トトガノート

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Tag:遣唐使

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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第五章 渡海」を読みました。

日本から唐までは航路にしておよそ700キロ。最短で10日、漂流した空海たちは34日かかったそうです。

季節風も潮流も逆という、出帆には最も不適な時期をなぜか選び、舵取りは占いまかせだというのに、34日しかかからなかったんですね。逆の意味でスゴイ!

遣唐使船の全長は25メートル、幅7メートルと推定されているそうです。そこに120人〜150人が乗り込んでいたらしい。その状態で、34日間です…

803年3月に最澄が乗った遣唐使船が一度出航していますが、暴風に遭い引き返しています。空海は、翌年再出発するという話を聞いて急遽渡海を思いたち、慌てて準備をしたようです。803年の暴風が無ければ、真言密教も無かったのでしょうか…神風ならぬ仏風?

漂着した先で囚われの身となった空海は、大使の釈明文が全然効果が無いので、大使に代わって筆を執ります。その文章は「性霊集」に収められているそうですが、中国人が読んでも素晴らしいと感じるらしい。

《以下引用》…
「恐ろしいまでのレベルの高さです。当時、空海は三十一歳の青年で、しかも日本人でした。そのような人がこれを書いたとはとても信じられません。でも事実なのです。おそらく空海は子供のころから日本の中でも飛びぬけた中国文化の中で生活してきたのではないでしょうか。私は国語の教師でしたが、こんな文章が書ける中国の青年にお目にかかったことは、ついにありませんでしたよ(笑)」
《引用終わり》

この漂着の地が、聖地として観光地化しているそうです。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十一」を読みました。

遣唐使船は、目的地からかなりずれたところに漂着します。占いで進路を決めていたのだから、当然ではありますが…。

密入国者として捉えられ、倭国から来たと言っても信用されず、万事休すかと思われたところで空海が一筆したためるや、一変して国賓扱いになります。この劇的な展開は、劇作家(?)空海の演出をにおわせる…。

《以下引用》…
空海は、のちのかれの行蔵からもうかがえることながら、自分の行動についてはすぐれた劇的構成力をもっていた。かれの才能の中でいくつか挙げられる天才や異能のうち、この点がもっともすぐれたものの一つといっていい。かれが『三教指帰』という戯曲を書いた男だということを、ここで思い出すべきであろう。三つの思想の比較と優劣を論ずるについて論文の形式をとらず、戯曲のかたちを選び、しかも自分のモデルが登場するという表現形式をとったことじたい、芝居っ気ということについての天成のなにかをにおわせている。
《引用終わり》

遣唐使は、国賓としてかなり丁重に扱われていたようです。新羅の使者よりも席が下だったことを怒り、改めさせたこともあるそうで、当時の日本人は意外と外交上手だったんですね。今の日本人が下手なだけでしょうか?

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十」を読みました。

当時の遣唐使船は、羅針盤のような物は一切なく、占いで進路を決めていたというのですから、ゾッとします。

《以下引用》…
倭人どもがこの中国式天文学のばかばかしさに気づくのは、このあと時間を経ねばならない。空海の時代より九百年を経、十八世紀初頭になってようやく西川如見が『天文義論』を書き、「唐土の占星というのは、多くは人事の吉凶禍福に符合させるためにある。考えてもみよ、一人一家の吉凶を天体が感ずるであろうか」と迷蒙をひらいた。
《引用終わり》

「考えてもみよ」というところが気に入りました。占いに頼るくらいなら、他にいくらでも何かありそうですけどね…。遣唐使船のように人生を占い、遣唐使船のように人生を漂流している人が、現代でも少なくないのではないでしょうか。

船の中では、占いや僧侶による誦経が繰り返されていました。空海は「そんなもの効くものか」という思いで見ていたことだろうと司馬遼太郎は推理しています。

体も疲れ、心も疲れ、人々は次々と倒れていきます。効果があるとも知れない方法にすがらざるを得ず、右往左往しながら消耗していく様は、今日の日本そのものです。

《以下引用》…
空海はおもっていたであろう。
「…仏天は自分に密教を得しめようとしている。風も浪も船もことごとく仏天の摂理のなかにあり、この風浪もこの航海も、そして船艙にたおれ伏している病人たちも、その摂理のまにまに在り、そのほかのものではない。摂理の深奥たるや、密なるものである。その密なるものを教えるものは密教のほかなく、その密教は長安にまできている。自分は倭国からそれを得にゆく。わが旅たるや、わが存在がすでに仏天の感応するところである以上、自分をここで水没させることはないであろう。この船は、そういう自分を乗せているがために、たとえ破船になりはてようとも唐土の岸に着く。このこと、まぎれもない。…」
《引用終わり》

そんな中でも挫けないでいるためには、こういう使命感とか、信念とか、大望とか…、夢とかロマンとか、…「虚構」が必要なのかもしれません。それを持ち続けられる人が、やはり強い。

今日、最も有効な「虚構」とは何だろう?

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の九」を読みました。

《以下引用》…
空海がやったことは国家がやるべき事業でありながら、空海個人の負担によっておこなわれた。最澄の場合、天台教学を移入することは国家が公認している。その経費は国家もしくはそれに準ずる存在から出たが、空海はそうではない。このことは、空海のその後の対国家姿勢にも重大な影響をあたえたといっていい。かれは帰国後、自分と国家・宮廷を対等のものと見た。ときにみずからを上位に置き、国家をおのれの足もとにおき、玉を蹴ころがすように国家をころがそうという高い姿勢を示した。その理由のひとつとして、自分こそ普遍的真理を知っている、国王が何であるか、というどすの利いた思想上の立場もあったであろう、そのほかに、
「自分の体系を国家が欲しいなら、国家そのものが弟子になってわが足もとにひれ伏すべきである」
という気持ちがあった。さらにその気持をささえていたのは、遣唐使船に乗るにあたってかれが自前で経費を調達し、その金で真言密教のぼう大な体系を経典、密具、法器もろとも持ちかえったという意識があったからにちがいない。空海は私学の徒であったとさえいえる。
《引用終わり》

最澄と空海は好対照な点が多々あるようですが、上記の点について着目すると、「官」の最澄、「民」の空海、と言えそうです。

唐への滞在費用から、お土産、日本に持ち帰るもの一切を調達する費用等々、莫大なものです。最澄の場合は、それら全てを国家から準備してもらい、しかもすぐに帰国する予定です。ところが、空海は全部自前である上に、滞在予定は20年。

尤も20年というのは建前で、空海自身はすぐに帰ってくる腹づもりだっただろうと司馬遼太郎は推理しています。したがって、20年分の滞在費用を惜しげもなく必要なものに投入できたのだろう、と。

それにしても、どうやって資金を集めたのか。この能力だけでも素晴らしい。そして、集めた大金をドンと使う度胸の良さ。現代ならば、一代で大企業を創ってしまうような才覚です。

だから、強力なパトロンがいたんじゃないか?という気もします。しかし密教の体系を構築するに際し、遠慮しなければいけないようなパトロンがいれば、かくも完璧な体系は出来上がらなかったような気もします。千利休と秀吉のようなことになりかねないですから…。

謎は尽きませんが、空海は間違いなく超人です、俗世においても。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の八」を読みました。

空海は、遣唐使という形で、7〜9年の空白の中から、突如現れます。

《以下引用》…
かれが正規に得度をして官僧になるのは、遣唐使船に乗る前年である。このころになってようやく僧になる自信を得たかとおもえる。禁欲についての自信を得たということではなく、禁欲という次元からはるかに飛翔し、欲望を絶対肯定する思想体系を、雑密を純化することによってかれながらに打ち樹てることができたときに、僧になってもいいと思ったにちがいない。
しかし、その思想体系は唐にゆかねば日本において公認されないのである。唐の長安には、インドの純密の正系を伝える人物がいるはずであった。多くの未移入の経典をもちかえることも必要であり、あるいはまた密教が冥々のうちに宇宙の意思と交感する以上、どういう所作をすればよいかということを知る必要もあった。さらには所作のための密具も必要であるであろう。それらを持ちかえらねばならないし、それ以上に必要なのは、空海自身がインド密教の伝承を長安において正統に受けることであった。
もしそれをしなければ、空海はただの官僧にされてしまうであろう。

空海はそういう官僧の世界からのがれたいと思っていたし、げんにそれを避けるために得度を遅らせていたのであろう。空海は、かれが展開させようとする野望的世界をもっている。…そのためにはみずから密教を創始せねばならない。しかしそれを日本に居っぱなしでおこなうことはできなかった。
《引用終わり》

遣唐使は、国産の船を、国内の操船技術で動かしていかねばならず、非常に危険なものでした。最低限、死ぬ覚悟は必要で、それだけのリスクを冒してでも唐に渡りたいという人が希望したわけです。行ける人数は今の宇宙飛行士よりも多いでしょうが、生還の確立はずっと低かったことでしょう。

最澄を乗せた遣唐使船は、暴風に遭い、一度断念しています。再度出航する機会を、空海は狙って、得度し、乗船の資格を得るための運動を行ったと司馬遼太郎は推理しています。

《以下引用》
…最澄は、それだけ大仕事をするための一団を組んでいるのである。
最澄自身は還学生といういわば視察者として短期で帰ってくるが、留学生という長期滞在者も連れ、そのうえ、最澄が唐語にくらいというので通訳までついているのである。

《引用終わり》

空海の立場に比べると、かなり恵まれています。こういう人には、どうしても応援したくなくなります。最澄自身が望んでそうなったわけではないということですが…。

《つづく》
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