トトガノート

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Tag:龍智

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「?.金剛頂経の相承」の「二.不空三蔵」
を読みました。

生涯を辿りますと、まず生まれは705年。スリランカか西域というのが有力。13歳の時に長安に入り、14歳で師匠となる金剛智(48歳くらい?)と出会う。36歳で金剛智が亡くなり、供養した後、38歳でインド・スリランカに旅立つ。サンスクリット原典や密教の修法道具を携えて長安にもどったのが41歳。朝廷に積極的な働きかけを行うが、玄宗皇帝はますます道教一辺倒になっていた。そこで44歳にして再び旅立つ。南の辺地(南海郡)にいたらしい。48歳のとき、ある節度使の招請で北西の辺地(河西)に移り、活動する。50歳のときに安禄山の乱が起こるが、これが転機となる。51歳のとき勅命により長安に帰り、戦乱の中で除災祈願や逆賊平定の修法を行い信頼を獲得。その後は、皇帝や宮廷貴族から絶大な後援を得て活動を行い、70歳で亡くなっています。

強力な中央集権体制を作りあげ、世界の文化の粋を集めた唐朝であったが、玄宗の治世の後半からは、あいつぐ内憂外患に、政治体制はたえず激動に見舞われた。このような動乱期にあって、宮廷内にそれほど強固な基盤をまだ築いていなかった密教は、その中国社会における確実な定着のために、総力をあげて国家護持の旗印を鮮明に揚げる方向に突き進んだ。その中心的人物が不空三蔵である。それまでに密教は除厄招福のすぐれた機能をもって、民衆の間に根強く信仰されていた。護国思想といっても密教がもつ呪術的な機能を国家体制の擁護に振り替えたまでであった。

母方が商人で、叔父さんの隊商の中で育ったらしいので、売り込み上手だったのかもしれません。

不空三蔵の時代の密教は、インド本来の形を失い、形式・内容ともに中国風に再整備されているところに特徴がある。それは、中国思想を摂取したというよりも、中国風な構成の出現、たとえば金剛界法と胎蔵法を融和させるという形であらわれた。…翻訳上の功績は陀羅尼を漢字で写すために、サンスクリット語と漢字との厳密な音韻の対応組織を確立したことである。それは一般に中国の音韻学に対しても重要な貢献であるといわれる。

中国の文化は、かなり密教のお世話になってるみたいですね…

《つづく》

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「?.神話的な伝承をもつ開祖」の「二.龍智菩薩」
「?.金剛頂経の相承」の「一.金剛智三蔵」
を読みました。

真言密教の相承系譜の中で、歴史的な人物としてその業績をたどることができるのは、第五祖の金剛智三蔵が最初である。第一祖の大日如来と第二祖の金剛薩埵は、真理の人格化であって、そのままでは実在の人物ではない。第三祖の龍猛菩薩と第四祖の龍智菩薩は、実在した人物ではあるが、依然として神話的な伝承の中につつまれており、現実世界に活躍する一個の人物としてはうけとりがたい。

金剛智三蔵は671年ころに中インドの王様の第3子として生まれました。幼時から博学と超能力を持っていたようです。金剛頂経系の密教が盛んな当時の南インドで大活躍しました。

朝野をあげて仏法を信じている大唐の国に、新しくインドに隆盛をみている密教を伝えよう、それによって人びとにすぐれた教えの功徳を味わせよう、まさに人生の円熟期に達しようとしていた金剛智三蔵の胸は、まだみぬ中国への開教の夢にふくらんでいたにちがいない。

長安に入ったのは48歳のころ。それから20年近くの間、密教の中国移植のために積極的な活動を行いました。71歳になったころ、帰国を許され、その準備のさなか病に倒れ、洛陽で亡くなっています。

道教が盛んで、長安に入った年は玄宗皇帝が仏教禁令を出した5年後。請雨法などの現世利益がどれだけであるか、呪法の効果が道教よりどれだけ優れているか、だけが求められていたようです。玄宗皇帝との相性も良くなかったらしい。

やはり皆、人間関係では悩むんだな…上司と相性が悪いってのはつらいよね…

《つづく》

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