トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2008年06月

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爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#39」(6月3日放送分)を見ました。先生がむしろホストのような感じで、何を研究されているのかよくわかりませんでしたが、ゲスト?の太田さんの話がとても良かった。落語の「千両みかん」の話を紹介して、物の価値が非常に相対的であることを話しました。お笑いとして、落語も勉強しているんだなと、感心しました。

太田さんは、こんな話もしてくれました。

貧乏画家がいて、紙や絵具が手に入らないときには、その画材の価値はその画家にとって何ものにも代えがたいものです。やっと手に入って、絵が仕上がったとき、その価値は絵に移ります。その絵がそれなりの値段で売れた時、その価値は代金として手に入ったお金に移ります。そのお金でまた画材を買い、絵を売り、お金を得て…という循環を繰り返す中で、価値は目まぐるしくグルグルと移り変わるわけです。

さて、この画家にとって最終的に最も価値あるものは何か?と言えば、彼自身の画家としての技術であり才能です。お金を介して、お金と交換できる価値が、彼の前をグルグルと循環しましたが、それによって得られた最もかけがえのない価値あるものは、金では買えないものである…

いい話ですね。我々は毎日、お金を介して経済活動をするわけですが、われわれにとって最も価値あるものは、お金では買えないもの(その値打ちをお金と交換することができないもの)のはず。経済活動はそれを磨くための手段でしかない。そういう感覚が倫理ではないだろうか。それを忘れ、お金そのものが最終目的になってしまうと、村上ファンドの村上さんのように「お金儲けして何が悪いんですか?」という気持ちになってしまうんじゃないか?

「あの発言は間違いだとは思わないけど、あんな場所で言っちゃいけなかったね。」という橘木先生の発言は私も同感。ここだけ、先生に拍手。

お金で買える(代えられる)「価値」と代えられない「価値」。同じ「価値」という言葉だから混同しやすいですね。混同すると、本当に大切なものを見失ってしまう…

はっきり区別できる言葉、何かありませんかね…

《つづく》
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けちけちするな!欲張るな!ということのようです。お布施をしましょう!という補足もありました。慳貪は「つっけんどん(突慳貪)」のけんどんなので、とげとげしい不親切な物言いや酷いことはやめましょう!という意味も含まれているかもしれません。

お金で買えるものと買えないものがあって、本当に値打ちのあるものは後者である、という考え方が、私が小さい頃は当たり前でした。これについては明日も書きますが…

祖母をはじめ周りの大人たちは、一度も大金持ちになったことがないはずなのに「金なんか貯めてもいいことはない」といつも言っていました。とはいえ、無駄遣いは一切せず、小銭を貯め込もうという努力は欠かさなかったのですが…

でも子供ながらに、そこに理想と現実というか、倹約とケチの違いというか、そんな微妙なものを感じ取ったように思います。

それが社会で揉まれるうちに、「金が全てじゃない」⇒「そう思いたい」⇒「ほとんどのものは金で買えるよね」⇒「とりあえず金があればいいよね」⇒「金がほとんど全てだ」と変化していったような気がします。

木下順二の「夕鶴」(「鶴の恩返し」とか「鶴女房」という民話がベース)の心を忘れてはいけないのですね。金を追い求めていくと、大切なものが逃げていく。お金という手段(道具かもしれない)を使って、お金と物をグルグル回すことによって、私たちは本当に大切なものをつかみ、磨いていくのであって、お金が最終目的ではない。

今の世の中、この見落としが大きいんじゃないかな。

《つづく》
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年金は年金保険制度とも言います。つまり、保険。保険ということはギャンブルです。

20歳から支払いを義務付けられていて、積み立てられたお金とその運用益を元に、支給開始年齢以降お金を貰い続けることができる制度です。

積み立てられたお金と運用益の方が、年金として支払われる金額よりも多ければ、契約者(受給者側)の負け(損)になります。そして、そうならなければこの制度は破綻します。

制度開始当初の計画が、破綻しないものだったのかどうかは知りません。ただ、目論見違いが起きたことも事実でしょう。不必要に高い人件費で、不必要に多くの人を採用してしまったことも間違いのひとつでしょう。そして、この人たちが予想以上に無駄な使い方をしたり、予想以上に下手な運用をしたり、予想以上に着服したり、ということもあったでしょう。さらには、人が死ななくなったということも大きな誤算だったと思います。

これには健康保険が大きく寄与しています。採算の取れない保険制度が、もうひとつの採算の取れない保険制度を、更に悪くしている(これはもちろん人道的には良いことなんですよ)。

支給額を減額したり、支給開始年齢を繰り上げたり、という詐欺行為が行えるのは公的機関の特権です。民間の保険会社ならば真っ先に人件費を削ったり、無駄遣いをなくす(経費削減)努力をします。契約内容を勝手に変えるなんてのは一人前の大人のやることではありません。というか、普通は犯罪です。

これが当たり前という感覚。こんな制度に金をつぎ込むことは正にギャンブル。穴のないパチンコ台や走れない馬のようなもの。ギャンブルよりもずっとギャンブルだよね。

《つづく》
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憂国 に参加中!
保険はギャンブルから派生したものであることは間違いないようです。こんな話があります。
三人の男がポーカーをしながら話し合った。「おれたちの中で誰が最後まで生き残るか賭けようぜ。」三人がお金を出し合って積み立てておき、最後まで生き残った男がそのお金をいただくということにした。
これが、生命保険のはじまりらしい(これも何十年か前に読んだものなので、細かいところは正しくないかもしれません)。

そこで、生命保険をギャンブルとして見てみましょう。最近は医療保険などと一緒になって生きていても保険が下りることがありますが、話がややこしくなるので、単純にある年齢にならないうちに死んだときだけ多額のお金が貰えるというもので考えましょう。

この場合、保険会社は「契約者がその年齢までは生きる」という方に賭けたことになります。契約者は「自分がその年齢までに死んでしまう」という方に賭けたわけです。

自動車保険はどうでしょう。保険会社は「契約者は事故を起こさない」という方に、契約者は「自分が事故を起こす」という方に賭けたことになります。

いずれの場合も、負ける契約者が多く、勝つ契約者はわずかでなければ成り立ちません。パチンコとか競馬でもこれは同じですね。

さて、ここからが実は本題なのですが、健康保険はどうでしょうか?保険組合は「契約者は病気にならない」という方に、契約者は「自分が病気になる」という方に賭けています。この賭け事、勝負になると思いますか?

「一度も医者にかかったことがない」という人も結構いらっしゃるのですが、風邪を含めた病気に一切罹らない人っているんでしょうか?これは賭けてもいいけど、いないはず。

「病気になっても医者に掛からない」ということなのでしょう。でも、最近はテレビなどで盛んに重大な病気の兆候を教えているので、「自分もこの病気じゃないか?」という心当たりは誰しもあるはずです。「心配だから、(違うとは思うけど)診てもらいましょう。」と思うはずだし、私もお客様から相談を受けた場合には医師の診断を受けることをお薦めしています。

「どうせ保険が効くんだし、保険料取られているんだから、使わなかったら損だ」と、考えるのが当たり前。現役世代ならば医者に行く時間が無い!という抑制因子があるからまだいいのですが、お年寄りは病気になることも多いし、治るのにも時間がかかるし、医者にかかる時間もあります。医者の待合室がサロン化するのは当たり前だし、賭け事が成立する可能性など全くありえない。

「強制的に払わされているんだから、払っただけ使うのが当たり前」と考えるのは普通ですね。でも繰り返しますが、多くの契約者が負ける(損をする)ようでなければ、保険という制度も、ギャンブルという遊びも成り立たないのです。

自動車保険を参考に、健康保険が成立するための改善点を考えてみます。例えば、自動車保険はどんな事故にでも使えるわけではありません。免責事項などもあります。健康保険も適用されない病気(あるいは適用される病気)というのを決めて、適用されない病気だと診断された場合には下りない(全額負担)にする。

また自動車保険の場合、保険を使わないと翌年安くなります。健康保険も、最初は所得で金額を決めるにしても、医者にかからなければ金額を安くしていくというやり方はあると思います。

もちろん、そんなことをしたら医者に行く人が減って医療の質がドータラコータラという批判はあるでしょう。でも、これはあくまでも採算が合うかどうかという話なのです。人道的道義的に立派である事業・制度であるということと、採算がとれるということは全く別問題です。

高齢者医療制度をどうするかに関わらず、現行の健康保険制度は、病気の妻の医者代を稼ぐためと称して、絶対に儲からない賭け事に夢中になっているダメ亭主(時代劇に出てきそうですね)と同じような気がします。国家規模で行っているので、なおさら始末が悪い。

「医療に全く無関心なサラリーマンだった十数年前の私でさえ破綻を予想していた」という意味、わかっていただけたでしょうか?

《つづき》
年金とギャンブル
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NHK に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#38」(5月27日放送分)を見ました。技術者時代はシミュレーションが仕事でした。今回の放送内容は非常によく理解できたように思います。

私は回路動作のシミュレーションが多かったですが、仕様検討のシミュレーションが楽しかった。回路設計を行う前に、期待される動作を実現できるかどうか、プログラムを組んでシミュレーションするのです。シミュレーションをしなくても確率の計算をして理論値をはじき出して仕様を決めることはできますが、これでは具体的なイメージが湧かないし、微妙に条件を変えた時の影響はわかりません。

物事を理解するにはアプリオリ(先験的:経験しなくても分かる)な場合と、アポステリオリ(後験的:経験して分かる)な場合があります。シミュレーションは、バーチャルな世界に事象を起こさせて、その中でアポステリオリに解明していく手法と言えるでしょう。両者の中間に位置づけられるものかと思います。

コンピュータの性能アップによって、非常に複雑なシミュレーションも比較的短時間でできるようになってきました。初期設定条件を微妙に変えることによって、びっくりするほど違った結果が出ることもあります。バタフライ効果はいい例です。

この世はとても微妙なところで成り立っている!ということを再三、太田さんが言っていました。なかなかいい指摘だと思いました。完全なシミュレータを作ることができたとしても、微妙な紙一重の設定条件を完全に現実と一致させることはできない。

つまり、未来を予言することはできないのです。

《つづく》
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二枚舌を禁じています。昔は両舌と言ったのか…とまた感心しました。舌が二枚もあるといいだろうな…といろいろ変なことも考えてしまいました。八方美人と同義でしょうか。

こっちでいいこと、あっちでいいこと、よく言えば臨機応変に、相手に合わせて口裏を合わせる人は居るようです。不本意ながらそうなるケースももちろんあります。「NO!」と言えなくて、「こうだよね?」と念を押され、つい「うん。」と言ってしまう。

仕事上でも悩んでしまうのは、「○○さんって、××ですよね?」とお客様に言われて「はい。」と答えると、「先生もそう言っていた!」と○○さんに告げ口する人がいらっしゃる。だから、悪口に対する相槌は気をつけなければいけません。私は「ん〜、ハッハッハッハー」とごまかすことにしています。この発音だと確かに舌は使いません。

「喧嘩の仲人」と呼ばれる人がいまして、その○○さんに告げ口する人もそうなんですが、「Aさんがあなたの悪口を言ってましたよ。」と味方のような顔をしてBさんに告げ口し、同様に「Bさんがあなたの悪口を言ってましたよ。」とAさんに告げ口するという人もいらっしゃるとか(私はお会いしたことないですけど)。良縁の仲人は非常に難しくなっている昨今、こういう仲人はいけませんね。

喧嘩の仲裁をする場合には、多少二枚舌は使わないといけないかもしれませんね。それぞれ別々に言い分を聞いてあげて、「君の言い分ももっともだね。」と肯定してあげなければいけないでしょうから。「それでもね、あの人はこう感じたのかもしれないよ…」と別な見方を付け加えることが不可欠ですけどね。これは、二枚舌ではなく、一枚の舌を使い分けるということになるかな?

ああ、牛タンが食べたくなった…牛タン屋さんは、たくさん舌を使って欲しいところです!

《つづく》
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死なない理由 に参加中!
世紀末の夜、僕は生きる意味を考えていました。

生きることに意味が必要なのか?意味のないことをしちゃいけないのか?そもそも意味って何だ?という悩み方もありますが…

どうして生まれたんだろう?両親の行為の結果とはいえ、世の中はなぜそういうシステムになっているんだろう。

当時はプラス思考を唱えるのが流行っていて、「世紀末、みんなで渡ればこわくない」という楽観的な人たちが、よく会合をしていました。要するにクリスタルチルドレン的な集まりでした。会社を辞めた僕は、そういう会合に顔を出していました。そして、プラス思考だけでは食べていけないという現実に直面し、マイナスだらけの状況をなんとかプラス思考で乗り切ろうとしている人たちを何人も見てきました。…まさに世紀末でした。

成功法を語るビジネス書、科学、哲学、宗教、スピリチュアル、など、いろいろパラパラと立ち読みしました。どれも信じ込むには物足りなくて、なるほどと思える部分を自分なりにかき集めて組み立てるしかなさそうだなと思いました。

その中で皆が共有すべきだと思う大切な考え方をひとつ見つけました。それは「みんなひとつなんだ」ということ。なぜなら、僕の場合この考え方を持たないと利他的な行動を取る気持ちになれません。この考え方を説明する方法はいくつかあります(僕はあまり気に入っていないが)。

一人の人間に必ず親が2人います。さらに一代、先祖をさかのぼると4人。さらにさかのぼると8人。n代さかのぼると2のn乗の御先祖様がいることになります。30代さかのぼると10億に達するようです。一千年くらい前になるでしょうか。日本だけで考えたら、絶対先祖が足りなくなる。だから、先祖はかなりダブっているんだよ、共通なんだよ、みんな親戚みたいなもんですよ、という説明のしかた。

それから、生き物はDNAを拠り所として生成発展を繰り返している点で共通であり、だから生き物はみんな同じ仲間なんだよ!という説明のしかた。

さらには、地球上の存在物は原子で構成されているという点で共通だし、体を構成している原子も日々入れ替わっているから、地球全体が同じ仲間なんだよ!という説明のしかた。

「葉っぱのフレディ」なんて本も当時流行りました。みんな、おおもとは同じ一本の木(それが人間という種なのか、生物という枠組みなのか、地球上の存在物という枠組みなのか、あるいは宇宙ということなのか)にくっついていて、「仲間なんだ」という感じがうまく表現されていると思います。

そして、みんな同じように生まれて、同じように悩みながら、同じように死んでいくのだということ。日本人は「皆さん、そうしてますよ。」と説得されると、だいたい弱いんです。それ以上「どうして?」とは余り聞きません。ただ、若い人はそうでなくなってきたのかもしれませんね。

漫画浮浪雲の中(何巻かは忘れました)で、こんな言葉を見つけました。「人生に何の意味もなし。ただ生きるのみ。」これは気に入っている言葉です。生きる意味。あるのかもしれないけれど、おそらく生きている人間には分からないんですね。

おおもとから分かれて、おおもととは別のポイントに立って、何かを考えてみましょう!というのが、この世に生れ落ちる理由なんじゃないかと思います。そこで何を見つけるかは人によって違う。人と違うところで、人と違うものを見つめ、人と違うことを考えて、人と違う人生をおくる…死にたいと何度も思って、精一杯生きて、寿命を全うしたときに初めて意味ができるんだと思います。

だから意味が見つからないまま死んでしまったら、自分が生きている意味は永遠に分からないまま、だと思います。

そんなことを考えながら、世紀末の夜は更けていきました。

《つづく》

葉っぱのフレディ葉っぱのフレディ
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NHK に参加中!
NHK「その時歴史が動いた」5月21日放送分は、平泉に関するものでした。平泉は岩手県とはいえ南端であり、山形からでも意外と近い場所です。小・中・高と修学旅行or研修旅行の名目で一度ずつ行き、大学の卒業旅行でも立ち寄った場所。去年の花見旅行でも付近をウロウロしました。私にとってはとても身近な場所です。

なぜ、こんなところに義経が来たのだろう?という疑問は、今回の放送を見てやっと解けた気がします。奥州は、源頼義・義家が陸奥守を勤めた、源氏にとってはゆかりの地。そして義経が追われていた頃は、京都と鎌倉と平泉が日本の3大勢力。鎌倉ににらまれたら、京都か平泉に頼るほかに無かったわけです。

しかも、京都から離れた所に拠点を置く手法は頼朝のオリジナルではなく平泉の真似だ!という指摘は、東北人としては嬉しいものです。奥州藤原氏が蝦夷の血をひく(藤原常清の妻)ものであるから、頼朝は征夷大将軍になったのかな?とも思いました。蝦夷は坂上田村麻呂が片付けたと思っていたので、これも今回解けた謎のひとつです。

この放送の数日後、平泉の世界遺産登録延期のニュースが流れ、NHKも当てが外れたかなと思いました。でも、私としてはどうでもいいことです。国際記念物遺跡会議(イコモス)が値打ちを認めようが認めまいが平泉は平泉。「ほっといて下さい」というモンロー主義が本来の平泉イズムではないかと。

「遺産」と言えば、次にくる言葉は「相続」。その次にくるのは「税」とか「争い」。いい印象を持たない言葉なんですけどね。山形では出羽三山で頑張っているようですが、レガシーフリーの方がかっこいいような気もします。ん?意味が違うかな?
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山形の温泉やレジャー、話題など に参加中!
サクランボ、早い品種が出始めています。加温栽培のものはもう出ましたけど、今年は燃料代が倍くらいかかったそうですね。加温でないものは?ということですが、今年も去年に引き続きあまり数が多くない模様です。

サクランボは開花時期の天候が作柄に大きく影響します。暖かければ、蜂が飛ぶので受粉が活発になされ、数多く実を結ぶのです。今年は開花直前に夏のような日が続き、農家はホクホク顔だったのですが、開花してみると急に寒くなり蜂も飛ばなかったようです。

写真は早く実を結ぶ品種。赤いけれど酸味が強く、甘味はほとんどありません。主力品種の佐藤錦はどうなるか。これからの天候も影響大です。大人の心配をよそに子供は大喜びです。

真っ赤なサクランボ
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死なない理由 に参加中!
後期高齢者医療制度。「年寄りいじめ」「老人差別」「姥捨て制度」などいろいろな表現が飛び交っています。その中で気になったのが
「年寄りは死ねというのか?」
これに対して、若い世代からは秘かにこんな反論も聞かれました。
「年寄りは死なないつもりなのか?」

ここで思い起こしたいのが、一休さんの作と言われるこの歌です。
親死んで 子死んで 孫死んで ひ孫死に 葬式千口 あらめでたや

これは十年以上前に講演で聞いたのをネットで検索してそのまま引用しているので、若干正確ではないかもしれませんが、ご了承ください。何代も続く名家から、「我が家のことを歌っためでたい歌を作って欲しい」と言われて、一休さんが詠んだ歌だそうです。

「こんな縁起の悪い歌は聞いたことがない!」と激怒する名家の主人に、一休さんが説明します。「親→子→孫→ひ孫と順番に死ぬのは何よりのことです。順番が逆になったらそれこそ大変な悲劇。そして、葬式が千口も挙げられるのは何代も続いている家だということです。こんなめでたいことがありましょうか?」

この話は、名家の主人のように「死ななければめでたい」という単純なことでいいのでしょうか?と問いかけているようにも見えます。長寿は誠に結構なことですが、人間は絶対に死ぬのですから、生き方(それは裏を返せば死に方)をもう少し考えるべきではないかと思います。

年寄りの側には、以前も書きましたが、「何で死ねばいいのか?」という問題があります。若者の側には、硫化水素や練炭を使いたがるという問題もあります。

一休さん、何かいい知恵ありませんか?
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