トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:高野山

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「空海の夢」(春秋社)
「18.和光同塵」を読みました。

《以下引用》
…空海の神々にたいする態度はなかなか凛としている。

弘仁十年・空海は高野山の七里四方を結界するのであるが、そのときの啓白文は「敬って十方諸仏、両部大曼荼羅海会の衆、五類の諸天および国中の天神地祗、ならびに此の山中の地・水・火・風・空の諸鬼等に白さく」という高らかなファンファーレではじまっている。さらに壇場を結界するときの啓白文では、「諸々の悪鬼神等、みなことごとく我が結界するところ七里の外に出で去れ、正法を護らん善神鬼等の我が仏法の中に利益あらん者は意に随って住せよ」と、これまた決然と宣言する。神仏習合による七里結界によほどの自信があったかとおもわせる。…

…以上の高野結界にあたっての空海の活動はいわゆる和光同塵の先駆性が発揮された例として重視されるべきである。しかもこの傾向はその後もしだいに強まり、密教は日本全国の神仏習合に拍車をかける主役をになうことになる。

修験道ばかりではない。とくに台密がおこした山王一実神道や、中世において伊勢神宮の内宮と外宮を金胎両部のマンダラにしてしまった両部神道の出現はことのほかおもしろく、それこそ第七章にのべた密教のエントレインメントの特徴をよく体現したのであるが、残念ながら空海を主人公とした本書の主題からややはずれてしまうので割愛することにする。
《引用終わり》

エントレインメントとは習合のことなのかもしれません。

《つづく》
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「空海の夢」(春秋社)
「1.空海の夢」を読みました。

この本の初版は1984年です。発刊後すぐに松岡正剛さんが新聞に取り上げられまして、大きなテーマを広く深く取り扱う人という感じで紹介されていました。何となく興味を持ちまして、買ったのがこの本です。

いつか読もうと思って、書棚に飾っておりました。その間、空海に関して現在のような特別な関心はありませんでした。2度の引っ越しを経て、ブックオフしてしまいました。その直後、空海という人に関心を持ちました。半生を一緒に過ごしながら全く関心を持たず、手放した瞬間に関心を持った…と書くと大袈裟ですが、他愛のない話です。

先日、第3版を書店で見つけたので、思わず買いました。帯にある引用文を引きます。
《以下引用》
…『空海の夢』という書名の意図には、当時の空海自身が見たはずの夢も含まれる。しかしここでいう夢とは、空海その人の夢のことだけをさしているわけではない。そこには、その空海自身の夢を後世の明恵や、高野山に入った西行や、空海の遺誡でめざめた叡尊や、まさに母国語の研究に熱中した高野山の契沖や、さらにはずっと後の空海研究者や現在の私や、また本書を読む読者が、ときに互いが互いの夢を見あいながら何かを織りなしあっているという、いわば空海を媒介にした相互作用の構造が立ち上がっているはずなのである。
…《引用終わり》

このブログを介して、私もその相互作用の中に加わっていけたら…と思います。

《続きを読む》
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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第十章 高野山」を読みました。

当時NHK番組制作局教養番組部ディレクターの森下光泰さんの文章です。

《以下引用》
…空海が始めたこの大事業の進み方は遅々たるものであったようだ。この当時、朝廷や有力貴族の支援なしに私寺建立を進めるというのは、非常に困難なことで、とりわけ空海が目指したものは、その規模において、突出していた。『高野雑筆集』に残る空海の書簡では、釘を恵んでほしいという依頼や、米油をもらった感謝などが綴られ、金銭的理由によって工事が滞っていたことが推測される。空海は地元の豪族や、庶民に近い人々に寄進を頼まざるをえなかった。
…《引用終わり》

公費を使って東寺を密教化する一方で、高野山のプロジェクトは進められました。国に頼ることはお金の工面をしなくてもいいという点では楽でしょうが、自分の好きなように設計できないという不満等が残るでしょう。

公費とは、有無を言わさず払わされたお金です。支払った人たちは何に使われるのか分かりません。それに対して、寄進とは、寺の完成を願う人々が支払ったお金です。後者の方が理想であることは明らかです。

《以下引用》
…空海の思想は難解である。それに対して、奥の院を訪れる人たちの信仰はきわめて単純だ。空海その人を信仰の対象とするのである。それは空海の思想からは、大きく変質していると考えていたが、実はそれほど外れていないようにも思えてきた。そもそも空海は、文字による密教理解を憎んでいた。修行の実践が必要だということは、換言すれば、感覚的にみずからが大宇宙の一部であり、同時にそのすべてである密教思想の核心を、実感することが重要だということなのではなかろうか。目指すべきは、大宇宙の真理たる大日如来そのものになることなのである。
…《引用終わり》

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第九章 東寺」を読みました。

当時NHKエンタープライズ21文化番組チーフプロデューサーの鎌倉英也さんの文章です。

《以下引用》
…現在は東寺塔頭宝菩提院住職を務める三浦俊良氏によれば、講堂内の二十一尊には序列がないという。…
二十一尊すべて大日如来の分身であり、『理趣釈経』が説く「悟りとはすべてのものが平等であるということを知ること」を具体的に示したものなのだ。宇宙の真理をあらわすという大日如来がなぜこのように様々な「分身」をとるのか。それは、これらの仏に向き合う人間に、声聞、縁覚、菩薩、如来という「悟」の世界にいたる可能性を教えるためであるという。人間は、地獄、餓鬼、畜生などの「迷」の世界に生まれ変わり、死に変わり、輪廻するだけの存在ではなく、すべて平等に悟りにいたる「仏性」を内に秘めている。その潜在的な「仏性」が、目の前にある大日如来の形のちがう様々な「分身」にも、それを見つめている自分自身にも、備わっていることを気づかせる配慮だという。
…《引用終わり》

東寺に行ってみたくなりました。

《以下引用》
…空海は東寺建設に同時並行して現実社会の中においても、みずからの平等主義を実践に移していった。828年(天長五年)に開設した「綜藝種智院」である。…まず「貴賎を論ぜず、貧富を看ず」と謳い、教育の機会均等を掲げる。…また教授内容においては、仏教、儒教、道教の三教を並べた。… 「綜藝種智院」とは、諸藝を綜合する学校、という意味に近い。狭い範囲の知識ばかりをいたずらに追求する専門学校ではなく、人間性を高める総合学校にしたいという意図がある。そのために空海は、みずからが僧侶であるという枠などたやすく乗り越え、仏教のみでも教育不十分とし、在俗の教師を入れて儒教や道教をも修める理想を掲げる。
当時の仏教界広しといえども、国家の最高学府に学んだ経験を持つ僧侶は空海しかいない。
空海が多方面にわたって独創的な発想を持つことができた背景に自分のこの経験があることは、かれ自身がいちばん自覚していただろう。
…《引用終わり》

長安をモデルにしているとはいえ、千年以上も前にこんなことを思い立つのはやはりすごい。

《以下引用》
…東寺建設においては、国家の力を「道具として」借り、みずからの理想を打ちたてようとした一方で、高野山においては国家の力を一切排除し、民間の人々とともに力を合せてこれを造り上げようという闘いに挑む。
…《引用終わり》

《つづく》
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