トトガノート

All about TOTOGA

2010年01月

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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第四章 室戸岬」を読みました。

空海が修行した洞窟、神明窟(修行の場)・御厨人窟(住処)の近くにあるという、お遍路宿のおばさんが語った話が印象的でした。
《以下引用》
…「円海さんやったかね。その人の名は。
もともと九州のキリスト教の高校出身、目が悪くてな、やがては失明するとお医者さんから宣告されて、そんで祈祷してもらったところが、なぜか目が見えるようになったんですって。その人は感動して、それなら仏道に入って、そういうパワーというかね、人を治せる、奇跡がおこせる僧になりたいと願って高野山大学に入ったそうです。
でも、大学は出たけれども、そういうパワーは全然いただくことができなくって、それで弘法大師が修行なさったように、ここに来て一年半ぐらいおったかな。ボロのキャンプを張っていたんだけど。親御さんが心配してお金持ってきても受け付けないで追い返してしまう。行き倒れのような乞食遍路に会うと、円海さんがそんな人を食堂に連れてゆく。食堂のおばちゃんが言うには、すいませんがこの人らの注文するもの何でも食べさせてやってくれませんかって言って、自分で払って食べさせてあげる。あんなことは普通の人ができるもんやないわねえって言うてました。
ほんで、そのころちょうど『空海祭』というのが始まってね。もう二十年くらい前になるわねえ。祭のときにはお坊さんの列がありますわね、みんな本山やら偉い寺から来てるからもう錦のすばらしい衣装を着ている中で、円海さんだけが、いちばん最後に僕も加わらせてください、言うて、列に入ったのはいいけど、汚い(笑)。みんな笑うほどの茶色かね、黄土色かね、そういう汚い身なりでその行進についていったんです。
私らもその時は、ひとりだけあれやねえ、みすぼらしいねえ、と言うて見ていたんだけど、なんかその姿に妙に感動するというかねえ。なんか私は、もし弘法さんがおったとしたら、生きとったとしたら、こういう人やないかなあと思うてた」

円海さんは、その後、跡取りのいない寺の養子になって住職になられたという。それまでかれの修行は続けられた。昼間は観光客や他のお遍路の邪魔になっては申しわけないと遠慮して、夜、あたりが暗くなってから「神明窟」で座禅を組み続けていたらしい。
話には、かれがここを去ることになったときの続きがある。

「私らが夜中にたまたま、月を見に散歩していた時のこと。真っ暗闇の洞窟の中でこうジーッと、本当に本当に真面目に座禅を組んでおったんです。朝、明けの明星見に行った時も、白々としてくる明け方まで、ずうっといつから座り続けているか知らんけれど、ちゃんと座禅組んで、修行しよってけんね。凛としてね。
多分うんと正直な人やと思う。僕はこれだけ修行したからこんな奇跡があった、能力を授かったって言うことがなくてね。僕はこんなに修行をしたけれども、そういう力はいただけなかった、言うてました。
正直な人やと思う。その言葉でね、あ、この人は信用できるなあ、と思いましたけどね」

《引用終わり》

私の弘法大師のイメージは、こうではありません。こんなに修行しなくても何らかの力を持っていただろうし、多少誇張するような狡猾さはお持ちではなかったかな…と。

でも、この円海さんの生き様も凄いなと思いましたので、引用させていただきました。一人でも多くの人に、こういう人もいるということを知って欲しいので。

安っぽい手品をみせつけて「これが奇跡だ!どうだ!どうだ!」みたいに驚かして信仰を迫る新興宗教もあるようです。空海の時代には、むしろ一般人のほうが仏教に奇跡を求めたようでもあります。

円海さんは、これとは全く逆なわけです。読んでいて涙が出ました。円海さんにお会いしたいな、と思いました。奇跡なんか起こせなくても、この人は自分の生き様を見せるだけで、多くの人を救えるような気がします。これも、立派な奇跡です。

《つづく》
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昔に比べたら全然大したことないのですが、山形でも正月から雪が降っています。

昔は朝早く起きて、自分の家の前の道路の雪を掃いておく(雪掃きとか雪かきとか言いました)のが雪国の掟でした。家の前がいつまでも掃かれていないのは恥ずかしいことでした。でも、これは交通は歩行が主であった時代のこと。

車が当たり前になって、道路を車が安全に走れるくらいきれいにしなければならなくなってからは、雪掃きに税金が投入されるようになりました。地元の建設業者など重機を持っている業者に市が委託して、道路の雪を道の端に寄せていくようになりました。大雪でみんな困っているときにほくそ笑むのが、この業者とスキー場関係の人々ということになります。

この除雪が行われるようになったことで、道路の雪掃きをする人がほとんどいなくなりました。除雪車の出動を市が依頼しない限り、道路の雪は放置されるようになりました。自分の屋敷内の雪はきれいに片付けても、道路の雪には一切手をつけないのが当たり前になったのです。道路の雪が邪魔になったら市に文句を言えばいいようになったんですから、自分で片付けるのはバカバカしいですよね。

更に問題なのは、除雪車による除雪は、雪をただ道の端に寄せるだけですから、家の玄関先に雪の山を平気で置いていくのです。ただ通り過ぎる車には都合がいいのですが、家に入ろうとしても入れない!家から出ようとしても出れない!ということが必ず起きるのです。

住宅地の除雪は通勤を意識してか、出勤時刻の前と帰宅時刻の前に行われるのが普通です。これ、気が利いているようですが、実際はとっても迷惑。いざ「出かけるぞ!」と車のエンジンをかけたら、除雪車が来て雪を置いていく。その雪を捨ててからじゃないと出勤できない!という事態が発生します。

帰りも同じ。家の前に着いたけど、雪の山があって家に入れない。路上駐車して雪を捨てなければならなくなります。勤め人の多い住宅地は、大渋滞が発生します。

こんなんだったら除雪するな!税金の無駄だ!と考えるのが普通ですよね。それで、市役所に電話したことがあります。
「えー、でも、除雪してくれという要望も多いものですから、やめられません。」という回答。
「それは除雪を委託されてる業者からの要望ですか?」と皮肉を言ってしまいました。

我が東根市の北の方はもっと降雪量が多く、この地域では除雪車とダンプが一緒に作業を行い、除雪した雪をダンプが河原などの雪捨て場に捨てて来るという方法を取ります。これだとすっかり雪が無くなるので助かりますが、当然経費はかかる。東根市でもやってもらえないのか、聞いてみました。

「排雪はできないのか、ということですね?天童市(東根市の南隣)でも村山市(東根市の北隣)でもやっていないものですから…」という回答。
「隣の市に右ならえの市政なんでしたら、合併して、市職員全員解雇した方がいいですよね!」と言って、電話を切りました。

まあ、これは、もっともっと大雪が降った昔の話です。若気の至りであります。市役所の方、言い過ぎてすみませんでした。温暖化は、このような悩みを幾分軽減してくれるかもしれません…。
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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「五章 輪廻と業・煩悩」の後半を読みました。

十二支縁起をまとめておきます。輪廻は惑→業→苦の順に、因から果への流れとして捉えられますが、人間存在の現実にあてはめて、より細かく図式化したものが十二支縁起説だそうです。以下、小生の要約です。

A.(1)無明→(2)行→(3)識
この三支は惑→業→苦の三段階を示す典型的な場合と考えられます。識支は現在の生存活動を代表しており、心と言い換えてもよく、認識主観の意味です。

無明も一つの煩悩であり、一種の行であるとすれば、それは何にもとづいて生じたものか気になるところですが、仏典では輪廻は無始であるとされ、何ゆえ我々が真実を知らず、無明の闇に包まれているかは人知を超えていて、ブッダも回答していません(無記)。

それでも用が足りるのは、その無明をなくせば、すなわち無明が明(知)に転換すれば、苦の滅が実現して、十二支のいっさいの因果関係も消滅し、目標は達成されるからです。

B.(3)識→(4)名色→(5)六入→(6)触
この四項は、我々の認識作用の成立条件を挙げたものですから、相互の関係は同時の依存関係です。直列の流れではなくて、並列に同時進行します。

名色は「名称と形態」、「概念とそれに対応する存在」を指します。仏典では「精神と物質」、「心と身体」と解し、識の対象としての六境(色・声・香・味・触・法)を指します。

阿含経では「根と境と識との三事が和合して触あり」と言った上で「触によりて受あり、受によりて愛あり」と説いています。根に当たるものが、六入すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意です。

C.(6)触→(7)受→(8)愛
受は感受作用。好ましいものと接触すれば楽受(喜びや幸福感、快感)が生じ、その対象に対して愛着が起こります。好ましくないものと接触すれば苦受(いやな思い、不快感)が生じ、その対象を憎んだり嫌ったりします。このような瞋恚はマイナスの愛着として、渇愛に含まれると考えるのがよいでしょう。

D.(8)愛→(9)取→(10)有
愛(渇愛)が苦の原因となる、欲望が諸悪の根元である、というのが仏教の一貫した考え方です。取は愛にもとづいて現にはたらいている執着。有は輪廻生存にほかなりません。

E.(10)有→(11)生→(12)老死(愁悲苦憂悩)
有は輪廻生存のことですから、生→老死の繰り返しです。このような無常なあり方において、われわれは愁・悲・苦・憂・悩というさまざまな苦悩を生じている。

輪廻は、無知が続く限りは無始無終ですが、無明が明に転換すれば輪廻は止まり、涅槃が実現します。そのために、修行しましょう!ということになります。

私は、輪廻については保留の立場です。仏教オリジナルではないということですし…。輪廻の死生観にドップリ浸かってしまうと、人生設計も死んでからのことに重きが置かれてしまうような気がするのです。

輪廻は、苦しみの悪循環という意味に置換できそうだし、そうすれば十二支縁起も哲学や心理学の一理論として遜色ないものになります。

《つづく》
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山一証券のドキュメントだったと思います。ある日、突然、社長が叫ぶ。「これは倒産ということなのか?」…あのような大会社が、いつの間にか倒産していたというのです。日本を揺るがす大事件が、社長も気づかないほど静かにやってくる。

先月、昨年8月のNHKスペシャル「海軍反省会」を再び取り上げた番組を見ました。戦争さえも静かに(さりげなく!)やってくることが示されていました。海軍と陸軍の張り合い。組織の中でそれぞれの思惑を通すための策略の積み重ね。個々の策略は全てが戦争を志向していたわけではありません。むしろ勝てる見込みはないということで、反戦の動きさえも少なくなかった。それなのに…

策略の積み重ねは、今日、どこの組織でも日常的に普通に繰り広げられています。勢力争いとか、面子とか、意地の張り合いとか、そんな人間のちっぽけな感情も、つもりつもって思いもよらぬ方向に転がっていくことがあるようです。

反戦運動さえも、戦争への引き金になるポテンシャルを孕んでいる…

戦争を志向しないベクトルだけを集めたのに、全部足し合わせたら、バッチリ戦争を指し示していた!なんてことが有り得るようで、とっても怖い話です。
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〈起始〉:
【長頭】肩甲骨の関節下結節
【内側頭】上腕骨の後面で橈骨神経溝より内側尾方の部位,内側上腕筋間中隔【外側頭】上腕骨の後面で橈骨神経溝より外側頭方の部位,外側上腕筋間中隔
〈・〉:三角筋の下(★臑会),上腕筋と隣接(★手五里),腕橈骨筋と隣接(★肘りょう),★青霊★天井★清冷淵★消れき
〈停止〉:尺骨の肘頭

〈作用〉:
肘関節●伸展
・【長頭】肩関節▲伸展▲外転

〈神経支配〉:橈骨神経〔C6〜(C7)〜(C8)〜T1〕

〈筋連結〉:
三角筋上腕筋腕橈骨筋烏口腕筋長橈側手根伸筋小円筋

〈触察〉:
・長頭:肩甲骨の関節下結節から肘頭に向かう筋腹に沿って上腕部の遠位1/5まで辿る。
・内側頭:上腕骨の内側縁で上腕骨頭のすぐ尾方の部位と、上腕骨外側縁の遠位1/3の部位(橈骨神経溝)を結ぶ線を想定。この線と上腕骨の内側上顆,外側上顆,肘頭に囲まれた領域に存在する筋腹。長頭と外側頭の深部に存在し、橈骨神経を挟む。
・外側頭:上腕部の後面中央部で、長頭のすぐ外側方の筋腹。上腕部の遠位1/4まで辿る。

〈関連痛領域〉
・近位は上腕の背面から、肩の背面にかけて。
・遠位は手の背面、薬指および小指まで。
・肘の直上、前腕の掌側まで。

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
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これを「」と呼ぶのが正しいのか、少し迷いはあるのですが、強引にそう呼ばせていただきまして、今日も書きたいと思います。すなわち、すべてのポテンシャルを含む状態、これを「空」とします。

すべてを含んでいるとき、それは最もバランスがいい状態ですから、この世に存在することはできません。何かを捨て去ってバランスが崩れた状態、つまり対称性が破れたとき、おそらく物質としてこの世に現れます。

ウイルスでさえ、モラルのようなものがあるらしい。そのために捨て去るべきポテンシャルというのもあるでしょう。

さらに多細胞生物として生まれた場合、反社会的ポテンシャルを捨て去るほうがいい。より社会的な方向にバランスを崩したほうが、多細胞生物という自分の立場との整合性が良くなります。

そのうえ人間である、ということになると、捨て去るべきものが多分にあるのだろうと思います。その時代や国・地域での社会的制約、風習とか思想とか…いろいろなものが複合する中で、いろいろなものを捨て去っていかなければならなくなる。

そんなふうに勝手な「空」想をしたとき、それは植物の剪定みたいなものだなと思いました。

あらゆる方向に伸びていこうとする植物。最初に、天と地の制約に出くわします。地に根を張り、天に向かって芽を出す。天にも根を伸ばそうというポテンシャルは捨て去らなければいけません。

芽を出し、順調に育っているようでも、日当たりや雨風の影響で何らかのポテンシャルは捨て去って、成長していきます。

そして、実をたくさんならせようとしたとき、その作物ごとに剪定の仕方は異なります。

本当はあらゆるポテンシャルが、ポテンシャルとしては「有り」なんだけれども、現実世界の制約と突き合わせたときに、相克関係になってしまうものがある。つまり、捨て去った方がいいポテンシャルがある…

雪が解け始めると、東北の果樹畑では剪定作業が始まります。
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平均:1961円
最安値:1500円
最高値:3200円

・11月の実績
・12月の価格
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の六」を読みました。

まずは華厳経についての記述。私が探し求めている「古き良き日本」の根源、武士道なのか仏教なのかと彷徨っていましたが、華厳経の中に見つかりそうな気配がします。

《以下引用》
…中国および日本の思想にこの経ほどつよい影響をあたえたものもないのではないかとおもえる。一個の塵に全宇宙が宿るというふしぎな世界把握はこの経からはじまったであろう。一すなわち一切であり、一切はすなわち一であり、ということも、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、また禅がしきりにとなえて日本の武道に影響をあたえた静中動あり・動中静ありといったたぐいの思考法も、この経から出た。この経においては、万物は相互にその自己のなかに一切の他者を含み、摂りつくし、相互に無限に関係しあい、円融無碍に旋回しあっていると説かれている。しかもこのように宇宙のすべての存在とそのうごきは毘盧遮那仏の悟りの表現であり内容であるとしているもので、あと一歩すすめれば純粋密教における大日如来の存在とそれによる宇宙把握になる。さらにもう一歩すすめた場合、単に華厳的世界像を香り高い華のむれのようにうつくしいと讃仰するだけでなく、宇宙の密なる内面から方法さえ会得すれば無限の利益をひきだすことが可能だという密教的実践へ転換させることができるのである。…空海はのちに真言密教を完成してから、顕教を批判したその著『十住心論』のなかで華厳をもっとも重くあつかい、顕教のなかでは第一等であるとしたが、このことはインドでの純密形成の経過を考えあわせると、奇しいばかりに暗合している。…
《引用終わり》

つづいて大日経について。

《以下引用》
…毘盧遮那仏は釈迦のような歴史的存在ではなく、あくまでも法身という、宇宙の真理といったぐあいの、思想上の存在である。…この思想を、空海ははげしく好んでいただけでなく、さらに「それだからどうか」ということに懊悩していたはずであり、その空海の遣り場のなかった問いに対し、『華厳経』は答えなかったが、『大日経』はほぼ答え得てくれているのである。大日経にあっては毘盧遮那仏は華厳のそれと本質はおなじながらさらにより一層宇宙に遍在しきってゆく雄渾な機能として登場している。というだけでなく、人間に対し単に宇宙の塵であることから脱して法によって即身成仏する可能性もひらかれると説く。同時に、人間が大日如来の応身としての諸仏、諸菩薩と交感するとき、かれらのもつ力を借用しうるとまで力強く説いているのである。…
《引用終わり》

空海の足跡の中での謎の七年間、私度僧として、社会的に肩身は狭いながらも自由な立場で、むしろそれを存分に利用して、大安寺や久米寺に出入りし、多くの経典に触れたようです。

《以下引用》
…かれは釈迦の肉声からより遠い華厳経を見ることによってやや救われた。死のみが貴くはなく、生命もまた宇宙の実在である以上、正当に位置づけられるべきではないかと思うようになったはずである。生命が正当に位置づけられれば、生命の当然の属性である煩悩も宇宙の実在として、つまり宇宙にあまねく存在する毘盧遮那仏の一表現ではないか、とまで思いつめたであろう。この思いつめが、後年、「煩悩も菩薩の位であり、性欲も菩薩の位である」とする『理趣経』の理解によって完成するのだが、その理解の原形はすでにこの久米寺の時期前後にあったであろう。…
《引用終わり》

私度僧になるということは、通常は「脱落」になります。でも、空海の場合はこの時期に思想の原形が出来上がったようです。

善無畏三蔵が725年に翻訳を終えた『大日経』が5年後には日本に伝わっていました。多くの経典の中に埋没していたものを私度僧空海が発見します。そして諸仏・諸菩薩との交感の方法を身につけるために、唐を目指します。

純粋密教は、中国でもインドでも消滅し、チベットでは変質してしまっているので、空海が確立したもの以外は残っていないそうです。

これほど有意義な「脱落」は世界史的にも稀でしょう。

《つづく》
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育児に熱心な若いパパのことをイクメンと言うそうです。「若い」というところを除けば私も該当するかもしれません。イケメンは、先天的事情で、もういくら頑張ってもなれませんから、イクメンを目指して頑張ろうと思います。

尤も、頑張るというものではないかもしれません。子供はかわいいので、その気持ちのまま自然に接すればいいわけです。ひと昔前と違って、子育てに積極的なパパというのは世間受けもいいので、周囲もあたたかく見てくれます。

それを最初に感じたのは、産婦人科でのこと。妊婦さんに説明会をするのですが、パパも参加可と聞いてビックリ。男性禁制のようなイメージがあったので、恐る恐る行ってみたのですが、ちゃんと男性も何人かいました。それだけ新しい命に対する喜びが大きいように見えます(本当はパパが暇なだけかもしれないが)。むしろ、女性一人だけの方が寂しく見えるくらい。

立ち会い出産も可でしたが、結局、いつ生まれるか分からないものをずっと待機しているわけにもいかないので諦めました。それに、壮絶な出産を見てしまったがために、パパがインポテンツになったり、最悪の場合は離婚してしまうケースもあると聞き、気が進まなくなっていたのもありますけど。

最近の出産事情はもっともっと進んでいまして、病院で出産するにしても、分娩室は普通の部屋になっていて、好きな場所を選び、好きな格好で生むそうです(もちろん、そういう病院もあるということですが)。そして、立ち会ったパパがへその緒を切るらしい

これって、どうなんでしょうね。前述の最悪のケースになる恐れが増すような気がして不安です。状況がちょっとイメージできないんですが、先ほどまで絶叫していた母親とオギャーオギャー言い始めた赤ちゃんが紐でつながっていて、それをハサミでチョキンとやる…テープカットみたいな感じなんでしょうか…「おめでとう!」パチパチパチ…

でも、男というのは本当に実感が湧かないものです。原因となる行為から10カ月も経っているし、その間、自分の体には何の変化も無いし、帝王切開ともなるとカミさんが分娩室に入って数分後には赤ちゃんが出てくるわけです。

自分の子供だということを疑うわけではないですが、生まれた!という強烈な実感は無いです。

だから、へその緒を切ったのは自分だというのは、えげつない言い方をすれば、自分の妻子の体の一部を切断したのが自分だということで、何らかの責任感は強く感じるのではないか。ただ、射精したことだけで感じる責任よりは、ずっと強いのではないか。そんなふうに思いました。

妻と子をつないでいた命の紐…と考えると、赤の他人である医者なんかに切らせていいのか?という考え方も成り立ちそうです。気合いの入ったイクメンが増えそうな気もします。

もう、私は子供を増やすつもりはありませんが、もしそれを「やれ」と言われたら…きっと断るでしょうね…基本的に憶病ですから。
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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「五章 輪廻と業・煩悩」の前半を読みました。

輪廻の観念は仏教の発明ではなく、仏教成立当時のインド社会の周知の世界観・人生観です。インド的な仏教の考え方では、死後一定のとき(四十九日)を経れば必ずどこかに生まれ代わります。ですから、日本で信じられているように、霊魂が草葉の蔭からわれわれを見守っていたり、年に一度わが家に帰ってくるようなことはない。

六道(六趣)
・天上(神々の世界)
・人間(人類)
・阿修羅(神々の敵たる魔神)
・畜生(動物類)
・餓鬼(霊鬼、もとは死者の霊)
・地獄(奈落)

《下記参考文献より引用》
輪廻とは生死(しょうじ)ともいい、迷いの凡夫の状態にある間は善悪の業報に支配されて、善業をなした者はその報いとして天上や人間などの善趣(善道)に生まれて福楽を受け、悪業を犯した者はその報いとして地獄・餓鬼・畜生などの悪趣(悪道)に生まれて痛苦を受けるというように、…六道に生死輪廻するとされる。
《引用終わり》

三界
・欲界:禅定の効果があらわれない、欲をともなった日常的意識の世界。
・色界:禅定によって欲は除かれたが肉体をなお存している。
・無色界:肉体の束縛を離れた自由な精神のみ。


輪廻の世界における生存を「有」とよぶので、三界は三有とも称せられる。仏教の教理としては、輪廻は「有」という名でとばれるほうが多い。


三界の「有」を有らしめるはたらき。煩悩(惑)がひきおこすもの。業(カルマン)は行(サンスカーラ)と類似の概念で、仏典では混用される。身業・口業・意業、善業・悪業、福業・非福業・不動業、有漏業・無漏業、など。

煩悩(惑)
原語クレーシャは「汚すもの」の意。心を汚すものは煩悩に限らないけれども、そのすべての過程の大もとにあるところの心のはたらきが、とくに「汚れ」すなわち煩悩の名でよばれる。身体や言葉によって示される行為の背後にあって、それをあらしめるようなはたらきとしての心のはたらき。行為の根元にある心を大事と見る点で、仏教は一種の動機論に立つ。 貪・瞋・慢・癡(無明)・見・疑の六種を「六随眠」とか「六根本煩悩」とよぶ。

参考文献「仏教要語の基礎知識」
《つづく》



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