トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「一.修行の階梯」の「ブッダの知恵と身体」を読みました。

識が智に転依するということでしたが、転識得智は八識が転じて四智を得るということで、『仏地経』という経典や、『仏地経論』や『成唯識論』に書かれています。

・アーラヤ識→大円鏡識(円鏡のごとく清浄な智、無分別智)

アーラヤ識がそうであったように、大円鏡智も全ての智の根源として平等性智以下を生みだします。したがって、全体的には、アーラヤ識なる所依が大円鏡智という所依に変貌することが転依と言えます。

その仏は真如、即ちもののありのままのすがた――空性・縁起――と一体となった如来であり、法を身体としているという意味で法身と呼ばれます。

あるいは仏の仏たるゆえんのものとしてのさとりそのものという意味で、自性身と呼ばれます。

・マナス(末那識)→平等性智(自我意識をすて自他平等とみる智)

自他平等の知恵としてはたらき、生死と涅槃の平等を知って、大悲を起こします。

平等性智以下は、仏の法身・自性身がおのずから具えている知恵で、さとりの後で得られる(後得)清浄な世間智ということになります。

・第六意識→妙観察智(ありのままに事物の相を洞察する智)

自他・主客を分別する形をとってはたらきますが、もののありのままの姿をも知っています。

平等性智と妙観察智は、仏の受用身、あるいは報身と呼ばれる身体に伴う知恵。浄土にあって菩薩たちのために説法したりします。

・前五識→成所作智(衆生済度のために種々の仏業を現ずる智)

眼・耳・鼻・舌・身を通じて五種の認識を行う点ではアーラヤ識に基ずく五識と同じですが、その性質は五識の転換したものとしてひたすら衆生の救済のためにはたらきます。

仏がわれわれ凡夫の前に現れた時、すなわち仏の変化身(化身)に伴っている知恵のはたらきです。

この仏の持つ四種の知恵と同じものを、菩薩は転依によって獲得し、その力で、生死輪廻の世界にとどまり、仏と同じ衆生済度の事業に邁進します。

《つづく》

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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「一.修行の階梯」の「心の転換」を読みました。

《以下要約》
転依の「依」はもともとは身体の意味。唯識説でもそうですが、アーラヤ識の身体維持機能が心身の同一性を保っているので、結局はアーラヤ識ということになります。

アーラヤ識は日常的なあり方では、マナスとしてはたらき、自我意識を生み、六識としての各種の認識、総じて主客・自他の分別を起こして、いろいろな煩悩を生み、業を引き起こし、苦につながります。

そのアーラヤ識が、仏の教えを繰り返し聞くことによって聞薫習力がはたらくと、アーラヤ識としての機能を失います。上記の一切がなくなり、唯識性に入る。つまり、さとりであり、涅槃です。

このとき、心身の統一体は存続していますから、アーラヤ識の身体維持機能は有効なはずです。つまり「依」は同じであるが、その土台の上の機能は識から智へ転換しているので所「依」としての性質が「転」換したと見るわけです。

転依を得た菩薩は、輪廻生存において自由自在になり、どんな衆生の間にも現れ、教え、巧みな方便を用い、人々を導きます。

生死の苦悩は消滅し涅槃を得ているはずですが、輪廻の世界にとどまっているので涅槃には入っていません(無住処涅槃)。そこでは生死と涅槃がひとつになります。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》

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「釈尊の生涯」(春秋社)
「2.釈尊前後のインドの時代と環境」を読みました。

・ヴェーダ時代(紀元前1500〜1200年)
アーリア人がインドに侵入し始め、この新しい土地で、一方では自然の脅威と立ち向かい、他方ではドラヴィダ人などの先住民族と衝突していたが、着々と勢力を拡大していった。

・ブラーフマナ時代(紀元前1200〜700年)
アーリアの社会が安定したものになる。アーリア人は、バラモン(純粋な種族。祭事や学問をつかさどる最上位の階級)、クシャトリヤ(異民族との混血種族のうちで、戦いに従事したり、政治を司る武士王族の階級)、ヴァイシュヤ(異民族との混血種族のうちで、牧畜、農業、商工業などにたずさわる庶民の階級)の3つの階級を形成。その下に被征服民族のドラヴィダ族がシュードラ(奴隷階級)として仕えた。

・ウパニシャッド時代(紀元前700年以後)
アーリアの社会は爛熟とともに腐敗堕落するようになった。ガンジス上流地方から東南の中流地域へと繁栄は移り、新天地では政治勢力をもった王族階級が実質的権力を握った。商業貿易も盛んで、豪商財閥も多かったらしい。

祭官であるバラモンは私利私欲に走って、真面目な研学実践や、民衆の精神的指導のような、本来の義務を怠り、民衆からの信頼尊敬と、社会への影響力を次第に失っていった。

そこで、新しい思想が生まれた。神や祭式が人生の運命を決定するという説に対して疑問をいだくようになり、人間の運命はわれわれ自身の心の持ち方や努力のいかんにかかっており、われわれの行為の善悪によって決定されると考えられるようになった。

それはわれわれの自由意志による善悪の業(行為)によって、幸不幸の結果が得られるという善因善果、悪因悪果の因果応報の思想である。

この因果の連鎖は、単に現世のみの間に存在するのでなく、過去から現世へ、現世から未来世へというように三世にわたって不断に存続するとせられた。これが三世にわたる業報説であり、業に従って幸不幸の世界に生まれ代るという輪廻説である。

ウパニシャッド時代には、昔ながらの祭祀バラモンと、業報輪廻説を説き、輪廻からの自我の解脱を考究実践する哲学バラモンとがいた。

・解脱思想
輪廻は永遠に続いて、そのままでは、この輪を断ち切ることはできず、絶対の幸福と安心は得られないから、実は苦悩にみちたものであるという、現状に対する悲観が基調となっている。

この不安な現状を脱して、絶対平安の世界を求めたのが解脱の要求であり、ウパニシャッドでも、自我(アートマン)と精神世界である梵(ブラフマン)とが融合して、梵我一如の理想境に到達した時に、輪廻からの解脱が得られるとした。

《つづく》

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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「五章 輪廻と業・煩悩」の後半を読みました。

十二支縁起をまとめておきます。輪廻は惑→業→苦の順に、因から果への流れとして捉えられますが、人間存在の現実にあてはめて、より細かく図式化したものが十二支縁起説だそうです。以下、小生の要約です。

A.(1)無明→(2)行→(3)識
この三支は惑→業→苦の三段階を示す典型的な場合と考えられます。識支は現在の生存活動を代表しており、心と言い換えてもよく、認識主観の意味です。

無明も一つの煩悩であり、一種の行であるとすれば、それは何にもとづいて生じたものか気になるところですが、仏典では輪廻は無始であるとされ、何ゆえ我々が真実を知らず、無明の闇に包まれているかは人知を超えていて、ブッダも回答していません(無記)。

それでも用が足りるのは、その無明をなくせば、すなわち無明が明(知)に転換すれば、苦の滅が実現して、十二支のいっさいの因果関係も消滅し、目標は達成されるからです。

B.(3)識→(4)名色→(5)六入→(6)触
この四項は、我々の認識作用の成立条件を挙げたものですから、相互の関係は同時の依存関係です。直列の流れではなくて、並列に同時進行します。

名色は「名称と形態」、「概念とそれに対応する存在」を指します。仏典では「精神と物質」、「心と身体」と解し、識の対象としての六境(色・声・香・味・触・法)を指します。

阿含経では「根と境と識との三事が和合して触あり」と言った上で「触によりて受あり、受によりて愛あり」と説いています。根に当たるものが、六入すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意です。

C.(6)触→(7)受→(8)愛
受は感受作用。好ましいものと接触すれば楽受(喜びや幸福感、快感)が生じ、その対象に対して愛着が起こります。好ましくないものと接触すれば苦受(いやな思い、不快感)が生じ、その対象を憎んだり嫌ったりします。このような瞋恚はマイナスの愛着として、渇愛に含まれると考えるのがよいでしょう。

D.(8)愛→(9)取→(10)有
愛(渇愛)が苦の原因となる、欲望が諸悪の根元である、というのが仏教の一貫した考え方です。取は愛にもとづいて現にはたらいている執着。有は輪廻生存にほかなりません。

E.(10)有→(11)生→(12)老死(愁悲苦憂悩)
有は輪廻生存のことですから、生→老死の繰り返しです。このような無常なあり方において、われわれは愁・悲・苦・憂・悩というさまざまな苦悩を生じている。

輪廻は、無知が続く限りは無始無終ですが、無明が明に転換すれば輪廻は止まり、涅槃が実現します。そのために、修行しましょう!ということになります。

私は、輪廻については保留の立場です。仏教オリジナルではないということですし…。輪廻の死生観にドップリ浸かってしまうと、人生設計も死んでからのことに重きが置かれてしまうような気がするのです。

輪廻は、苦しみの悪循環という意味に置換できそうだし、そうすれば十二支縁起も哲学や心理学の一理論として遜色ないものになります。

《つづく》

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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「五章 輪廻と業・煩悩」の前半を読みました。

輪廻の観念は仏教の発明ではなく、仏教成立当時のインド社会の周知の世界観・人生観です。インド的な仏教の考え方では、死後一定のとき(四十九日)を経れば必ずどこかに生まれ代わります。ですから、日本で信じられているように、霊魂が草葉の蔭からわれわれを見守っていたり、年に一度わが家に帰ってくるようなことはない。

六道(六趣)
・天上(神々の世界)
・人間(人類)
・阿修羅(神々の敵たる魔神)
・畜生(動物類)
・餓鬼(霊鬼、もとは死者の霊)
・地獄(奈落)

《下記参考文献より引用》
輪廻とは生死(しょうじ)ともいい、迷いの凡夫の状態にある間は善悪の業報に支配されて、善業をなした者はその報いとして天上や人間などの善趣(善道)に生まれて福楽を受け、悪業を犯した者はその報いとして地獄・餓鬼・畜生などの悪趣(悪道)に生まれて痛苦を受けるというように、…六道に生死輪廻するとされる。
《引用終わり》

三界
・欲界:禅定の効果があらわれない、欲をともなった日常的意識の世界。
・色界:禅定によって欲は除かれたが肉体をなお存している。
・無色界:肉体の束縛を離れた自由な精神のみ。


輪廻の世界における生存を「有」とよぶので、三界は三有とも称せられる。仏教の教理としては、輪廻は「有」という名でとばれるほうが多い。


三界の「有」を有らしめるはたらき。煩悩(惑)がひきおこすもの。業(カルマン)は行(サンスカーラ)と類似の概念で、仏典では混用される。身業・口業・意業、善業・悪業、福業・非福業・不動業、有漏業・無漏業、など。

煩悩(惑)
原語クレーシャは「汚すもの」の意。心を汚すものは煩悩に限らないけれども、そのすべての過程の大もとにあるところの心のはたらきが、とくに「汚れ」すなわち煩悩の名でよばれる。身体や言葉によって示される行為の背後にあって、それをあらしめるようなはたらきとしての心のはたらき。行為の根元にある心を大事と見る点で、仏教は一種の動機論に立つ。 貪・瞋・慢・癡(無明)・見・疑の六種を「六随眠」とか「六根本煩悩」とよぶ。

参考文献「仏教要語の基礎知識」
《つづく》



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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「勝鬘経」の「四 一諦章」「五 如来蔵章」「六 終章」を読みました。

《以下引用》…苦の滅とは、存在するものの消滅という意味ではありません。(苦が、そしてその原因たる煩悩が、本来、非存在であるということです。)…はじめも知られない昔から存在し、つくられたものでも、生まれたものでもなく、滅尽することもなく、…常住・堅固(・寂静・永続的)で、本性として清浄であり、あらゆる煩悩の蔽いから脱却しており、…知恵と不離なる、不可思議なほとけの諸徳性をそなえた如来の法身が、「苦の滅」という名によって示されているのだからです。…このまさに同じ法身が、まだ煩悩の蔽いから脱却していない状態にあるとき、それが如来蔵と呼ばれるのです。
…《引用終わり》


如来蔵に関する知とは、如来の空性の知です。如来蔵が空性を示すと知ること(如来蔵空智)は2種類の内容があります。
1.如来蔵には、(もともと法身と無関係で、さとりの知恵から切り離された、あらゆる)煩悩の蔽いが欠如している(つまり空である)。
2.(煩悩は虚妄で非存在であるが、)如来蔵は(法身と密着・不可分で)、(さとりの知恵と切り離しえない)ほとけの諸徳性を本来そなえている(つまり不空である)。

また、如来蔵は生死輪廻のよりどころです。生と死をあらわす輪廻とは如来蔵の別名です。死とは諸感官の機能停止、生とは新しい感官の発生です。ところが如来蔵には、生も死も滅も起もありません。如来蔵は有為の存在の領域を超えて、常住・堅固・寂静・永続的であります。

この本性として清浄な心が、煩悩によって汚されている。このことを信じましょう。…というのが結論のようです。

ちょっと気になるのは、この記述。
《以下引用》…
この三種の(如来の)家のよき男子や女子たち以外の衆生なるものは、もろもろの深遠な教えに対し、自分勝手な見解をいだいて、それを最上とみなし、あまつさえ、まちがった観念をもって執着しつつ、教え、説明します。…私は、彼らは真実の教えに背反するもの、異教徒、腐った種子の持ち主であるから、たとえ君側にあっても、調伏すべきである、と申し上げたい。
…《引用終わり》


異教徒は如来蔵ではないの?という疑問が湧きます。「やっていい戦争」があるというふうにも読めます。

「勝鬘経」は聖徳太子も好んで読んでいましたから、和を尊んだ彼も戦地に赴くときは、この辺りの記述を思い起こして力を得たのではないかと思われます。

「シュリーマーラー夫人が獅子吼した説示」という副題が付けられています。とっても怖い奥さんをイメージしてしまう(恐妻家だから?)のですが、こういう仏に関する大演説を「獅子吼」と表現するようです。四誓偈にも出てきます。

なぜ女性に言わせたのか?やはり、口では(口だけじゃない?)女にかなわないのが古今共通ということでしょうか…。

《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「1中論」の「第10章」から「第20章」まで読みました。各章、好きな一文を抜き出します。

第10章.火と薪との考察
12.火は薪に依存してあるのではない。火は薪に依存しないであるのではない。薪は火に依存してあるのではない。薪は火に依存しないであるのではない。

第11章.前後の究極に関する考察
7.輪廻に以前の究極が存在しないというばかりでなく、結果と原因、また特質づけられるものと特質、さらに感受作用と感受主体、およびいかなるものであろうとも、あらゆるものに、以前の〔最初の〕究極は存在しない。

第12章.苦しみの考察
1.苦しみは<自らによって作られたものである>(自作:じさ)、<他によって作られたものである>(他作:たさ)、<両者によって作られたものである>(共作:ぐうさ)、<無因である>(無因作:むいんさ)と、ある人々は〔それぞれ〕主張する。しかるにそ〔の苦しみ〕は結果として成立するというのは正しくない
10.苦しみが〔つくられることについて〕〔上述の〕四種類が認められないばかりでなく、外にある諸事物の〔成立についても、上述の〕四種類は存在しない。

第13章.形成されたものの考察
5.それ(前の状態にあったもの)に<変化するという性質>が無い。また他のもの(のちの他の状態に達したもの)にも<変化するという性質>は適合しない。何となれば、青年は老いることがないから。またすでに老いた者はもはや老いることがないから。

第14章.集合の考察
1.見られる対象と見る作用と見る主体と、これらの三つはおのおの二つずつである(見られる対象と見る作用、見る作用と見る主体、見る主体と見られる対象)。しかし、それらは相互に全面的に集合するには至らない。
2.貪りの汚れと貪り汚れる主体と貪られる汚れた対象もまた、そのように見られるべきである。そのほかのもろもろの煩悩も、またそのほかの12の領域(十二処)も、この3つによって説明される。

第15章.<それ自体>(自性)の考察
4.さらに<それ自体>と<他のものであること>とを離れて、どこにもの(存在するもの)が成立しえようか。何となれば、<それ自体>や<他のものであること>が存在するからこそ、もの(存在するもの)が成立するのである。

第16章.繋縛と解脱との考察
8.要するに、束縛された者は解脱することがない。束縛されていない者も、解脱することはない。もしも束縛された者がいま現に解脱しつつあるのであるならば、束縛と解脱とは同時であるということになるであろう。

第17章.業と果報との考察
33.もろもろの煩悩も、もろもろの業も、もろもろの身体も、また行為主体(業を作る者)も、果報も、すべては蜃気楼のようなかたちのものであり、陽炎(かげろう)や夢に似ている。

第18章.アートマンの考察
5.業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。

第19章.時の考察
6.もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるのであろうか。

第20章.原因と結果との考察
20.もしも原因と結果とが一つであるならば、生ずるもの(能生)と生ぜられるもの(所生)とが一体になってしまうであろう。また原因と結果とが別異であるならば、原因は原因ならざるものと等しくなってしまうであろう。

《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「1中論」の「第9章」まで読みました。各章、好きな一文を抜き出します。

第一章.原因(縁)の考察
1.もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他のものからも、〔自他の〕二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。

第二章.運動(去ることと来ること)の考察
1.まず、すでに去ったもの(已去)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>(去時)も去らない。

第三章.認識能力の考察
6.<見るはたらき>を離れても、離れなくても、<見る主体>は存在しない。<見る主体>が存在しないから、<見られるもの>も<見るはたらき>も、ともに存在しない。
8.<見られるもの>と<見るはたらき>とが存在しないから、識など4つ(〔識〕のほか、感官と対象との接触〔触〕、感受作用〔受〕、盲目的衝動〔愛〕)は存在しない。故に執著(取)など一体どうして存在するであろうか。
※眼(見ること)のみならず耳・鼻・舌・身・意も同様である。


第四章.集合体(蘊)の考察
4.物質的要素がすでに〔以前から〕存在するのであるならば、<物質的要素の原因>なるものは成立しえない。また物質的要素がすでに〔以前から〕存在しないのであるならば、<物質的要素の原因>なるものは、やはり存在しえない。

第五章.要素(界)の考察
6.有(もの)が存在しないとき、何ものの無が存在するだろうか。有とも異なり、無とも異なる何人があって有無を知るであろうか。

第六章.貪りに汚れることと貪りに汚れた人との考察
10.こういうわけであるから、<貪りに汚れること>が<貪りに汚れている人>と倶に成立することはないし、また両者が倶にならないで〔別々に〕成立することもない。<貪りに汚れること>と同様に、一切のことがらが倶に成立することもないし、また倶にならないで〔別々に〕成立することもない。

第七章.つくられたもの(有為)の考察
34.あたかも幻のごとく、あたかも夢のごとく、あたかも蜃気楼のようなものであると、譬喩をもってそのように生起が説かれ、そのように住が説かれ、そのように消滅が説かれる。

第八章.行為と行為主体との考察
12.行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。

第九章.過去の存在の考察
7.もし一切の見るはたらき等よりも先なるものが存在しないならば、どうして見るはたらき等の一つ一つよりも先なるものが存在しようか。

《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「8否定の論理の実践」の「2ブッダ」「3縁起を見る」を読みました。

《以下引用》…
ナーガールジュナが『中論』において述べているブッダ論は、異色のあるものである。一般の仏教徒にとっては恐ろしくショッキングなものである。
…《引用終わり》


ということですが…

《以下引用》…
われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである。これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、究極において一致しているという『般若経』の説を受けついだものであろう。如来の本性が世間の本性であり、如来の本性は甲であり非甲ではないと限定することはできない。如来はあらゆる対立を超越している。したがって本質が無い(無自性である)といわれる。仏教徒は如来を独立な存在と考えて思弁に陥りやすいが、ブッダとは「名のみ」のものであるから、しばしば、夢、幻、鏡の中の像などに譬えられている。
…《引用終わり》


これは、ショッキングではなくて、「なるほど」ですね…私の場合。

《以下引用》…
『中論』の説くこのような如来は、諸註釈からみると法身(仏の真実の身体)を意味している。…『般若経』によれば、この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味であるという。そうしてこれらの諸語はすでに述べたように縁起と同一の意味であるから、さらにつきつめて考えれば如来の法身とは縁起の理法そのものを意味するに違いない。
…《引用終わり》


この考えを最も強く引き継いでいるのが真言宗ではないかと思います

さて、「縁起を見る者」が「さとりを開いたもの(覚者)」と言われ、「法(苦集滅道)を見る者」であり、「仏を見る者」である(p304〜p305に詳述)。

《以下引用》…
縁起説の意味する実践とは、われわれの現実生存の如実相である縁起を見ることによって迷っている凡夫が転じて覚者となるというのである。故に、何人であろうとも縁起を正しく覚る人は必ず等正覚者(ブッダ)となるであろうという趣旨のもとに、無上等正覚を成ぜんがためにこの縁起説が説かれたのであると説かれている(『稲幹経』)。したがって大乗の『大乗涅槃経』においては、ついに、十二因縁は仏性であると説かれるに至った。
…《引用終わり》


縁起の如実相を見る智慧が「般若(明らかな智慧)」になります。般若によって縁起を見れば無明が断ぜられる。そして、十二因縁の各項がことごとく滅し、たんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する…

《以下引用》…
ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。しかるに人間としてのブッダは老い、かつ死んだ。この矛盾…の解答は(『中論』には)与えられていない。しかしながら、われわれが自然的存在の領域と法の領域とを区別するならば、縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。自然的存在の領域は必然性によって動いているから、覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。ブッダも飢渇をまぬがれず、老死をまぬがれなかった。ブッダも風邪をひいたことがある。しかしながら法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起とよばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる。
 したがって覚者の立場から見た諸事象は、凡夫の立場に映じている諸事象のすがたの否定である。したがって自然的存在としての覚者には何らの変化が起こらなかったとしても、十二因縁の各項がことごとく滅するという表現が可能であったのだろう。
…《引用終わり》


ここんとこ、すごくいいので、長いけどメモらせていただきました。

《以下引用》…
この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期の仏教において説かれている。ナーガールジュナはこれを受けて、その可能であることを非常な努力をもって論証したのであるから、この点においてもナーガールジュナの仏教は、意外なことには、或る意味では最初期の仏教の正統な発展であると解してもさしつかえないであろう。
…《引用終わり》


《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「8否定の論理の実践」の「1ニルヴァーナ」を読みました。

ニルヴァーナ(涅槃)とは、仏教が最終目標とする境地と言っていいかと思います。
《以下引用》…
『中論』をみると、「もしも〔五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を〕取って、あるいは〔因縁に〕縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる」(第25章・第9詩)と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷するのを凡夫の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナである。人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場に立つときがニルヴァーナである。
 輪廻というのは人が束縛されている状態であり、解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。
 故に輪廻とニルヴァーナとは別のものではなく、「等しきもの」であり、両者は本来同一本質(一味)である。…
 この思想は独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想の根底となっているものである。
 人間の現実と理想との関係はこのような性質のものであるから、ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない。ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。故に『般若経』においてはニルヴァーナは「夢のごとく」「幻のごとし」と譬えている。それと同時に輪廻というものも実在するものではない。
…《引用終わり》


これは昨年の大晦日に私が仏教について抱いている考えをまとめたものと合致すると思います。

《以下引用》…
これは実に大胆な立言である。われわれ人間は迷いながらも生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。
…《引用終わり》


すべては気の持ちよう…ということになりそうですが、結局そうなんでしょうね。すべては妄念の所産というところから仏教は始まるわけですから、妄念から自分を解放することが最終目標ということにもなるでしょう。

《つづく》

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