トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:釈尊

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以前、経営の神様(ドラッカー)と仏様の教えが似てるんじゃないか?ということを書きました。さらに、仏の教えは「金儲けの道」にもつながるんじゃないか?と最近思います。

この場合の金儲けとは、もちろん霊感商法とか、詐欺とか、悪い意味のものではありません。コツコツと努力を積み重ね、お金を払う人が得をした気分になれるような商売をし、信用を集めて、結果として繁盛し、お金が儲かるというパターンを指します。

釈尊の時代、沙門が食を得る方法は乞食と同じでした。「他の人が鉢の中に入れてくれた物しか食べてはならない、つまり一般の人々の好意に頼って生きねばならないという規定は、修行のための便利な状況を作り出すとともに、在家の人から「立派な人だ」と思われる必要性をも生む。」やがて大教団となり、大きな建物を建てたりしますが、全て寄進によるものです。

しかしながら、説法をしたり、相談にのったりということをしていたわけですから、何もしないで施しだけを受ける正真正銘の乞食とは違います。

それどころか…日々思索をめぐらすのは学者(哲学者)です。カウンセラーでもありました。説法をしバラモンを論破することもありましたから、話をするテクニック(技術)も必要とされたはず。新興宗教としてシェア(信者)を獲得していったわけですから、戦国時代のような競争社会の勝者とも言えます。

形而上の世界を扱う仕事ではありますが、世俗社会との接点は今日のビジネスと似た部分が多いような気がします。自分が今やっている仕事ともダブらせることができそうです。

「一般の人々の好意に頼って生きねばならない」というのは、現代の全ての商売に言えるのではないでしょうか?大企業と言えども、イメージを損ね信用を失墜すれば、生きていくことはできません。「立派な人(企業)だ」という評判は、仕事をする上で大きな助けになります。逆に打算に走って媚びるようなことをすれば、沙門としても成功しないでしょうし、商人としても成功しないでしょう。

自由主義とか民主主義とか、現代的なものと仏教は相性がいいように思います。毎日の仕事や生活の中で仏道の実践を目指したいと思います。まあ、それが在家に他ならないのでしょうけど。

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私が子どもの頃は珍しかった学習塾。今は当たり前のように、多くの子どもが通っています。

何のために塾に行くのだろう?当然、勉強ができるようになるため…

どうして、勉強ができなきゃいけないんだろう?いい大学に入って、いい仕事に就くため…

もちろん、そこで終わりではないんでしょうけど、取りあえず、そこで論理が一時停止するような気がします。

お金を儲けて幸せになる、というのが大抵の人の取りあえずの目標ではないでしょうか。そこから先はそうなってから考えて遅くはない。学習塾に収めた多額の月謝も、高収入の仕事に就いてペイすればいい。

かつての、たとえば幕末の松下村塾のような「塾」は全然性格が違います。先立つもの、つまりお金よりも、別のものを優先させていました。「夢」とか「志」とか。「生き方」というものに真っ向から取り組んでいます。

釈尊時代のインドには四時期という考え方があって、人生の中で「生き方」について考える時期をもうけるのが当たり前とされていたようです。

今はお金を「先立つもの」と呼んで全てに優先させ、人生問題を後回しにし、タブーとするような雰囲気さえある。だから、生きることが辛いのではないでしょうか?

やはり、学力向上だけを目標としたとき、学習塾経営は虚しいものに感じるのです。「別に東大に入らなくても生きていけるし…」と言われると、そっちの方が正しいような気がしてくるのです。

だから、かつての「塾」としての側面をそれとなく加味できないかな…と秘かに思っています。それが、塾として熟していくことかな…と。

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「釈尊の生涯」(春秋社)
「1.釈尊および釈尊伝について」を読みました。

「仏教入門」とかぶるところがあるかと思いますが、この本で釈尊の生涯を丁寧に見ていきたいと思います。

《以下引用》
それが大乗仏教になると、仏陀に関する哲学的考察がなされるようになって、仏陀には、仏陀の本質としての原理的仏陀の面(法身)と、修養努力によって完全の域に達した理想的仏陀の面(報身)と、教化し救済する相手に応じて、最も都合のよい姿をなし、特定の時代や地域に現われる具体的仏陀の面(応身または化身)との、三つに区別して論ぜられるようになった。この見方からすれば、前にあげた毘盧舎那仏(大日如来)は法身であり、阿弥陀仏は報身であり、釈迦仏や弥勒仏などは応身であるとせられる。
〔注〕
この見方からすれば、観世音菩薩も、その名は菩薩という仏陀以前の仏陀候補者にすぎないけれども、実はすでに仏陀となっているので、ただ衆生救済のために菩薩の姿をなし、相手に応じてそれぞれ三十三身等の身を現じて活動をするという。したがって観世音菩薩も応身の仏である。
《引用終わり》

仏陀とは、という最初のところで、釈尊と仏陀の違い(定義の違いというか、概念的な違いですね。釈尊=仏陀は紛れもないことです)と説明する中で、法身・報身・応身という三身説について説明しています。

この説明は他の本でも何度もお目にかかっておりまして、この本の説明が特別優れているということでもないと思いますが、自分としてしっくり来たのでノートしておきます。

《つづく》

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「釈尊時代の仏教は出家者向けであり、大乗仏教は出家できない人向けである。救われる人が違うから優劣はつけられない。」というのが、佐々木氏の意見です。

宗教に優劣をつけるとすれば、何人の人を救済できるか?がひとつの評価基準になりうると思います。しかしながら、少なくとも今の日本において、本当の出家ができる人は何人いるんでしょうか?修行のために生産活動を一切行わずに乞食になるような志を持った人が。

日常の苦しみから逃れたくて宗教にすがるんでしょうから、出家などという形で日常から抜け出せる人に宗教の需要があるんだろうか?抜け出せないから苦しんでいるんじゃないだろうか?在家の人を救えない宗教など、少なくとも現代においては実用的な意味がほとんどないように思います。

さて、「苦しみから逃れるために生産活動を休止する」と考えたら、それは入院みたいだなと思いました。うつ病やアルコール依存症の治療のために仕事をやめる人も少なからず居るようです。これは出家に似ているかもしれない。

波羅蜜など、大乗仏典に書かれてあることは、出家できない人向けの処方箋ということになります。日常生活を続けながらの治療です。

こんなふうに仏教と医療をダブらせていったら、救急救命こそ、佐々木氏が忌み嫌う超越者の概念なのではないか?と思いました。(私も最初は釈然としないものが有りましたが、観音様阿弥陀様に関して、今回さらに整理ができたような気がします)

ギリギリの切羽詰まった状況、担当医すら「ダメじゃないか?」と思うような危険な状況、そんなとき本当のことを患者に告げる医者はいないと思います。
「絶対に助かるから!僕が助けてあげるから!大丈夫!僕を信じて!」
と言い続けるはずです。医学的・科学的根拠が全く無くても、これは人道上許される方便です。そのおかげで気持ちをしっかり持つことができて、助かる人も少なくないはずです。

仏教が広がって、いろいろな人が救済を求めてきて、教団のほうでも一人でも多くの人を救いたいと思った時期が歴史上あったはずです。超越者を認めないというスタンスの仏教でしたが、超越者の話をしないとどうしても救えない人もたくさん居たはずです。仏教として、この人たちをも救いたいとなれば、不本意ながら作られる超越者の話は方便として許されるのではないでしょうか?

医療が進んでおらず家族の死に直面することも多かったであろう時代、生産技術も進んでおらず一日中仕事に追われた時代、天災や政情不安も今以上に多かったであろう時代…探しても探しても何の望みも見つからない現実の中で、何とか夢や希望を抱いてもらうには超越者の話しか無いのではないでしょうか?幸か不幸か、彼らはまだ「科学」という猜疑心を持ち合わせてはいない。

一部の裕福な権力者を除けば、大多数の人は超越者の話以外に救う手だてが無かったかもしれない…

絶対神宗教は、すべての人に超越者の話をします。しかし、大乗は人を見て、その人に合った話をすることができます。サンタクロースの話をしなくても夢を描ける人には、サンタクロースの話をする必要はありません。

仏教はあらゆる思想やアイデアを含むということですから、総合病院(救急救命完備)のようなものかもしれません。眼科、耳鼻科、整形外科、…それぞれの患者に適した処方箋(経典)が必ず見つかる。

診療科の区別、あるいは病気の進行度の区別みたいなものが、大乗仏教では十地経とか十住心に相当するのかもしれません。

より多くの人を救うという意味で、(大乗の)僧侶は一般人に極めて近い生活をしていたほうがいいと思います。乞食をしている人に生活苦の相談をする気にはならないし、結婚してない人に夫婦の問題を相談する気にもならないですから…

《つづく》

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「生きる上での苦しみを軽減する考え方を広めて、多くの悩める人を救うこと」…これが、釈尊が悟りを開いてから行ったことで、仏教の原点であり、至上目的だろうと思います。

ところで、これと同じことをやっている番組のひとつがNHKの「ためしてガッテン」だと思います。もちろんこちらは宗教ではないので、心の苦しみだけではなくて、健康上の悩みから家事の悩みまで幅広いですけど。悩みを軽減する知恵を紹介して、分かりやすく説明し、多くの人を救う活動をしている番組と言えます。

番組では、分かりやすく説明するテクニックとしては「擬人化」、多くの人に実践してもらうためには「簡単化」が行われています。

「擬人化」では、例えばホルモンの働きを説明する時に、顔や手足のついた「インスリンくん」とかが登場します。うまく働いているときは笑顔、働きが悪くなると困った顔、膵臓の中から現れて、糖のボールをいじったりする。

これは真実とは若干違います。世の中の物すべてに手足が付いていて、顔があってニタニタしていたら気持ち悪いです。でも、分かりやすさは抜群です。とにかく分かってもらうこと(ガッテンしてもらうこと)が至上目的なのですから、それでいいのです。

「簡単化」は、私はダイエットでよく見るのですが、簡単だけれどもそれなりの効果がある運動法をいろいろ紹介してくれています。私が心がけているものだけでもスロー筋トレスロージョギングなどがあります。

これは理想的な方法ではありません。最も効果的な方法は別にあります。でも、普通に生活している人が毎日続けられるものでなければ、ガッテンの場合には意味がないのです。簡単でも効果が無いのなら詐欺になりますが、ある程度の効果が期待できるなら、理想的な方法を目指して挫折するよりはずっといい。

大乗仏教では、これらの手法がよく用いられているのだと思います。

例えば、「如来」は抽象的な概念ですから、厳密には手足があるわけでもなく、印を結んで座ってるわけでもないでしょう。「修行」するのであれば、きちんと出家して、一切の生産活動をやめなければいけないのでしょうが、そうしないでも済む簡便な方法が考案されています。

苦しみを軽減する考え方を、少しでも多くの人に分かりやすくイメージしてもらうために。そして最高の実践法ではないにしても、それなりの効果があって、多くの人ができる方法を提案する。

釈尊の遺志を継いで、少しでも多くの人を救おうとした先人たちの努力に、私は敬服します。

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第五章 そして大乗」から最後まで読みました。

釈尊の没後、仏教が次第に勢力範囲を拡大し、独立した僧団が各地で散在する状態になると、僧団ごと地域ごとに教義の食い違いが出てきた。お互いに自分たちを正統仏教と考え、他者を破僧集団として非難するという深刻な分裂状態が発生した。

そこでもう一度、仏教をひとつにまとめるために、アショカ王時代(在位は紀元前268〜232年頃)ころに破僧の定義が変更されたらしい。「仏の教えに反する意見を主張する者が仲間を募って別個の僧団を作ること」が破僧の定義であったが、半月に一回の布薩儀式(いわば反省会)に僧団全員が参加すればいいことになった。つまり、これに参加しない者を「破僧」と定義し直した。

これによって仏教は多様化していくこととなる。この様々な新仏教運動を総称して「大乗」と呼んでいる。

その特徴は…
・我々自身が仏陀になろうとする。我々自身が釈尊と同じ立場のリーダーになって世の生き物を悟りへと導かねばならないという思いが前面に出ている。
・在家の人でもできる修行として六波羅蜜(特に智慧の完成を意味する般若波羅蜜)という修行方法が考案された。

***ここからは気をつけて読んで下さい***

さらには、我々が仏陀になるためには別世界にいる仏陀に会う必要があって、そのためには神秘的な作用・現象をも考案し、超越的な存在を想定せざるを得なくなった。

ゆえに、釈尊の仏教と大乗仏教とは別個の宗教であり、超越的存在を想定するという意味で、大乗仏教はユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの絶対神宗教に近い。

***ここからは私の意見***

第4章の釈尊の仏教のところまではとても心地良く読んできたのですが、第5章で流れが一変します。釈尊の仏教を「人類史上もっとも希有な宗教」と絶賛しますが、大乗には冷たい。大乗非仏説論まで持ち出して、仏教とは呼べないという主張のようです。

私は仏教についての勉強を始めたばかりですし、大乗仏典しか(それもほんの一部)読んでいません。それでも十分感動しております。だから、大乗が仏教では無くなったとしても、私にとってはそんなに大事件ではない。

例えば、ユダヤ教とキリスト教は経典を共有しています(旧約聖書)し、聖地(エルサレム)はイスラム教を加えた3宗教が共有しています。原始仏教と大乗仏教は全く別の宗教だと分類することになったとしても、そんなに異例のことでも無いように思います。

むしろ大乗を「不合理な超越者の宗教」と断じ、釈尊と大乗との間に境界線を引こうと躍起になっているところが、猿と人間との間に境界線を引こうと躍起になっていた人たち(神の視点から離れられなかった人たち)みたいでカワイイ

逆に、釈尊のごくごく普通の人間的なところが大好きだ!と第4章で書いている佐々木氏が、第5章では釈尊に固執し神のように崇めているところが気になります。釈尊を超人化(神格化)しているのは、むしろ佐々木氏の方なのではないか?と感じます。

釈尊とて我々と同じ人間だ!という認識があるからこそ、我々も仏陀になって衆生を救済しようという発想も生まれてくるわけです。そういう意味で特に即身成仏は極めて自然な発想だと思います。キリスト教ならば「みんな頑張って神になろう!」という発想はむしろ不自然ですけど。

視点の人間化の流れを進めたものが大乗仏教だ!という結末を信じて疑わずに第4章までを読み終えましたので、私なりの第5章が既に頭の中に出来上がっておりました。佐々木氏の第5章と私の第5章ではどこが違うだろうかと楽しみに読み進みましたら、何と全然似ても似つかない内容でした。ある意味、最も面白い展開でした。

恥ずかしながら、私の第5章を次回から4回くらいで書いてみたいと思います。まだまだ不勉強ゆえ、勇み足で変なことを書くかもしれません。遠慮なくご指摘下さい。

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第四章 釈尊、仏教」の後半を読みました。

仏教が誕生したころ、インドはアーリア人に支配されていて、ヴァルナ(カースト制度の前身)という厳格な身分差別社会を作っていた。頂点に立つのはバラモン(祭式を司る祭官)で、神との交信を独占していた。王はたいていクシャトリア(第二の階級)であったが、バラモンには頭が上がらない。この身分は血統で決まるため、異なるヴァルナ間の交雑は極端に嫌われ、生まれた後のいかなる努力でも変更が不可能であった。

紀元前600年ころにはガンジス川流域での農耕文化が成熟し、余剰生産物すなわち「富」が生まれてくる。それと共に王侯・貴族階級のクシャトリアの中でバラモンに対する不満が鬱積してくる。「神を操ったところで真の幸福にはつながらない。自分自身の努力によって幸福を獲得しよう」という反バラモン教の動きが出てくる。この人たちは「努力する人(シュラマナ)」と呼ばれ、「沙門」の語源となる。

釈尊は沙門の一人であり、沙門宗教で現存するのは仏教とジャイナ教だけである。ジャイナ教は厳格さゆえにインド国外に広まることはなかった。一方、仏教は周辺国に猛烈に広まったが、インド国内では八百年前に滅んだ。

最初期の仏教の特徴は3つ。

1.超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する。

仏教では、この世界全体を司るような超越存在を認めない。世界は特定の法則に沿って自動的に展開していく

釈尊は、世界に通底する法則性を見抜き、生き物がその法則性の中で真の安らぎを獲得するための方法を自力で見出した人である。決してその法則性を自在に操れるわけではない。同じ人間であり、別次元の超越者ではない。ただ、他の人たちより、勇気や智慧などの能力が格段に優れているに過ぎない。

釈尊が悟ったのは法則世界に束縛された状態にありながらも、その中での真の安らぎを得るための道である。そして、自分だけの専有とせずに、他の生き物たちにも告げ、できるだけ多くの者が同じ道を進むように呼びかけた。自分で道を切り開いた後で、もう一度皆のいる所まで戻って、非力な隊員たちを励ましながら連れて行くリーダーの姿である。

「自分は確かな安らぎへの道を見つけた。もし私を信頼するのなら後についてきなさい。途中でいくらでも手助けはするが、実際に歩くのは君たちなのだから、精一杯頑張りなさい」と言うだけ。道半ばで倒れる者や、信頼せずについてこない者まで救う力は釈尊には無い。

2.努力の領域を、肉体ではなく精神に限定する。

法則性だけで世界を理解しようとする仏教の立場は、現代の科学的世界観と共通するものがある。科学は物質だけを考察対象とし、仏教は精神だけを考察対象とする。

但し、仏教は精神の法則性の解明のみならず、それを基に自己の精神における「苦」の消滅を目指す。自己改造を目指すのである。ゆえに仏教は宗教なのである。

仏教の修行とは、釈尊の言葉を理解するための経典の勉強と、それに沿って行う瞑想の実践に集約される。反復練習の修行を繰り返すうちに精神は次第に練り上げられ、ある段階に達すると急激にレベルアップする。このレベルアップを何回か繰り返す度に、我々の精神は純化され、悪い要素(煩悩)を滅していく。煩悩がすべて消滅し、再発の危険がなくなった時、人は悟ったことになる。

煩悩がなくなれば、その煩悩のせいで生じていた苦しみの感覚もまた消滅する。肉体的側面からの苦痛の消滅(たとえば、信じれば病気が治るとか、長生きするとか)、そういった面には目も向けず、ひたすら自己の精神を改造することで苦の消滅を目指す。そこに仏教の本領がある。

3.修行のシステムとして、出家者による集団生活体制をとり、一般社会の余り物をもらうことによって生計を立てる。

仏教では、瞑想・経典読誦の修行を徹底的に行わなければ悟りは開けないという。日常のあらゆる生産活動を放棄して、自分のすべての時間を修行に使わなければならない。そんな修行者が生きていくための方法として「乞食」という方法を採用した。一般社会の人たちが食べ残した食べ物を分けてもらう生活方法である。

他の人が鉢の中に入れてくれた物しか食べてはならない、つまり一般の人々の好意に頼って生きねばならないという規定は、修行のための便利な状況を作り出すとともに、在家の人から「立派な人だ」と思われる必要性をも生む。

釈尊は、篤信の信者が布施してくれた食べ物で食中毒になり、激しい下痢に悩まされた末、沙羅双樹の間に横たわって亡くなった。

人間として生まれ、人間としてできる限りの努力によって悟りを開き、そしてごくごく普通の、人間らしい亡くなり方でこの世を去っていった…

やはり、天ぷらを食べ過ぎて死んだ家康とは、ちょっと違うなぁ…

《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?.ナーガールジュナの思想」の「1.大乗仏教の思想」「2.空観はニヒリズムか」を読みました。大乗仏教と旧来の仏教との比較(当時の情勢)が書いてあります。

《以下引用》…まず第一に、旧来の諸派は、たとえ変容されていたとしても、歴史的人物としてのゴーダマの直接の教示に近い聖典を伝えて、伝統的な教理をほぼ忠実に保存している。これに反して大乗仏教は全然あらたに経典を創作した。そこに現れる釈尊は、歴史的人物というよりもむしろ理想的存在として描かれている。…《引用終わり》

ここでお釈迦さまが超人化したんですね…

《以下引用》…第二に旧来の仏教諸派は国王・藩候・富豪などの政治的・経済的援助を受け、広大な荘園を所有し、その社会的基盤の上に存立していた。ところがこれに反して大乗仏教は、少なくとも初期の間は、民衆の間からもり上がった宗教運動であり、荘園を所有していなかった。…富者が寺塔を建立し莫大な富を布施することは非常に功徳の多いことであるが、しかし経典を読誦・書写し信受することのほうが、比較にならぬほどはるかに功徳が多いといって、経典の読誦を勧めている。…《引用終わり》

法華経とか大乗起信論などでも、「この本を読むことが他の本を読むよりもずっとずっと功徳がある」という自画自賛的な表現があって、私はこれが嫌なんですけど、歴史的背景に由来するようですね。

《以下引用》…大乗仏教においては、三世十方にわたって無数に多くの諸仏の出世および存在を明かすに至った。諸仏の中でも阿閦仏・阿弥陀仏・薬師如来などがとくに熱烈な信仰を受けた。また、菩薩も超人化されて、その救済力が強調された。弥勒菩薩・観世音菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩などはとくにその著しいものである。かれらは衆生を救うためには種々なる身を現じてこの世に生まれてくる。そうして衆生に対する慈悲ゆえに自らはニルヴァーナ(さとりの境地)の入ることもない。…《引用終わり》

平泉が表現している浄土は薬師如来の浄土だと聞いたことがありますが、阿弥陀仏の極楽の他に、阿閦仏の妙喜国、弥勒菩薩の兜卒天などもあるようです。

《以下引用》…大乗経典は、それ以前に民衆の間で愛好されていた仏教説話に準拠し、あるいは仏伝から取材し、戯曲的構想をとりながら、その奥に深い哲学的意義を寓せしめ、しかも一般民衆の好みに合うように作製された宗教的文芸作品である。…《引用終わり》

その最も典型的なものが法華経のようです。以下の引用を見るとわかります。

《以下引用》…大乗仏教徒は、小乗仏教徒を極力攻撃しているけれども、思想史的現実に即していうならば、仏教の内の種々の教説はいずれもその存在意義を有するものであるといわねばならない。この道理を戯曲的構想と文芸的形式をかりて明瞭に表現した経典が『法華経』である。…従来これらの三乗(声聞乗(釈尊の教えを聞いて忠実に実践すること)・縁覚乗(ひとりでさとりを開く実践)・菩薩乗(自利利他をめざす大乗の実践))は、一般に別々の教えとみなされていたが、それは皮相の見解であって、いずれも仏が衆生を導くための方便として説いたものであり、真実には一乗法あるのみである、という。…法華経の宥和的態度はさらに発展して、『大薩遮尼乾子所説教』や『大般涅槃経』においては、仏教外の異端説にもその存在意義を認めるに至った。…《引用終わり》

ほう…、涅槃経というのにもちょっと興味が出てきました。

《つづく》

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大乗起信論(岩波文庫版)
第五段「修行の勧めと修行の効果」まで読みました。一応、読了ということになります。

紀元前後(ということは奇しくもキリスト生誕前後ということか…)にインドで起こった仏教の宗教改革と位置づけられるのが大乗仏教だそうです。それをうまくまとめたのがこの「大乗起信論」。5〜6世紀ころの成立とされています。

日本の仏教は殆どが大乗仏教ですから、どの宗派を勉強するにも「大乗起信論」は共通の大前提になるのだろうと思います。

最近、大乗非仏説という考え方があることを知りました。「お釈迦様が亡くなって数百年も経ってから成立したものは、仏様が説いたものとは言えないのではないか?」という主張です。まあ、一理ありますね。

でも、「仏」はお釈迦様だけとは限りません。この問題は、大乗仏教をつくった人たちを「仏」と認めるかどうか、に帰着するのではないかと思います。

私の場合は、「古き良き日本人の原点は何か?」ということが出発点 です。しかも思想の部分(哲学としての仏教)に特に興味がある。だから、仏説か否かは全く気にしてません。

仏教は、トヨタとかホンダのように創業者の名前を掲げていません。素直な言い方をすれば、キリスト教とかマホメット教とは違います。だから、釈尊にばかりこだわるのはどうかな?とも思います。そう考えていくと大釈別体説の真言密教が一番スッキリしていると感じます。

仏教に取り組んだ多くの人たちが、考え、悩み、議論して、蓄積していったのが大乗仏教だと思います。その発端をつくったお釈迦様の功績も絶大ですが、その後に続いた人たちの功績も素晴らしい。

そして何よりも、その英知の蓄積を文庫本の形で簡単に読める時代に生まれた我々は本当に幸せだな、と思います。尤も、そういう恵まれた環境にありながら、いっこうに不安とか争いとかが無くならないのはどういうことなんだ?とも思いますけど…

後日、もう少し詳しい本で、「大乗起信論」を読み直したいと思います。

《最初から読む》

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第四章仏身論第二節「大日如来論」まで。

五智や四(五)種法身について語られています。興味深かったのは、釈尊と大日如来の関係について。つまり、大釈同体説か大釈別体説か。

他の宗教でもこれと似た議論はあると思います。教祖と神(のような存在)との関係。同じとするか、別だとするか。

これは飽くまでも私の好みの問題なのですが、別にして欲しいな…と思っています。教祖は飽くまでも我々と同じような人間であって欲しい。物凄い超能力を持った天才だった!と言われると、どうもリアリティがなくて信仰する気が湧かない。

釈尊に限らず、教祖さまが生まれるずっと前から宇宙があったわけで、大宇宙の中のちっぽけな銀河系、その中のちっぽけな太陽系、その中の一惑星にポツンと生まれ落ちた一人の人間が、大宇宙全てを統括するような偉大な存在だ!と唱えるのは無理がある話です。

大宇宙全てを統括するような法というのはずっと前から存在していて、その全てを人間が理解するということは不可能なのだけれども、一番近い線まで気づいた人(理解できた人)が教祖さま!という説明の仕方が一番いいと思う。

これを仏教でいえば大釈別体説ということになります。この立場を取るのは真言密教だけだと思います。私が真言密教をお気に入りにしている理由のひとつです。

《つづく》

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