トトガノート

All about TOTOGA

2011年06月

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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「心源―大海水波の比喩」を読みました。

《以下引用》
…心源とは心の本源という意味であり、それはもとより浄いということで本源清浄心、あるいは自性清浄心とも言う。心と心源は先に挙げた、妄心と真心、妄念と本心、心と心性などと同じ関係にあるが、果たして仏教は、心をその本性において知ることの大切さをことあるごとに主張する。実際、心の本性(真心)を知ることが存在の意味を知ることでもあり、心の本源以外あなたが辿るべきところなど本当はどこにもないのだ。というのも、心の本性(本心)はもとより仏であるからだ。
《引用終わり》

この心(妄心)と心源を、『起信論』では波と海に譬えています。

《以下引用》
…今のところわれわれは、この波に過ぎない心を自分の心と見誤り、良くも悪くもその心に惑わされ、徒に混乱して、その内側に始めもなければ終りもない心(真心=本源清浄心)が果てしなく広がっていることに全く気づいていない。…『起信論』は「無明の風」によってわれわれの心は波立つと言う。

衆生の自性清浄心も無明の風に因りて動ずる。(『起信論』33)
《引用終わり》

如来蔵思想や唯識などの説明でもいろいろな例えが用いられていますが、大海水波の比喩が一番しっくり来るような気がします。3.11の津波の映像を見たばかりだからでしょうか…。

《つづく》
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かんげん:CV4(任脈 小腸経の募穴)

〈取穴〉:前正中線上で、曲骨の上2寸に取る。
〈標準〉:下腹部、前正中線上、臍中央の下方3寸。

〈筋肉〉:白線

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:肋間神経前皮枝、腸骨下腹神経前皮枝

〈血管〉:浅腹壁動脈、下腹壁動脈

〈主治〉:頻尿、尿閉、尿漏、生理不順、生理痛、不妊症、ED、下痢、腹痛、虚冷症、体力の回復
〈特殊〉:養生、強壮作用

参考文献1「経穴マップ」
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くもんのすいせん図書(Cの2番)「少年と子だぬき」を読みました。(小林教室収蔵)

ほのぼのとした、とってもいいお話です。タヌキが人に化けるというのは、オーソドックスな昔話なのですが、最近化けてないので自信が無いというところが現代風。

スクーターや自転車も出てきますし、少年の声がボーイソプラノだという表現も現代風。

優しい男の子と、動物が化けた女の子との恋?なんだかポニョと似てます。でも、ストーリーも絵も、私はこっちの方が好きですけど。

最後、いろいろと想像させるエンディングですが、男の子も正体に気づいているようだし、悲しい結末は似合わないです。

もともと挿絵画家を志望されていた方の作品だけあって、絵もとてもいいですね。
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「公文式英語教育の方法」の「第一章 英語はなんのために、どのように教育するか」を読みました。(小林教室収蔵)

この本は1992年に初版が出ておりますので、約20年も前の内容ということになります。公文式の英語教材も何度か改訂されているでしょうし、昨年からE-ペンシルという新兵器も登場していますから、その辺の事情は十分加味した上で読まなければなりません。

まず、従来の英語教育について文法教育への偏重が指摘されています。ただ、悪い点ばかりでもない。
《以下引用》
文法知識をつけることが目的ではないにもかかわらず、これを目的化するような英語教育は、否定されて然るべきです。しかし、外国語を効率よく学習するための文法は、もっと生かされて使われるべきです。
《引用終わり》

一方、その反省から盛んになった英会話教育ですが、これにも問題が無いとは言えない。
《以下引用》
本来、会話には、多岐にわたる言語の諸活動が、いちどに、しかも瞬時とも言える短い時間のうちに要求されています。相手の言ったことを口まねするだけならば、音のまねということですが、一般には、会話はまず聞く能力、それも、音として聞き取る能力と、聞いたものを即座に理解する能力が、同時に要求されます。そして、話す能力、伝えたい意味内容に従って文を組み立てる能力と、それを相手に伝わるよう発語する能力、さらに状況に見合う対応能力など、まさにさまざまな能力が凝縮された言語活動と言うことができ、難しいのは当然のことなのです。今述べた、本来の会話、コミュニケーションレベルの会話と、口まねやあいさつレベルの英語との間に、大きな溝があることがおわかりいただけることと思います。

会話が目的、だから会話を学ぶという誤りが、この点に潜んでいるのです。
《引用終わり》

英会話スクールは、ネイティヴの講師を起用したものも含めて、随分増えました。英語で歌って踊って…という楽しさをアピールすることで、かなり集客にも成功しているかもしれません。でも、そういう「口まねやあいさつレベル」の英会話教育なら、わざわざ金を払ってするまでもありません。そこを「掴み」として、その後、どこまでステップアップさせてくれるかが、教育としての真価だと思います。

この本のサブタイトル「子どもたちに英語の原書まで」が示すように、まず、「読み」の力からステップアップさせていこうというのが公文式英語教育の方法のようです。言語には「聞く・話す・読む・書く」という4つの領域がありますが、まず「読む」ことで底上げしていくということですね。「読む」ことを重視する方針は、公文の国語教材についても共通のような気がします。

公文式であっても、ビギナーは「口まねやあいさつレベル」から当然始まりますが、E−ペンシルの導入でとても良くなったと思います。発音を確認したくて同じ単語を繰り返し何度も聞きたいという気持ちは、幼児さんであっても抱きます。相手が大人であると(ネイティヴであれな尚更)、「もう一回言って!」というのは幼児さんであっても言いにくい。E−ペンシルならば何度も繰り返し再生させて喜んでいますから、発音の習得もよくできるようです。

《つづく》
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「アーラヤ識」を読みました。

唯識派のアーラヤ識と、起信論のアーラヤ識の違いについて述べられています。

唯識派の場合、われわれが生死に迷う根本意識と見なされることから妄識と言えます。そして、これが「転依」とか「転識得智」と呼ばれるように、「転」じることでさとりに至ります。

起信論の場合、人間の心を心真如(真心)と心生滅(妄心)の二相に分け、如来蔵的に説明しているので、アーラヤ識も真識と妄識の和合識としています。そして、和合識の相を「破」して、相続心を滅することで、法身が顕現することになります。

《以下引用》
…しかし、法身を得るということで言うならば、…目的は同じなのだ。

さらに、その目的に至る方法論も同じなのだ。例えば、『大乗荘厳経論』が説く「転識得智」のプロセスの基本は奢摩他・毘鉢舎那(止・観)であり、『起信論』の場合も、真妄和合識の相を破していくプロセスは止観双修である。
《引用終わり》

《つづく》
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ちゅうきょく:CV3(任脈 膀胱経の募穴)

〈取穴〉:前正中線上で、曲骨の上1寸に取る。
〈標準〉:下腹部、前正中線上、臍中央の下方4寸。

〈筋肉〉:白線

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:腸骨下腹神経前皮枝

〈血管〉:浅腹壁動脈、下腹壁動脈

〈主治〉:頻尿、尿閉、尿漏、生理不順、不妊症、ED
〈特殊〉:手術後の排尿難

参考文献1「経穴マップ」
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「意識と本質―精神的東洋を索めて」(岩波文庫)
「意識と本質 2」を読みました。

「本質」の虚妄性を説く仏教とは反対の立場で、「本質」に向き合ってみますと、個体的「本質」と普遍的「本質」に分けることができます。これはイスラーム哲学では初歩的な常識だそうで、個体的「本質」をフウィーヤ、普遍的「本質」をマーヒーヤと呼ぶそうです。

私的には、固有名詞と普通名詞で区別すると分かりやすいんじゃないか思います。男女にからめると更に分かりやすいかも。

普通名詞として、「女」が好きだ!と言えば、「女」に分類されるもの全てが好きだということになります。要は「女」なら誰でもいいと。固有名詞として「○○さん」が好きだ!と言えば、「○○さん」でなければダメということになります。例え、最初は女性として意識して好きになったとしても、今となってはどうでもいい。実は「男でした」と告白されても、心が変わらなければ本当に「○○さん」が好きだということになります。

「最も典型的、あるいは理想的女とは?」と追及したものがイデアであり、プラトン哲学の方法だと思います。いわゆる「本質」とはそういうものかな…と思っておりました。でも、個体的「本質」というのもあったんですね。

個体的本質にとことんこだわったのが本居宣長なんだそうです。そして、リルケのような詩人も個体的本質を追求するというのも何となくうなづけます。普遍性・再現性を重視する科学者は全く逆と言えます。

《以下引用》
「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、「本質」論の見地からすれば、事物の普遍的「本質」、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべきことを彼は説いた。言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転換する瞬間がある。この「本質」の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結晶する。俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった。
《引用終わり》

先のオッサン的喩えに戻れば、これが恋の瞬間ということでしょうか(笑)。

《つづく》
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