テレビは、お客様のお宅で仕事をしながら見ることのほうが多いのですが、「太田総理」の番組もそんな形でたまたま見ました。終戦記念日の頃でした。戦争を避けるためにはどうしたらよいか、というようなテーマのようでした。そこでの太田さんの発言を聞いて、非常に共感を覚えたのです。
ポイントは2つ有りました。ひとつは「正義」ということ。「自分のかみさんを殺したやつがいたら、そいつを殺すことが自分にとって絶対的な正義だ!」と叫んでおられました。もうひとつは、「戦争賛成論」について。「戦死していった人たちの手記を読んだ。みんな戦争を嫌がりながらも我慢して死んでいったのだと思ったら、戦争に賛同しお国のために喜んで死んでいった兵士の手記もあるということが、その本のあとがきに書いてあった。再び戦争が起こることがないように削除したと書いてあったけれども、それでは戦争をしっかりと反省することにはならないと思う。両方の意見があったことをしっかりと踏まえて、見つめ直さなければいけないと思う。でも、ひとつだけ気になることがある。自分がその「戦争賛成論」を読んだときに、果たして戦争反対の気持ちを持ち続けられるかどうか、自信がない。」というようなことをおっしゃいました。仕事をしながら聞きましたので、細部は精確ではないかもしれませんが、だいたいこのようなことでした。
わたしもかねがね思っていたことですが、戦争を起こすのは「正義」の心なのではないかということです。「正義」が常に世界にたったひとつしかないものならば問題は起きないのですが、大抵の場合「正義」はひとつではありません。それなのに、そう信じて疑わなくなるような魔力が「正義」にはあるし、殉ずることさえいとわないことが美しく見えてしまいます。
そして、大日本帝国にも「正義」があったと思うのです。青空文庫で石原莞爾の論文を少しだけ読んだのですが、頭を冷やしながら読まないとなかなか危険な文章だと思いました。太平洋戦争前夜、アメリカで日本人が迫害されていたことを考えると、わたしも戦争に反対していたかどうか自信がありません。
「正義」を押し通さなければ平和は訪れないという考え方と、それぞれの「正義」を抑えて全体の「和」を尊重しなければならないという考え方があると思います。後者の考え方が、聖徳太子の十七条憲法だと思います(日本に「平和憲法」の呼び名に値する立派な憲法があるとすれば、それは憲法9条ではなくて、十七条憲法だとわたしは思います)。でも、これは構成員全てがある程度の水準に達した人たち(いわゆる「おとな」)でなければ成り立たないのではないかと思います。つまり、融和(宥和)はヒトラーの再来を許すということです。
戦国時代から太平の世に移行したわが国の歴史をかんがみても、平和実現のために武力を用いた家康たちの選択は間違いではなかったのかもしれないと、わたしは思わざるを得ません。拉致したり、ミサイルを打ち上げたり、脅迫のための核実験を行う国が存在するものだから、なおさらです。
とにかく難しい問題だと思います。武力放棄と武力行使のアンビバレントな状態を温かい心で保ち続けるしかないのでしょう。熱くなってはダメですね。相手につかみかからんばかりのけんまくで「憲法9条を守れ!」と叫んでいる人を見ると、本当に戦争反対なのか分からなくなります。このアンビバレントが、いいのかもしれませんが。
「うろん語」第三巻目次(その1)を見る
ポイントは2つ有りました。ひとつは「正義」ということ。「自分のかみさんを殺したやつがいたら、そいつを殺すことが自分にとって絶対的な正義だ!」と叫んでおられました。もうひとつは、「戦争賛成論」について。「戦死していった人たちの手記を読んだ。みんな戦争を嫌がりながらも我慢して死んでいったのだと思ったら、戦争に賛同しお国のために喜んで死んでいった兵士の手記もあるということが、その本のあとがきに書いてあった。再び戦争が起こることがないように削除したと書いてあったけれども、それでは戦争をしっかりと反省することにはならないと思う。両方の意見があったことをしっかりと踏まえて、見つめ直さなければいけないと思う。でも、ひとつだけ気になることがある。自分がその「戦争賛成論」を読んだときに、果たして戦争反対の気持ちを持ち続けられるかどうか、自信がない。」というようなことをおっしゃいました。仕事をしながら聞きましたので、細部は精確ではないかもしれませんが、だいたいこのようなことでした。
わたしもかねがね思っていたことですが、戦争を起こすのは「正義」の心なのではないかということです。「正義」が常に世界にたったひとつしかないものならば問題は起きないのですが、大抵の場合「正義」はひとつではありません。それなのに、そう信じて疑わなくなるような魔力が「正義」にはあるし、殉ずることさえいとわないことが美しく見えてしまいます。
そして、大日本帝国にも「正義」があったと思うのです。青空文庫で石原莞爾の論文を少しだけ読んだのですが、頭を冷やしながら読まないとなかなか危険な文章だと思いました。太平洋戦争前夜、アメリカで日本人が迫害されていたことを考えると、わたしも戦争に反対していたかどうか自信がありません。
「正義」を押し通さなければ平和は訪れないという考え方と、それぞれの「正義」を抑えて全体の「和」を尊重しなければならないという考え方があると思います。後者の考え方が、聖徳太子の十七条憲法だと思います(日本に「平和憲法」の呼び名に値する立派な憲法があるとすれば、それは憲法9条ではなくて、十七条憲法だとわたしは思います)。でも、これは構成員全てがある程度の水準に達した人たち(いわゆる「おとな」)でなければ成り立たないのではないかと思います。つまり、融和(宥和)はヒトラーの再来を許すということです。
戦国時代から太平の世に移行したわが国の歴史をかんがみても、平和実現のために武力を用いた家康たちの選択は間違いではなかったのかもしれないと、わたしは思わざるを得ません。拉致したり、ミサイルを打ち上げたり、脅迫のための核実験を行う国が存在するものだから、なおさらです。
とにかく難しい問題だと思います。武力放棄と武力行使のアンビバレントな状態を温かい心で保ち続けるしかないのでしょう。熱くなってはダメですね。相手につかみかからんばかりのけんまくで「憲法9条を守れ!」と叫んでいる人を見ると、本当に戦争反対なのか分からなくなります。このアンビバレントが、いいのかもしれませんが。
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