トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2011年04月

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「三教指帰」(角川ソフィア文庫)第三章「仮名乞児の主張」の後半を読みました。

乞児は輪廻について語ります。当時はまだ、仏教と一緒に入ってきた外来の考え方という認識が強かったのでしょうか。

生き物は輪廻を繰り返す。ある時は妻子となり、ある時は父母となり、あるいは動物となり、すべての生き物の間を迷いながら生まれかわる定め。この考え方は、自分という存在、男とか女とか、老いているとか若いとか、人間だとか獣だとか、そういう束縛から解放するものでもあります。

さらに、釈尊について、無常の賦、生死海の賦、十韻の詩を詠い、仏教の素晴らしさを説きます。そこで、あっさり前出の先生方がひれ伏すのですが、この点は不自然であり物足りない感じがします。もちろん、仏教の深さが他を圧倒している点は明らかですけど。

十韻の詩の中に、「空海の夢」の第20章のタイトルになった一節があるので、メモっておきます。

《以下引用》
六塵は能く溺るるの海、四徳は帰する所の岑(みね)なり。
已に三界の縛なることを知んぬ。何ぞ纓簪(えいしん)を去(す)てざらん。

このように六塵(色・声・香・味・触・法)の世界はすべて無常であり、人々を溺らせる「迷いの海」であり、常・楽・我・浄という四つの徳性を備えた涅槃の境涯こそが、彼岸にそびえる目標の岑なのです。すでに三界(この世)は私たちの真の自由をさまたげる束縛であることがよくわかりました。冠の纓(ひも)や簪(かんざし)で象徴される官位など、捨て去らないでよいものでしょうか。
《引用終わり》

最後の一文は、青年空海の決意表明でもあります。

《最初から読む》
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標準コース(2000円)の構成例
〔1〕触察のみ:触察(31分)
〔2〕鍼か灸か:触察(29分)+鍼(4本)or 灸(4壮)
〔3〕鍼も灸も:触察(27分)+鍼(4本)+ 灸(4壮)

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で 1731円
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・1人の場合:378円
・2人の場合:279円
・3人以上:180円

追加項目:
・鍼25円(1本)、灸25円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)98.9は2月のものです。

・4月の価格
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くもんのすいせん図書(Gの48番)「晴耕雨読の読書法」の「第三章 一人で学ぶ「晴耕雨読」の読書法」を読みました。(小林教室収蔵

年齢が同じなら、理解力も興味の持ち方も同じなのか?それが真ならば、4月生まれの人と翌年の3月に生まれた人が同じ教室で勉強していいのか?教育に関する疑問は尽きません。

《以下引用》
幼児には幼児の発達段階があり、児童期には児童期の発達段階があると、一般には考えられています。読書だけでなく、教育には必ず、こうした条件を背負わねばならない宿命でもあるかのようです。君たちのそれぞれの発達からくる性格によって、はっきりとその時期ごとに区切られた教育が大切なのだと、多くの人が言います。幼稚園や小学校では、その制度自体にその特色を色濃く持っていて、「当園は幼児に最もふさわしい情操教育を土台にして…。」と言って、当然の様子です。しかし、幼児期のこうした特徴づけがかえって君たちの本来の必要性を小さな枠の中に閉じ込めてしまっているという反面を忘れてはならないと思うのです。事実、例えば、障害を体に持った子どもたちを排除する形になって現れたりしています。

「人」が「人」として存立する場とは、君たちの一人ひとりが自分の可能性の追求を行える場のことです。君たちはそうした場に立って、毎日生活しているわけで、決して、制度の中の退屈に埋もれて生きているわけではないのです。幼児であっても、児童であっても、また、思春期に、青年期にある場合でも、それぞれの条件の中でなお、君たちは自らの可能性の広がりを常に実感しながら、生活していっています。

読書はこうした「人」が本来的に立つ可能性世界に直結した働きかけを行うものです。したがって、幼児期からの読書は必須のものになるはずですし、同じ理由によって、児童期にも、思春期にも、どの年齢においても、本は無くてはならないものになります。「晴耕雨読」の読書法は、リタイヤした老人の余戯などではありません。可能性の最も大きい幼児にこそ、「晴耕雨読」なのです。可能性を追求してやまない君たちにとって一番ふさわしい読書法を、私は今まで語ってきました。
《引用終わり》

いろんなジャンルの本を難易度ごとに並べたのが「くもんのすいせん図書」です。難しいと思ったら次は簡単なものにすればいいし、簡単だと思ったら次は難しいものにすればいい。難易度も、ジャンルも、自分にちょうどのものを選ぶ。そして少し上に挑戦することによって読書力がどんどん独力で伸びていく。

最後に、0歳からの読書を組み込んだ、筆者が提唱する教育法が段階ごとに説明されています。興味深いです。

《最初から読む》
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新「公文式算数のひみつ」の「第一章 幼児でも方程式が解けるひみつ」を読みました。(小林教室収蔵

この章では、幼児で方程式が解けるようになった達弥くんの例を紹介しながら、公文式算数について説明しています。

幼児が方程式を解く意味があるのか?という質問を私もよく受けます。私も最初はそう思っていました。でも、最近は「幼児だからこそ方程式なんだ」と思うようになってきました。うちの娘はそこまで行きませんでしたが、誰でもそこまでの目標設定を(少なくとも目標設定だけは)した方がいいと思います。

松田さん(達弥くんのお母さん)もそうでしたが、
《以下引用》
「文字や数など、勉強と言われるような分野のことを幼児期からさせることは、無意味であるばかりか害になることが多い。勉強は、自然にできるようになる状態が整う小学校まで待つことが、いちばんよい」
《引用終わり》
という考えは、今でも意外と根強いです。スケートとかゴルフとかピアノとかに関してなら、幼児のうちに始めた方がいいと言われて疑問を持つ人は、真央ちゃんや遼くんのおかげでいなくなったと思うのですが、勉強に関しては意外と、未だに…です。

幼児期にいろんなことをさせた方がいいというのは、大脳生理学の方面からも言われていて、幼児教育の塾が公文式以外にも最近増えてきました。

前述の幼児教育に対する思い込みへの反論の一つとして、記憶力は0歳から6〜8歳までがピークである(本書より)ということ。脳が最も刺激を求めている時期に知的刺激を控えるというのは何とも勿体ないことです。

反論の二つめとして、幼児は暇なのです。遊ぶことくらいしかすることが無いのです。だったら、「遊びとしての学習」をやらせればいいのです。「遊び」と「学習」を区別するのは大人の感覚(思い込み)であって、幼児には(というより本来は)その区別がそもそも有りません。

反論の三つめとして、幼児は繰り返しが大好きです。同じ本、同じアニメ、を何度も繰り返して見ます。そして同じであることを確認して喜んでいるようです。「学習」も繰り返しが大事なのですが、大きくなるにつれて同じことの繰り返しは嫌うようになります。そうならない幼児期に、反復しないと身につかないことは一つでも多くやらせておいた方がいい。

そのやらせておくこととして、公文式の教材が適している点のひとつが、教科書の内容の「すべて」を盛り込んでいないことです。反復が効果的な内容だけを抽出していると言っていいかと思います。

極端な言い方をすれば、やり方だけを幼児のうちに暗記(純粋に暗記ばかりでは無いけれども)させるということです。意味は分からないけど方程式を解くだけならできます、という状態で小学校に進学すれば、授業の時は意味だけを考えていればいいのです。

公文式では、同じプリントを何度も解かせて、莫大な枚数を処理させます。これで身につく作業力が素晴らしい。うちの長女(新小学一年)は、本屋に行くと問題集を買って欲しいと言い、うちに帰るとすぐにやり出します。作業力のおかげで、すぐに一冊終わります。「遊び」の感覚のようです。

このように他社の教材に果敢に挑戦するようになるので、公文式の教材に「すべて」が盛り込まれる必要は無いのです。

むしろ「すべて」が盛り込まれていたら、公文式だけでウンザリするボリュームになって、他の教材にトライする活力は失せるでしょう。

「そんなにしなくていいんじゃない?」と我々に言われながら、得意げに他社の問題集(いずれは小学校で配布されるものなど)に取り組むことで、公文の教材に含まれていない部分が自然と補完されていくようです。

それが公文式のひみつのひとつかな?と最近気づきました。

《つづく》
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くもんのすいせん図書(4Aの31番)「あかんべ ノンタン」を読みました。(小林教室収蔵

ノンタンて、ウサギだと思ってました。ミッフィに近いと思ってたんですが、キティに近いんですね。最近はノンタンと言えば千秋でした。

いたずら好きのノンタン。結局、いたずらはやめられそうにありません。しかし、こんなに皆を卒倒させられる「あかんべ」ってスゴイです。

このての絵本は配色に気を使っているんでしょうね。子供の色彩感覚を刺激するんじゃないかと思います。
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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「大乗とはわれわれの心(衆生心)をいう」を読みました。

《以下引用》
…サンサーラの世界(生死の世界:此岸)からニルヴァーナの世界(涅槃の世界:彼岸)へと乗せて渡す大いなる乗り物は、他でもないわれわれ自身の心であると言うのだ。…苦行や善行に励み、功徳を積むことではなく、また瑣末な経典の研究や歴史的な解明に明け暮れるのではなく、自分自身の心をよく理解し、それと取り組むことが大切であると言っているのだ。…
《引用終わり》

親鸞ならば『大無量寿経』、日蓮ならば『法華経』というように拠り所とする経典を設定して大乗の教えを説くという手法を大乗起信論は取っていないそうです。経典を軽んじるわけではないでしょうが、「心なのだ」と言い切っています。その根底には「一切衆生悉有仏性」という考え方があるとのこと。

われわれには「真実の心」も「清浄の心」もない!と言う親鸞と矛盾するのではないか?ということも書いてあります。筆者は真宗を学ばれた方のようです。

そこで大乗起信論の言う「心」とは何か?という話になっていきます。

《つづく》
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〈起始〉:脛骨の後面,腓骨の内側面,下腿骨間膜の後面
〈・〉:長趾屈筋の隣(★三陰交★漏谷★照海★交信),下伸筋支帯の下で母趾外転筋の隣(★然谷)アキレス腱の下で長趾屈筋の隣(★太谿
〈停止〉:舟状骨の舟状骨粗面,内側〜外側楔状骨,立方骨,第2〜4中足骨

〈作用〉:足関節▲底屈・足部●底屈●内がえし
〈神経支配〉:脛骨神経〔(L4)〜L5〜S1〕

〈筋連結〉:長母趾屈筋,長趾屈筋,ひらめ筋,前脛骨筋長母趾伸筋膝窩筋

〈触察〉:
・下腿骨間膜の後面に沿って走行。脛骨と腓骨に挟まれた領域の深層の筋腹を、腓腹筋ひらめ筋を介して下腿骨間膜に向かって圧迫して触察する。
・後脛骨筋の筋腹を触知することは困難。足関節を自動的に底屈、足部を内反させると、脛骨の内果の後方を走行する腱が視察できる。
・足関節では、内側から後脛骨筋,長趾屈筋長母趾屈筋の順で屈筋支帯におさまる。

〈関連痛領域〉
・第一にアキレス腱(★合陽★承筋★承山★ふ陽★崑崙★僕参
・第二に下腿表面および踵と足の足底面(★湧泉

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
参考文献3「トリガーポイントと筋筋膜療法マニュアル」
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人間はそれほど単純ではない。自分の気持ちをひとつに表せるものではない。常にアンビバレントなものだと思う。その心の多様性は、種族の保存に遺伝的多様性が寄与したのと同じ機序で、個体の保存にも寄与するんだと思う。

「日本の力を信じてる」という宣伝。ウンザリするほどよく見かけるのだが、大戦の後に復興したように何とかなるだろう(もちろん、望ましい国の形で復興するとまでは期待してないが)と思ってる擬似楽観主義者の私にとって、この宣伝はむしろ不安を煽ってるように見える。「信じてる」ってこんなに執拗に呼びかけるのは、広告主がとっても不安なのだろうなと思う。つまり心の中には悲観論が渦巻いているんだろうなと思う。

心の中に楽観がある私にしてみたら、グラついてる今が良い機会だから、もう少しグラつかせて、こんな政治でいいのか?こんな管理能力のない国民が原発なんか持っていいのか?こんなに世界に迷惑をかけて恥ずかしくないのか?ということを問いかけて、日本が更生して真っ当な国になる方向に持っていきたい。

でもそれが逆に不安を煽っているように見えるらしい。この私が、不安でアタフタしてわめき散らしているとでも言うのか?

「お前はどうしようもないバカ野郎だ!」と言われて、「この俺がどうしようもないなんてことがあるか!」と悔し涙で踏ん張って成長し、苦言を呈してくれた恩師に感謝するというような人生を送ってきた我々と、「大丈夫!大丈夫!」と褒められて育ってきた世代との違いなのかとも思う。

私のやり方はこうだ。

大丈夫な人に「大丈夫だ」なんて言わない。「お前はもっとこうしなさい!真面目にやれよ、バカ野郎!」と言う。それが、そいつを信じるということだと思う。

ダメな人に「ダメだ」なんて言わない。「大丈夫だよ。君は強い人だ。何とかなるさ。」と言う。それは、そいつを諦めるということだと思う。

それが、私なりのアンビバレントだ。

でも世の中にはいろんな人がいて、いろんな考えがなければならない。多様性の無い社会は脆弱である。アンビバレントを持たない個人も脆弱である。要は、異論を持つ人同士が敵対せずに話し合うことだと思う。それぞれの持論は主張すべきである。それが愛国というものである。

しかしながら、そろそろ私も、「大丈夫だよ。日本は強い国だ。何とかなるさ。」と言うべき段階にきたのかな、と思い始めている。

《つづく》
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「三教指帰」(角川ソフィア文庫)第三章「仮名乞児の主張」の前半を読みました。

今回は仏教編。叔父阿刀大足に対する空海自身のストレートな反論と思われる箇所があります。

《以下引用》
あなたは仏道に進もうとする私を忠孝にそむくとして非難しますが、私は私で常に国家の幸せを第一に考えており、両親及び一切の衆生のために陰ながら功徳を積んでおります。これによって得られる智慧や福徳の一切がすべて忠であり孝であると私は考えているのです。しかし、あなたはただ筋力を使って努めることや、身体を屈して仕えることだけが忠孝だと思い込んでいて、もっと大きな忠孝のあることに気づいていないのです。
《引用終わり》

そして、「仏教は全体の真理、儒教・道教は仏教の一部分」という考えを主張します。

《以下引用》
…ある書物によれば、儒童と迦葉の二人は仏弟子ですが、人々がまだ未開の時代に、仏陀はこの二人を中国に遣わされました。しかし人々がまだ深い真理を受け入れるだけの能力が育っていないのを見て、儒童は孔子に生まれかわり、迦葉は老子に生まれかわって、二人に儒教と道教を説かせ、天地・陰陽についての表面的な真理を説き示させたというのです。このようなことも考えずに、あなた方は各自の道が一番だというように固執して争っているのは大きな誤りです。」
《引用終わり》

化身とか、方便とか、真如は一つであり全てであるという、全てを包括してしまう仏教の一面、あるいは空海密教の片鱗がうかがえるような気がします。

《つづく》
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