はりきゅうの仕事で、あるお客様を訪問していた時です。家具の大安売りのチラシを見て、余りに安かったので、「二つ(次女の分も)買っちゃおうかな…」と言ったところから議論が始まりました。

お客様いわく:
「小学校入学は人生の中で重要なポイントだということを子どもに教え込むことが大切だ。だから、小学校に入らない妹にも一緒に机を買ってあげるなんてことは断じてしてはならないのだ!自分は小学校に入るのだ、今までとは違うのだ、という自覚と感動が子供の成長を促すのだ。」

おっしゃる意味は分かるんですが、正直「???」でした。

小学校の教諭を定年退職された方で、現役時代は熱血先生で有名だった方です。今回、初孫が産まれたばかりなので、教育について改めて思うことがあるのでしょう。しかし、息子さんはともかく、嫁さんも同じ考えを持っているとは思えませんでした。嫁姑戦争が勃発する前に、私と衝突しといたほうがいいんじゃないかと思い…反論することにしました。

私:
「おっしゃることが間違いとは言いませんが、絶対にそうしなければいけないというのはどうでしょうか?そうでない考え方もあると思います。入学という儀式を過大に演出すると、子供にとってはストレスになったりはしないでしょうか。学校に行くのが怖くなったりしないでしょうか?

例えば公文は、幼稚園児も小学生も中学生も、同じ机に向かって勉強しています。進学は、同じ教室のお兄ちゃんお姉ちゃんが通ってる学校に行くことだと思っています。全くの未知の世界に行くという感覚はありません。それは良いことではないですか?」

お客様:
「だから、感動が少ないのだ。小学校に入るということで感動する。そこで読み書きを覚えるということで感動する。計算ができるようになるということで感動する。それがとても大事なのだ。公文をやっていれば、小学校でそういう感動を味わうことはできなくなる。優越感には浸れるかもしれないが。」

小学校に入るまで読み書きや計算はできない方がいい、とも取れる主張で、ますます「???」だったので、敢えて突っ込むのはやめました。

入学する感動、読み書きや計算ができるようになったという感動は、各自がその都度、それぞれのタイミングで味わってもいいのではないでしょうか?少なくとも、全員一緒に味わなければいけないということはないのではないでしょうか?

良し悪しは別にして、最近の傾向は、人生の道程にも段差を余り設けたがらないような気がします。ただ、スムーズに進んでいける代わりに、逆境には弱くなるというデメリットは当然あると思いますけど。

…というところを取りあえず落とし所としたのですが、気づいたら50分も経っていました。施術よりも長かった仲人さんだから、まあいっか。