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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十九」を読みました。

《以下引用》
…帰国後の空海は、なるほど多忙であった。
かれは、日本文化のもっとも重要な部分をひとりで創設したのではないかと思えるほどにさまざまなことをした。思想上の作業としては日本思想史上の最初の著作ともいうべき『十住心論』その他を書き、また政治的には密教教団を形成し、芸術的には密教に必要な絵画、彫刻、建築からこまごまとした法具にいたるまでの制作、もしくは制作の指導、あるいは制作法についての儀軌をさだめるなどのことをおこなっただけでなく、他の分野にも手をのばした。たとえば庶民階級に対する最初の学校ともいうべき綜芸種智院を京都に開設し、また詩や文章を作るための手引きをあたえ、その道に影響するところがあり、さらには『篆隷万象名義』という日本における最初の字書もつくった。このほか、讃岐の満濃池を修築し、大和の益田池の工営に直接ではないにせよ参与した。
《引用終わり》

多彩な多才です。僧侶としての仕事だけを見ましても、多忙です。

高雄山寺に住んでいましたが、当時は和気氏の私寺でしたから、この経営を見なければなりませんでした。密教は彫刻と絵画を中心とした美術によってその思想を表すので、いかなる宗よりも経費がかかるそうですが、これを捻出しなければなりません。このため、まだまだ高雄山寺の密教化は満足のいくものではありませんでした。

奈良の東大寺の別当も兼ねていました。これを密教化するために真言院は建てたものの、東大寺は華厳の中心機関であり、南都仏教の根拠地のひとつであるため、空海の思いのままに改造できるわけではありませんでした。

密教の中心機関を設けたいということで、高野山に私寺を造るという構想も抱いていたはずですが、おそらくいろいろな事情でままならなかったことでしょう。

そこに東寺の話がありました。既存の建物を利用するとはいえ、国費で密教の中心機関を造るという話です。空海は東寺に講堂を建立し、そこに二十一尊の仏像をおさめました。さらに潅頂堂、鐘楼、経蔵、五重塔もたてました。しかしながら、他宗の者は入らせないという閉鎖的な道場にしました。

《以下引用》
もともと密教というのは、唐では「宗」という一個の体系のものとは言いがたく、仏教界におけるありかたも、既成仏教のなかにあらたに入ってきた呪術部門という印象のものであった。
空海が唐ばなれしたのは、本来仏教に付属した呪術部門である密教を一宗にしただけでなく、既成仏教のすべてを、密教と対置する顕教として規定し去ったことである。しかも密教を既成仏教と同格へひきあげたのではなく、仏教が発展して到達した最高の段階であるとし、従って既成仏教を下位に置き、置くだけでなく、『十住心論』において顕教諸宗の優劣を論断し、それを順序づけた。…「他人」が東寺に雑住しにくることさえ禁じたのである。
「他人」の代表的な存在は、密教を依然として呪術部門としたがる最澄の天台宗の徒であった。かれらは密教をことさらに「遮那業」とよび、その名称でもって天台宗の一部門とし、空海から遮那業を学びとろうとして、たとえば泰範問題がもちあがった。空海は「雑住」を禁ずることによって泰範的な問題が繰りかえされることをふせごうとし、さらには密教が一宗であることを護ろうとした。
「狭キ心ニアラズ」
と空海はいうが、たしかにそうではなく、密教を一宗として独立させようという大目的のための他者への拒絶とみるべきであった。しかしながら、空海以後の日本仏教の各宗が宗派仏教としてたがいに胸壁を高くし、矮小化してゆく決定的な因をなしたという点で空海もまた最澄と同様、その責をまぬがれえないともいえる。ただ論理的体系とはつねに「狭キ心」から出てくるという一般論のレベルからいえば、空海はこの国にあらわれた最初の論理家ということもいえるであろう。
《引用終わり》

この言い訳に、人間空海の苦悩が感じられます。真言宗が一宗派として確固たるものになるまで御存命であれば、この禁をあるいは解いたかもしれませんね。

《つづく》