トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2011年07月

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「瞑想の心理学」(法蔵館)
第二章「現象論―三界唯心」の「見色即見心」を読みました。

心というプロジェクターに映し出されたバーチャルな現実を見る仕組みとは…

《以下引用》
心が捉えた虚妄の世界を、われわれは実際どのように経験していくのだろうか。…

…心源を覚ることができないと忽然と不覚の心が起こり、心は三界生死の世界を捉え始める。心を離れて世界はなく、世界を離れて心はないが、その心は具体的には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に分かれ、それぞれ色・声・香・味・触・法の対象(六塵)を捉え始めるのだ。つまり、われわれの心というものは六識に分かれ、眼は色(物)を捉えるように、それぞれ「六塵の境界」を捉えるようになる。これら六識を通して経験するすべてが虚妄、すなわち不覚の相であるということで「六塵」と表されている。換言すれば、これら六識を通して真理は見えてこないということだ。
《引用終わり》

六識では真理が見えないとすれば、たとえば目が不自由な方を身障者といい、handicapped と言いますが、健常者こそハンデを負っているとも言えます。

私たちが見ている(眼識の場合)ものは何でしょうか?そこで馬祖の「見色即見心」が出てきます。

《以下引用》
およそ見るところの色(物)は、皆是れ心を見るなり。心は自ら心ならず、色によるが故に心なり。色は自ら色ならず、心によるが故に色なり。故に経に云く、色を見るは即ち是れ心を見るなり。(『馬祖語録』)

われわれが主客の認識構造の中で何かを見るという場合、実は自分自身の心を見ているのだと彼は言う。なぜかというと、「三細」の説明からも分かるように、主客に分けているのはわれわれ自身の心であり、われわれの心(不覚妄心)が、見るもの(主)と見られるもの(客)の二つに分かれたのであるから、何かを見るということは、われわれ自身の心が投影した映像を見ていることになる。そうして「心は自ら心ならず、色(物)に依るが故に心なり。色は自ら色ならず、心に依るが故に色なり」と言って、心・物が相互に切り離せないものであるから「色を見るとは即ち心を見るなり」と言ったと考えられる。

…『起信論』は「一切の分別は即ち自心を分別するのみ」と言う。
《引用終わり》

主客の境界線上に、私の心はある…

《つづく》
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2000円コースの構成例
〔1〕触察のみ:触察(31分)
〔2〕鍼か灸か:触察(29分)+鍼(4本)or 灸(4壮)
〔3〕鍼も灸も:触察(27分)+鍼(4本)+ 灸(4壮)

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で 1748円
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・1人の場合:345円
・2人の場合:245円
・3人以上:145円

追加項目:
・鍼25円(1本)、灸25円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)99.9は5月のものです。
※当院の価格に対する考え方はこちら

・7月の価格
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くもんのすいせん図書(Cの4番)「大きい1年生と小さな2年生」の前半を読みました。(小林教室収蔵

体は大きいけど臆病な一年生のまさや。体は小さいけど勝気な二年生のあきよ。ラブストーリーというには小さ過ぎるかな。

小学生の生活が描かれています。これから小学校に行く人、もう小学生になったけど人間関係で悩んでいる人、そんなお友達が読むといいかもしれません。保護者としても、子どもの目線について考えるとき、参考になるかもしれません。

私も隣の席の女の子のことを思い出しました。あの頃は、「好き」といっても思春期のように胸が苦しくなったりはしなかったような気がします。

《つづく》
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「現代ソフィスト伝」の第一部の「一、教育に「悪の原理」を持ちこむ」を読みました。(小林教室収蔵

この本は、公文式の創始者公文 公(くもん とおる)の伝記のようなものでしょう。著者の村田一夫さんは「晴耕雨読の読書法」の茶者でもあります。公文式の国語教材を創り上げた人であり、公文公氏を最もよく知る人の一人でありましょう。

この章は、母方の祖父である吉川類次が土佐で早稲米を開発し、土佐二期作の発展に貢献した話から始まります。明治維新について触れた記述をメモっておきます。

《以下引用》
思えば、明治維新に大きく貢献す薩長連合を成功させた土佐の坂本竜馬は三十三歳、中岡慎太郎は三十歳でこの世を去っている。ともにあまりにも若い。森と同い年の土佐の中江兆民が長崎でおさめたフランス学を引っさげてヨーロッパに渡ったのは二十四歳のときである。経験を要する農業で二期作法をあみだした吉川類次は少し年長だが、それでも、四十をこしたばかりのときに仕事を残しているのだった。

ここで現代の青年論を話題にするつもりはない。それにしても、近代、そして現代へとつづく歴史のなかで、なにかとても大きな忘れものをしてきたのではないかという思いがする。青年が活発にうごけない現代は、歴史のなかでもいちばん淋しい時代なのではないだろうか。
《引用終わり》

「子どもは宝」とは山上憶良の時代から言われていますが、現代の私たちはどんな価値を子どもに見出しているでしょうか。

《以下引用》
子どもは断崖にたつ灯台ではないだろうか。親の背中を見て子どもは育つとは、子どもが親の背中をとおして時代の空気をまちがいなく感じ取ることができるから、旧世代には見えないパースペクティヴ(遠近法)を所有する、これが子どもという存在のほんとうの意味ではないか。ときに子が親に反発を感じるのもこうした事情があるからなのだ。現実の世界のなかで、次の世界を指し示すのが子どもたちである。
《引用終わり》

ユニークな地質学者で私も好きな井尻正二氏の先祖のことも紹介されています。吉川家の人々共々、世間の常識にとらわれず、陰口をたたかれながらも自分の流儀を押し通した人たちとして。

《以下引用》
吉川家、井尻家の人々は、今ははるか遠くに眺め見るだけになった。共同体が是とする考え方にあえて異を唱える所業はたしかに勇気のいることである。ことに、教育という場は、なかなか悪の原理が入り込まない世界なのだ。だから、価値のダイナミックな転換も生まれにくい。

現代に流布している教育論の類の食い足りなさは、ここに原因があるのではないだろうか。子どもたちの千年王国を語り、夢を説くのは教師であり、子どもはその夢の跡をなぞる。母親父親は世間のおおかたの価値観を第一とする習性をもつ。児童中心主義が教育論をやせさせ、学校聖域論が閉塞性打開の破天荒をしめだす。
《引用終わり》

教育が、そして共同体が、すべて閉塞にぶち当たっている現在、「悪の原理」はむしろ「希望の原理」に見えるのは私だけでしょうか。

《以下引用》
公のなしたことは簡単なことだ。高校で必要となる基礎学力をそのまま加工せずに、中学生に、小学生に、幼児に、学習させただけである。「小学生にも微積分」、これが悪臭をはなつ大元なのだ。「基礎学力とは何か」、教育学者だけでなく、教育に関わりをもつ全ての人が自分なりの一家言をもつこの問題に、公はむずかしく考える必要はないではないか、先の学校で役立たないのなら、どんなに立派な基礎学力でも価値などない。幼児には幼児にふさわしい教育、児童には児童にふさわしい教育、子どもらしさを追求することの好きな世間の人々は、公にむかって、受験教育屋が何を言うか、効率だけで教育が語れるか、教育は学力だけではない、と批判をくり返す。批判しなければ、自分たちの共同幻想がこわれてしまう。これがこわいから、世間は公文公を悪人に仕立て上げずにはおかなかったのだ。
《引用終わり》

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第二章「現象論―三界唯心」の「自心所現の幻境」を読みました。

「三界虚妄」(『華厳経』)、「三界虚偽」(『起信論』)、「三界如幻」(『楞伽経』)、現実もまたバーチャルなもの?

《以下引用》
本来何もないスクリーン上に、心が投影したいろんなシーンが映し出され、それを見て同じ心がさまざまに反応する。それが楽しいものならば嬉しくなり、辛く悲しいものならば避けようとするだろう。しかし、それとても元は自分の心が生み出したものであり、その映像に心が一喜一憂しているだけなのだ。心というものはそういうプロジェクターのような働きをしているがゆえに、『楞伽経』はわれわれが捉える事物・事象はすべて「自心所現の幻境」であると言ったのだ。そして、自らの心が投影した幻影にわれわれは心を奪われ、それに執着していろんなカルマ(業)を積み上げながら、生死の世界を転々としているということだ。
《引用終わり》

以前、影絵に例えて書いたことがあります。内容は若干違いますが、イメージは似ています。

プロジェクターに何を映すか、決めるのは自分の心。プロジェクター自体は清くも汚れてもいない。楽しいものを映せばプロジェクターは楽しいもの、悲しいものを映せばプロジェクターは悲しいものになる。いずれにしても、プロジェクターは元ネタ(自分の心)を大きく映し出し、自分の心を捉え、夢中にさせる。

《つづく》
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けんり:CV11(任脈

〈取穴〉:前正中線上で、中かんの下1寸に取る。
〈標準〉:上腹部、前正中線上、臍の中央の上方3寸。

〈筋肉〉:白線

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:肋間神経前皮枝

〈血管〉:肋間動脈、上腹壁動脈、下腹壁動脈

〈主治〉:胃腸の諸症状の常用穴
〈特殊〉:胃腸の養生穴

参考文献1「経穴マップ」
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第二章「現象論―三界唯心」の「仏教の世界観」を読みました。

《以下引用》
仏教の世界観を論じる場合、しばしば取り上げられるものに「三界唯心」という考え方がある。われわれが存在する経験世界を三界と呼び、それには欲界、色界、無色界という三つがあると言う。そして現在われわれは、欲望の世界(欲界)を生きている。

デカルト哲学に代表される二元論的な世界観は、私と世界とを分離し、世界は客観的に存在しているのであるから、客観的に記述可能であるとみるが、仏教が世界を考える場合、経験するわれわれ主体の側も含めて理解していく。言い換えれば、世界はそれだけで存在しているのではなく、外的に存在すると見られる客観世界も、見る主体の心と密接に結びついているということで「三界唯心」と熟語されるところに大きな特徴がある。
《引用終わり》

そんな虚妄の世界で生きる意味とは…

《以下引用》
例えば、人が時に存在の虚しさを感じ、生まれてきた意味が分からなくなるとしても、それはさほど不思議なことではない。というのも、われわれの生(と死)が、われわれ自身の心(妄心)に原因があり、その心でもって生の意味を知ろうとすることは、一度火のついた油が自分に対し、なぜおまえは燃え続けるのかと問いかけるようなものなのだ。生は何か目的を達成するために存在しているのではなく、生それ自身の中に存在の意味を見出せない限り、われわれにとって生はいつまでも不可解な謎として残るだろう。

事実、現在のわれわれは生の意味も分からないまま、ただ燃え尽きるまで、ひたすら闇雲に走り続けているだけなのだ。もちろん、走っている間は、手近な目的が生の意味に取って代わられ、そんな面倒な問いに悩まされることもなく、その道で少しばかり名前でも知られるようになれば、存在の虚しさを感じることもないかもしれないが、それはあなたが生の意味を知ったことにはならない。
《引用終わり》

これは、私が漠然と持っている答えのゾーンのどまんなか・ストレートです。これを機に、これまで私が書いたものを検索に引っかかったものだけまとめておきたいと思います。

〔2006.01.08〕老いて、病気をして、死ぬだけの自分に、生きる意味はあるのか?

〔2008.06.07〕精一杯生きて寿命を全うした時に初めて意味はできる。

〔2008.08.25〕生きるとは、「何(what)をしたか?」ではなくて、「いかに(how)生きたか?」ではないだろうか。

〔2009.06.23〕生きる意味なんて無いのかもしれない。でも、あると思った方がいいんじゃないか。←これは、上記引用の「走っている間は、手近な目的が生の意味に取って代わられ、そんな面倒な問いに悩まされることもなく、その道で少しばかり名前でも知られるようになれば、存在の虚しさを感じることもないかもしれない」のことですね。

そこで、取りあえずの手近な目的を見つけようとした時…
〔2009.06.29〕現代は自由であるがゆえに、かえってその目的(意味)が見つかりにくいのではないか。

〔2011.01.20〕幸い、子どもができた上に生活も苦しいので、私の場合はその目的(意味)があることになる。

財布の虚しさゆえ、存在の虚しさを感じる暇もないけれども、それで私が生の意味を知っていることにはならない!

《つづく》
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平均:2007円
最安値:1000円
最高値:3500円

初診者と紹介者1000円キャンペーンは継続中です。

※当院の価格に対する考え方はこちら

・5月の実績
・6月の価格
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くもんのすいせん図書(Cの3番)「ちいさいモモちゃん」の後半を読みました。(小林教室収蔵

「あかちゃんのうち」でお友達ができたり、傘と長靴を買ってもらったり、水ぼうそうになったり…モモちゃんの周りのいろいろなエピソードがお話になっています。親として読めば、懐かしさを感じます。

一方、野菜が喋ったり、動物が喋ったり、という荒唐無稽な幼児童話としての一面もあります。

その辺が、広い年齢層に読まれている理由だと思います。

子どもと、親と、お爺ちゃんお婆ちゃんと、一緒に読んで、楽しめる本だと思います。

《最初から読む》
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「公文式英語教育の方法」の「第六章 新たな語学教育をめざして」を読みました。(小林教室収蔵

この章は、他の言語について書いてあります。

《以下引用》
フランス語、ドイツ語と言えば、多くは大学の第二外国語として履修するわけですが、公文式の方法ならば、幼児でも学習することができ、語彙力の拡大とともに、確実な語学力を身につけることができます。まず、歌と簡単な語学力を身につけることができます。まず、歌と簡単な言葉の復唱で語彙力を徐々に高めた後、書写を学習の入り口として短文の習熟を図る、そして対訳で長文の読解力をつける点は、英語教材の組み立てと同じです。
《引用終わり》

ドイツ語とかフランス語の童謡って、聞いてみたいな…

《以下引用》
外国語教育の目的として、その実用性だけに目を奪われてはなりません。日本人は、日本語に表れるような思考論理を持っています。日本人は日本語でものを考えると言われますが、それぞれの言語とその言葉の使い手の思考論理も、同様の関係にあります。この立場から見れば、外国語学習は、自分たちとは異なる思考論理を、言語を通じて学ぶことでもあります。日本語に表れるような単一の思考様式や論理が、ほかの言語圏の民族の思考様式と論理の対立や対応を経て、磨かれ育っていくのです。同時に、その言語を育てた歴史的、文化的背景をも学ぶことができるのです。
《引用終わり》

この呉越同舟の宇宙船地球号で、勉強する究極の目的とは、皆の違いを理解し、皆の考えを理解し、協力して知恵を出し合い、楽しく豊かに暮らすことのはずです。

何だか、英語だけじゃ足りない気がしてきた。英語はおろか、日本語もまだまだなのですが…。

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