トトガノート

All about TOTOGA

2010年04月

標準料金(鍼灸なし・33分触察)の目安
1人:【昼】1900円【夜】2000円
2人:【昼】1800円【夜】1900円
3人以上:【昼】1700円【夜】1800円

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で…
・1637円(午前9時〜午後6時)
・1736円(上記以外の時間帯)
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・1人の場合:284円
・2人の場合:185円
・3人以上:86円

追加項目:
・当日申込は99円
・鍼灸は1体位あたり99円の他、鍼20円(1本)、灸20円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)99.2は2月のものです。

・4月の価格
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ブログネタ:
司馬遼太郎を読む に参加中!
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十八」を読みました。

ひと足先に帰国して天台宗の体系を持ちかえった最澄ですが、桓武天皇や廷臣たちの関心は、ついでに越州から持ちかえった密教に集中しました。空海が出発したころの無関心さとは一変していました。玄宗皇帝が不空の密教に傾倒したという話が伝わってきたのに、密教は伝わっていなかったために、大いに関心がたかまっていたのです。

桓武天皇は、最澄のもたらした天台については触れず、密教にのみ昂奮し、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、旧仏教の長老たちに潅頂を受けさせよ、と命じました。

最澄の密教は、越州で(ひと月ほど滞在)、順暁という僧から教わったものでした。
《以下引用》
このとき最澄自身には自分が何を得たのか、十分わからなかった(あとになって最澄は気づき、最澄らしくきまじめな、いわば好もしい態度で狼狽する)。さらにいうと、最澄はこの越州でのあわただしい相承のとき、正統密教を構成する二つの部門である金剛界も胎蔵界も、区別がつかなかったような気配さえある。
…《引用終わり》

一方、帰国の途に就いた空海もこの越州に四カ月ほど滞在し、神秀という華厳の大学者に会い、その奥旨を会得しました。

帰国した者は大宰府に一旦滞在し、朝廷からの指示を待つのが恒例でした。そして、なぜか、空海だけが残留し、一年ほどここで過します。大宰府には観世音寺があり、奈良六宗の西国における出先機関でした。

《以下引用》…
空海の旧仏教に対する立場が――これは生涯を通じてのことであったが――最澄ときわだって異なっている。空海が、越州において華厳学者神秀を訪ねたことでもわかるように、かれは奈良六宗の一部門である華厳学に関心が深かった。かれは入唐以前、大日経的世界を独力で模索していたとき、独力ながらもその深奥に達することができたのは、大日経世界に類似する哲学ともいうべき華厳経に通じていたからであった。空海は華厳経に対して学恩を感じていたようであってし、ひきつづき関心を継続させていた。のちにかれは華厳研究の専門機関である東大寺の別当に一時期就任するはめになってしまう(空海が別当になったことによって東大寺の華厳哲学に密教的解釈が入るようになり、こんにちなおその伝統がつづいている)。つまり、それほどまで、空海は奈良仏教に親近感をもっていたし、すくなくとも最澄のようには排撃しなかった。

すでに、奈良六宗のひとびとは、最澄から攻撃されるまでもなく、自分たちの仏教が論であって教ではないと思い、旧物に化しつつあるという落魄感を、多少はもつむきもあったに相違ない。やがてその救いを、最澄と対立するかのような空海に求めようとするのだが、
この筑紫においてもすでにそうであったであろうか。観世音寺の学僧たちは空海の説くところをきいて、すくなくともその教説に敵意は持たなかったことだけは、十分想像しうる。…《引用終わり》

最澄を国師としたところに、空海が現われました。密教の伝法者が二人も出現し、朝廷は当惑したことでしょう。僧と寺に関する最高行政機関の僧綱所が調査をしたはずです。僧綱所は、不空の嫡系が恵果であることも知っていたであろうから、空海が不空密教の正嫡であることも想像できたでしょう。一方、最澄に密教を譲った越州の順暁がどういう人かも分かっただろうし、最澄は越州に一カ月足らずしか居なかったことも調べたでしょう。

「最澄、未ダ唐都ヲ見ズシテ、只辺州ノミニ在ツテ即便還リ来ル」という痛烈な奏文を、後年、奈良の長老護命ら書いているとのこと。

以上は、空海だけが大宰府に残留したことに関する司馬遼太郎の推理です。

ともあれ、「上京してその教えを流布せよ」という勅命が、空海に下ります。

《つづく》
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セパレートケータイ docomo F-04B

4月2日に入手しました。新聞を電子版に変えて、それをケータイ(F905i)で見るのにやっと慣れてきたところで、今度はケータイが変わりました。そこに新システムを導入したNHKオンデマンドが不具合で停止。ドタバタの年度初めでした。

やっと、落ち着いてきました…

セパレートと聞くと水着を連想してしまうということもあり、ずっと興味を持っていました。二つに分離してしまうブロッケン伯爵のようなケータイをFが開発中と聞いたのは去年だったでしょうか…

カタログやCMに姿を現し始めて、何となく派手なイメージでしたが、私の場合は「QWERTYキーで長文入力をやってみたい」という極めて地味な望みが購入動機でした。

でも4月になってみると、グーグルケータイ(アンドロイドOS搭載)が話題になりまして、ドコモはXperiaの宣伝に力を注いでる感じがしました。確かにビジネス業界ではそっちの方が話題性大なんでしょうね。「ますますややこしくなりそうだな…」と呟きながら、F-04Bでグーグルケータイに関する日経の記事を読むという複雑な日々が続きました。

二つ折りのケータイが今一番多いんじゃないかと思うんですが、このタイプを最初に製品化したのはNさんだったはず。セパレートケータイはFの発明ですから、これを定着させたいという気持ちもあります。

ということで、暖かい気持ちで、セパレートケータイのレポートを何回か書いていきたいと思います。

《つづく》
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悟りへの道 に参加中!
「釈尊の生涯」(春秋社)
「5.出家の旅にのぼる」を読みました。

《以下引用》
当時のインドでは、バラモン階級だけでなく、他の新興階級の間にも、人生問題を解決するために、妻子を捨て家を出て、道を求めるという風習があったので、太子もこの風習に従って、出家求道の旅に出られたのである。…それはのちに成立し、制度化したインド上層階級の四時期の習慣と関係する。四時期とは、物心ついてからの男子の一生を四つの時期に区分したのであって、それは次のごとくである。
《引用終わり》

この風習は釈尊時代にはまだ完成していなかったようですが、ほぼこれに近い風習が釈尊時代にもあったと考えられるので、ノートしておきたいと思います。

1.学生期
7,8歳のころから約十二年間の修学時代。バラモンの学問の師の家に起居し、ヴェーダその他、人生に必要なあらゆる学問技術を学び、独身で厳格な訓練の下に生活する。梵行期とも言い、学生を梵行者という。

2.家長期
二十歳前後〜。家に帰って結婚し、家長として家業に従事する。家産や子孫や祭祀の火を絶やさぬこと、神々や祖先の霊をまつること、父母師長に孝養をつくし、客を歓待し、宗教者や困窮者に財物の施しをすること、などが義務付けられる。

3.林棲期
50歳ころになって、長子が家督を継ぐころになると、家を出て森林に隠棲する。妻を伴う場合と家に残す場合がある。林中では、神や祖先の霊をまつり、生産に従事することなく、他から食を乞うこともなく、林野に自生する穀物果実、草根木皮などを食べ、獣皮、樹皮などを身にまとい、断食や苦行をなし、祭祀のほかに坐禅瞑想をなし、哲学的思索をなして、聖音オーンを念じ、梵我一如の境地を得ることに努める。この時期の人を、シャモンとか牟尼(寂黙の聖者)と呼ぶ。

4.遊行期
林中での修行が完成し、人生問題が解決され、理想の境地が体得されると、森を出て、村落や都市を、一介の雲水として、無一物になって、托鉢遊行する。学生も托鉢するが、この時期の遊行者に対して家長は丁重に仕え、衣食を給することで、大きな利益功徳が得られるとされた。比丘(食を乞う者)と呼ばれた。

これをベースに考えると、釈尊の行動も特別変ったものでもなかったようです。

《つづく》
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★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
くもんのすいせん図書(4Aの1番)「ねずみくんのチョッキ」を読みました。(小林教室収蔵)

ねずみくんによく似合う赤いチョッキ。とってもお気に入りなんですが、次々といろんな動物が出てきて…

「いいチョッキだね。ちょっときせてよ。」

ねずみくんは、嫌と言えない性格らしく…

「うん」

と答えるものだから、いろんな動物が試着していきます。ねずみくんより大きい動物ばかりなので、チョッキはどんどん伸びてしまいます。

それでも、ねずみくんは「うん」と言い続ける。

子どもは自分の物を他人に貸すのを嫌がります。でも、ねずみくんのように人のいい生き方もあるんだ!ということを気づかる本なのかもしれません。

「ねずみくん、親切でいい人だね。チョッキ伸びちゃったけど、怒らないで、ブランコにして使ってるね…」とか、言ってあげればいいんでしょうかね…。よその子にお気に入りのオモチャを貸して壊されたりしたときに、慰めに使えるということでしょうか。

でも、何も言えないで泣き寝入りする人にもなって欲しく無いので、
「チョッキが伸びちまったじゃねえか!弁償しろ!」と言ったみたら、娘たちもゲラゲラ笑い出しました。

「こんなふうに怒らないから、ねずみくんはいい人だね…」と付け加えておきましたけど。

「チョッキ」と言うのも懐かしいですね。いつごろからか「ベスト」と言うようになりましたが、子どもの頃は「チョッキ」と言ってました。私もお気に入りのチョッキがありました。絶対、他人には貸しませんでした!
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〈起始〉:上腕骨の外側縁の遠位1/4の領域,上腕骨の外側上顆,外側上腕筋間中隔
〈・〉:短橈側手根伸筋と隣接(★温溜★下廉★上廉★手三里★曲池)
〈停止〉:第2中手骨の底

〈作用〉:
・肘関節▲伸展。
・手関節●背屈●橈屈。
〈神経支配〉:橈骨神経〔(C5)〜C6〜C7〜(C8)〕
〈筋連結〉:上腕三頭筋,短橈側手根伸筋

〈触察〉:
・肘部:上腕骨の外側上顆と肘窩に指を置いたとき、これより橈側方にある筋腹が、腕橈骨筋と長橈側手根伸筋。その中央を境に、後方が長橈側手根伸筋。
・起始部:肘部の筋腹に沿って、上腕骨外側上顆から2〜3横指頭方の部位まで辿る。
・停止部:肘部の筋腹に沿って、腕橈骨筋のすぐ後方で前腕部橈側面を走る筋腹を触察する。肘関節屈曲位,前腕部回内位で、手関節を自動的に背屈させると膨隆を観察できる。

〈関連痛領域〉:
・肘表面、手の背側外側面、前腕背側。

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
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悟りへの道 に参加中!
ドラッカーの思想は仏教思想の中にもあるのでは?ということを書きましたが、今回は科学技術について考えてみたいと思います。

仏教思想はあらゆる思想を含むと言われ、科学と仏教の類似もよく指摘されるところです。先日仏教との類似を指摘したドラッカーの経営思想は、科学技術とも似ていることに気付きました。

その人がどんな性格の人かを分析し、考慮し、それぞれがそれぞれの持ち味を出し合えるように、組織の中で人間を配置していく。

これがドラッカーの全てではないでしょうけど、ドラッカーを踏まえた経営テクニックのひとつであるとすると、科学技術も全く同じことなんじゃないでしょうか?ということです。

人を物質に置き換えればいいのです。その物質がどんな性質を持っているかを分析するのが「科学」の一分野です。高温に加熱するとどうなるか、高圧に加圧するとどうなるか、純度を上げてみてはどうか、他の物と混ぜてみてはどうか、現象の再現性はどうか…。

物質の性質が分かったところで、これらを組み合わせて、求められる機能を持ったシステムを構築していくのが「技術」です。

これはまさに法隆寺を造り上げた職人技と同じでありますし、「樹の癖組み」を「人の癖組み」にまで発展させたときに哲学思想として成立します。

買った製品(科学技術によって構築されたシステム)がうまく機能しなくなると、すぐにメーカーにクレームをつけたり、捨ててしまったり、が当たり前の昨今です。

それを間違いだとは言いませんが、造り上げた職人技に感嘆し感謝することは少なくなりました。壊れたのを幸いに、分解して中身を知りたいという好奇心も失せてしまったような気がします(もちろん最近の製品は微細モジュール化してしまっていて、電気屋さんも修理できないような代物が多いから、仕方がないのですが)。

もともとバラバラに存在する物質群を組み合わせて、スイッチを入れたら確実に動くものに仕上げているの科学技術です。非常にレベルの高い職人技なのです。動かないのが当たり前の物を、動くのが当たり前の物に仕上げている。

ところが、動くのが当たり前の物が身の回りに余りにも多いものだから、動かない物を見ると多大なストレスを感じ、あたかもその存在自体が許されないかのように思い、怒りを露わにする。

これは、間違いですよね…。

私たちは、知らず知らずのうちに、人間に対しても、こういう態度を取っているんじゃないでしょうか。

《つづく》
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平均:2030円
最安値:1600円
最高値:3000円

・2月の実績
・3月の価格
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司馬遼太郎を読む に参加中!
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第六章 長安」を読みました。

《以下引用》
青龍寺の縁起は、隋の時代、六世紀後半にさかのぼる。当初は霊感寺といった。その後、寺名を変え、青龍寺となったのは唐代(711年)のことである。それからおよそ六十年後、恵果がこの寺に入ってから本格的な密教の道場として栄えたが、845年、唐皇帝武宗の命による徹底的な廃仏の嵐を受けて青龍寺も破壊された。かろうじて場所を移し細々と命脈を保ったようだが、記録の上では宋代、十一世紀初頭をもってついに青龍寺は潰えた。
…《引用終わり》

1973年になって青龍寺の跡が発見されました。80年代に入って、恵果空海紀念堂が建てられ、密教の修行も行われているとのこと。NHKの取材当時、青龍寺の住職は寛旭という人で、31歳という若さ。以下は、彼へのインタビュー。

《以下引用》
「建物という器を復元するのは簡単ですが、法を弘めることは困難なことです。私は、この寺に1997年12月に来ました。15歳で出家し、その後、普陀山をはじめ中国各地に寺院で修行したのち、ここに来たのです。私自身の意思ももちろんありましたが、中国仏教協会が廃絶した密教をここから再興させようと私を選んだのです。中国では、浄土系、禅宗など七つの系統の仏教は残されていますが、密教だけは途絶えてありません」
――それでは密教はどこで学ばれてきたのですか?
「私が潅頂を受けたのは98年、香港においてでした。潅頂を授けてくれたのは日本の長谷寺の僧侶です。潅頂といっても、私が受けたのは一般の信者が仏縁を結ぶために行う最も初歩の段階の結縁潅頂と呼ばれるものでした。最終目標の伝法潅頂など、毎日懸命に修行しなければ一生受けられない可能性もあります。がんばらなくてはなりません」
…
「…私は、青龍寺に来てはじめて空海の存在を知りました。直接の師がいない私にとって空海は心の師です。恵果が空海に密教を伝えなかったら、密教は中国はおろかこの世に存在していなかったかも知れません。空海が日本に伝えたおかげで、密教は今も生きているのです」
…《引用終わり》

中国仏教が音をたてて崩れ始めている中で、一瞬の隙を捉え、空海という男が中に入り込み、「法」を救助した…そんな感じがします。恵果も空海も、その後の展開が分かっていたかのように行動しています。それが、何とも不思議です。

《つづく》
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悟りへの道 に参加中!
「釈尊の生涯」(春秋社)
「4.釈尊の出生から出家」を読みました。

釈尊の生母マーヤー(摩耶)夫人は35歳前後で懐妊され、臨月に里のコーリヤ国に向かう途中、両国の中間のルンビニー園で急に産気を催し、お産をしました。シッダッタ(悉達多)、サンスクリットではシッダールタ(Siddhartha)という名前は「一切の目的を完成している者」という意味。当時は珍しくない名前だそうです。

マーヤー夫人は産後の経過が思わしくなく、一週間目に他界。その末妹が新しい夫人となります。つまり、二十歳くらいの若い叔母が、継母となり、シッダッタを育てることになります。ナンダ(難陀)という弟は、この継母の子。

シッダッタ王子は沈思黙考を好む性格で、ある考えが浮かぶと解決するまで徹底的に追及しなければ気が済まない人でした。瞑想を習慣とし、禅定による精神統一が得意でした。また、生来、優れた霊能力者であったようです。

そして、老、病、死について悩むようになります。他人が老いさらばえ、または病気で苦しみ悩んでも、あるいは亡くなっても、一般の人々は他人事として気に留めない。しかしシッダッタ王子は、自分の身に引き当てて悩み、慚じ、きらい、そして自分の現在の壮年に対するおごり、健康に対するおごり、生命に対するおごりに気づき、断ち切りました。

結婚後10年して子どもが授かりますが、この子に対する愛着が出家の決意を鈍らすだろうと考え、男児出生の報を聞くと、「困ったことだ、障碍が生まれた。」と言ったので、障碍(障害?)という意味のラーフラ(羅睺羅:らごら)と名づけられたそうです。

何て親だ!全く!

《つづく》
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