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「唯識入門」(春秋社)
「第二章.認識の構造」の「一.識の顕現」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第三偈が出てきます。

(1.3)識が生起するとき、それは対境として、有情として、自我として、および表識として(四通りに)顕現する。しかし、その(識の顕現としての四通りの)対象は実在しない。それが存在しないから、かれ(すなわち識)もまた存在しない。

用語解説として…
・「識」とは第一偈で「虚妄分別」と呼ばれていたもの。
・「四種の顕現」といわれる(1)対境(2)有情(3)自我(4)表識が、全体で第一偈の「二つのもの」すなわち所取と能取に相当します。大雑把に分けると、(1)と(2)が「所取」、(3)と(4)が「能取」。
・「顕現」が虚妄分別と所取・能取との関係を説明している言葉。「識がはたらく」、認識する、知る、(虚妄に)分別する、対象(対境)を認識する、というようなこと。


四種の顕現とは…
(1)「対境として顕現する」とは、
識が色形などのあり方をもって顕現すること。色形とは、色・声・香・味・触・法の六境のこと。

(2)「有情として顕現する」とは、
自分や他人の身体(相続)において、識が五種の感覚器官(五根)として顕現すること。

(3)「自我として顕現する」とは、
自我の観念を構成する汚れた意(マナス)として顕現すること。通常は、前項の五根に意根を加えて六根と呼びますが、唯識の教学では、これに独自の意義づけを行い、六根から独立させました。

(4)「表識として顕現する」とは、
現象面ではたらいている六種の識として顕現すること。

以上四種類の顕現は、六境・六根・六識の十八界に分類される一切法の全体をカヴァーしています。

《つづく》