たちがお祝いに来てくれますが、人の誕生が喜びに満ちていることが分かります。自分が生まれた時も、こんなふうにみんな喜んでくれたのかな…と、これを読んだ子どもたちも思うかもしれません。

私も、娘が生まれた時のことを思い出しました。「パンツのうた」などは、親が読んでも、子育ての思い出などが蘇って楽しいかもしれません。

ただ、時代を感じさせるところがあります。例えば、電話。昔懐かしい黒電話が家についたということなんですが、携帯電話が当たり前の世代にはちょっと不思議な感じがするかもしれません。また、オムツにしてもパンツにしても、使い捨てが当たり前の世代にはピンと来ないかもしれない。

野菜やネコが喋ったりするから、電話やパンツも、非現実的なお話の一部として捉えられてしまうかもしれません。

ともかく、それぞれの世代ごとに、いろいろな楽しみ方が出来るのも、ロングセラーの理由かもしれません。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
「公文式英語教育の方法」の「第五章 読解力をつけ、自立学習へ」を読みました。(小林教室収蔵

この章は、公文式英語の読み物教材について書いてあります。

《以下引用》
さて、大学入試は長文の読解力が決め手と言われ、高校でも、読み、リーディングの時間が設けられています。この高校のリーディングの時間に生徒たちはどのように学習するでしょうか。典型的なのが次のような例です。

まず、先生が生徒を指し、何行か読ませて訳をつけさせ、その後先生が解説をするという方法が多いようです。

生徒はこの間、予習していなければ、次に指されたら困ると、一生懸命、次の何行かの辞書引きをして、まったく授業を聞いていません。また、家で予習するといっても、ほとんどがわからない単語の辞書引き、こんな例がかなり多いのではないでしょうか。
《引用終わり》

私の高校時代、まさにその通りでした。リーダーの阿部先生、怖かったな…。

《以下引用》
ほんとうは、そこから先が英語理解のための学習となるはずですが、ほとんど文脈をたどらずに、辞書に載っているいちばんはじめの意味だけを、わからない単語の下に書いて終わりにしてしまっている場合が多くあるのです。長文読解力をつける学習が、辞書引きの練習になってしまっては、力がつかないのも当然と言えましょう。
《引用終わり》

なるほど、その通り。でも、そんなこと考える暇すらありませんでした。阿部先生が怖いから…。

《以下引用》
わからないすべての単語の辞書引きにエネルギーを費やす必要は、公文式ではありません。対訳の日本語を見て確認し、辞書引き作業に終始することなく、学習を進めることができるからです。難度の高い語や特殊な語の意味を調べるのに、多くの時間を割くのではなく、対訳の日本語や、下につけられている注釈を見て、意味を知ればよいのです。

辞書を引くとすれば、自分の知っている語だが、対訳を見るとなぜこのような訳になるのかわからない、というときです。辞書を引き、この語にはこういう意味がある、こういう使い方があるからこういう意味になると知ることが、語彙力の幅と奥行きをつけることになるのです。
《引用終わり》

読み物教材というのは、高校教材、今現在で言うところのJ教材からだと思います。今のところ、私はI教材までしかやってないので何ともコメントできませんが、言語の学習は、最終的には「読む面白さ」に行きつかなければ間違いだと思います。

それは、公文の国語教材をやっていて痛感しました。英語でも同じだと思います。ドイツ語でもフランス語でも…。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「瞑想の心理学」(法蔵館)
第一章「認識論―不覚無明」の「学問と宗教」を読みました。

序論でも学問と宗教の違いについて述べられていましたが、そのときはちょっとしっくり来なかったんですが、この章の内容は大満足です。

《以下引用》
主客の二元論がもたらした私と世界との分離の結果、客観的に世界が記述できると信じられ、そのような客観的記述こそが、すべての学問の理想とされていることは誰しも認めるところであろう。その場合、主・客・知の三つの要素からの知の体系、すなわち学問は成り立っているが、ここで言われる知とは、もちろん客観的真理を指している。しかし、これまで述べてきたところからも分かるように、仏教(宗教)はこの認識の構造には多分に問題があると見ているのだ。少なくとも、これは世間知であって、仏教が目指そうとしている出世間智ではない。

…二元論の網の目を通してわれわれが外的に存在すると見なしているすべてのものは、元を辿れば心源の不覚によって起こってきた心(妄心)が主客に分裂した結果であり、観察するものと観察されるものが不覚妄心の分裂したものであるがゆえに、主客の認識構造から導き出される学問体系はすべて仮説にすぎない…

そうすると、仏教を初め、宗教というのは何を試みようとしているかというと、実は、この認識構造を壊し、虚妄(不覚の相)から真実を顕そうとしているのだ。しかし、それはわれわれが虚妄に代わる真実なるものを新たに作り出すという意味では決してない。というのも、真実を作り出すことなど人間には絶対できないのだ。人間が作り出すものは…すべて虚妄(不覚の相)であり、…従って、われわれは虚妄を取り除くだけであって、決して真実を作り出すのではない…。
《引用終わり》

自他の別のレベルが「区別」、好き嫌いの別のレベルが「差別」。「差別」から自分を解放することが、まずもって我々が取り組むべき修練ですが、それがなかなか難しい…。

「差別」を排した「区別」の段階が学問のレベルであることは、科学が典型的で分かりやすいと思います。

仏教は「区別」を排した段階を目指す。筆者は、仏教のみならず、宗教すべてがそうであることを示唆しています。これも興味深いところです。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ