「唯識入門」(春秋社)
「第四章.識と縁起」の「二.二種の識」を読みました。
『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第九偈が出てきます。
(1.9)一つは縁(因)としての識であり、(現象的な面において)享受〔など〕に関係するものが第二(の識)である。そこ(第二の識)には、享受すること、判別すること、および動かすものとしてのもろもろの心作用がある。
《以下要約》
これに対する世親の注釈。
識は、一方では潜勢的な原因の識として生起し、他方ではそれの結果として顕勢的・現象的な識として生起する。アーラヤ識は前者であり、それ以外の七つの諸識に対して原因となるものである。「縁(因)としての識」である。
それを縁として(顕勢的に)はたらいている七つの識(転識)が「享受に関係するもの」である。「享受」とは感受(受)のことである。「判別」とは観念(想)のことである。識を「動かすもの」とは形成力(行)のことであり、すなわち思考(思)、心の集中(作意)など(の諸種の心作用)である。
《以上要約…詳しくは本書参照》
ついにアーラヤ識という言葉が登場しました。
《以下要約》
さらに付け加えられた著者の注釈。
顕勢的・現象的な識が、われわれが通常認識しうる機能で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識と自我意識で合計七種あります。これらは諸種の心作用(心所)を伴って機能します。
感受作用、表象作用、意志作用、注意、対象に触れる作用(触)は、基本的な心作用で、心が動いている限り、つまり識が機能している限り、常に必ず伴うものと瑜伽行派は考えています。現象的な七種の識は、「転識」すなわち「活動している識」とも呼ばれます。
唯識説では、潜勢的なアーラヤ識と顕勢的な七識との因果関係が縁起にほかならず、それ以外に縁起するものはない、とされています。
《以上要約…詳しくは本書参照》
転識という言葉は「意識の形而上学」や「大乗起信論」にも出てきます。ちょっとニュアンスが違うようですが、復習しておきましょう。
《つづく》
「第四章.識と縁起」の「二.二種の識」を読みました。
『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第九偈が出てきます。
(1.9)一つは縁(因)としての識であり、(現象的な面において)享受〔など〕に関係するものが第二(の識)である。そこ(第二の識)には、享受すること、判別すること、および動かすものとしてのもろもろの心作用がある。
《以下要約》
これに対する世親の注釈。
識は、一方では潜勢的な原因の識として生起し、他方ではそれの結果として顕勢的・現象的な識として生起する。アーラヤ識は前者であり、それ以外の七つの諸識に対して原因となるものである。「縁(因)としての識」である。
それを縁として(顕勢的に)はたらいている七つの識(転識)が「享受に関係するもの」である。「享受」とは感受(受)のことである。「判別」とは観念(想)のことである。識を「動かすもの」とは形成力(行)のことであり、すなわち思考(思)、心の集中(作意)など(の諸種の心作用)である。
《以上要約…詳しくは本書参照》
ついにアーラヤ識という言葉が登場しました。
《以下要約》
さらに付け加えられた著者の注釈。
顕勢的・現象的な識が、われわれが通常認識しうる機能で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識と自我意識で合計七種あります。これらは諸種の心作用(心所)を伴って機能します。
感受作用、表象作用、意志作用、注意、対象に触れる作用(触)は、基本的な心作用で、心が動いている限り、つまり識が機能している限り、常に必ず伴うものと瑜伽行派は考えています。現象的な七種の識は、「転識」すなわち「活動している識」とも呼ばれます。
唯識説では、潜勢的なアーラヤ識と顕勢的な七識との因果関係が縁起にほかならず、それ以外に縁起するものはない、とされています。
《以上要約…詳しくは本書参照》
転識という言葉は「意識の形而上学」や「大乗起信論」にも出てきます。ちょっとニュアンスが違うようですが、復習しておきましょう。
《つづく》