トトガノート

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Tag:裁判員制度

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不殺生という戒めは、誰もが当たり前と考えることかと思います。
「人殺しは悪いに決まってるじゃないか!」

そして、つい、「他の生き物も殺してはいけないんだ!」と言ってしまいがちです。そんなとき、ドキリとしてしまいそうな厳然とした事実があります。

「生命は生命を食べて生きている」ということ。「人は何かを食べなければ生きられません。何かとは他の生き物。他の生き物を殺し続けながら、私たちは生きていかなければならない。」ということ。

確かに、昨日牛肉を食べた。今朝、お魚を食べた。でも、僕が殺したんじゃない。死んだ牛の肉塊を買って来たんだ。死んだ魚を買って来たんだ。

殺したのは僕の知らない、誰かさ…

でも、誰も買わなかったら、その「誰か」は牛や魚を殺さなかったはず。だとしたら、間接的ではあるにせよ、金を払って殺しを依頼したことにはなりませんか?

でも、それを責めるつもりはありません。だって、そうしなかったら、私たちは生きられないのですから。「不殺生」の戒めは、他の生き物の「死」の上に私たちの「生」が成り立っているのだということを忘れるな!ということだと思います。

さて、死刑制度についても同じことが言えそうな気がするのです。私は死刑を宣告したことはない、私は死刑を執行したことはない、と皆今まで思っていたのです。でも、この制度を変えようという行動も特に起こさず、裁判官や執行人に納税という間接的な形ではあるにせよ代金を払っていたわけです。

でも、それを責めるつもりはありません。死刑制度の是非を問題にするつもりもありません。ただ、私たちはそういう形で、自分たちの社会を守るために、つまりは自分たちの平和な「生」のために、共存できないと判断した犯罪者を「死」に追いやったということは、ひとりひとりが自覚しなければいけないということです。

その自覚のためには、裁判員制度は有効であると思います。一般の人間が、死刑を宣告した重みを背負うのはいかがなものか?という議論ばかりがなされているようです。でも、本当の問題はこれまでその重みを背負っていなかったということではないでしょうか?

裁判員制度は、それ以外の論点で評価されるべきと考えます。

仙台で見てきた話は先日書きました。その時に考えたこと…「映画を見た時との違い」そして「怒るということ」。

この映画を見たのはテレビで、確か淀川長治さんが解説していたように思います。二十年くらい前でしょうか。今、この劇を見ると、最初に浮かぶのは裁判員制度です。が、これについて再び考えるのは疲れてしまいました。それよりも、この制度に対する自分の考え方、あるいはアメリカという国に対する考え方がすっかり変わってしまったことに気づいたのでした。

二十年前(もっと前かもしれない)、私の中にはまだアメリカという国への信頼とあこがれがありました。劇中のセリフの中にも、「自由の国」とか「民主主義の国」とか「フェアネス(公正さ)を重んじる国」としてのアメリカを誇っているニュアンスが感じ取れます。それにいちいちうなづいていました。「やはりアメリカはスゴイな」と。陪審員制度なんてあるんだからな…。日本ではそんなこと何年たってもできやしないだろう…。

今、裁判員制度が導入され、賛否はどうあれ、この制度のメリットは何なのか?まだよく分かりません。日本もそういう制度を導入できるようになった(せざるを得なくなった?)けれども、それが良いこととはとても思えない自分がいます。まして、アメリカが自由で公正な民主国家だなんて…。

ただ、このお話、「怒る」ということをなかなかうまく描いています。十二人の男が、それぞれの形で怒っています。貧民階級への偏見から生じる怒り、自分と対立している息子と被告をダブらせての怒り、何で赤の他人のために相談しなくちゃいけないんだという怒り、冷静にあるいは論理的にみんなが議論しないことに対する怒り、フェアネスの国にいてフェアな裁判をしようとしない人たちへの怒り…。

しかし、怒りはどれも、理不尽であり、強引である。やはり、人は「怒り」を原動力にして生きてはならないのだな、と思いました。

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「神の視点」から「人間の視点」への移行というのを考えた時、「民の見えざる手」というフレーズが頭に浮かびました。

市場原理で価格が決定するシステムを、正当化するためと言えばいいんでしょうか、神聖化するためと言えばいいんでしょうか。「神の見えざる手」という言葉には、王権神授説みたいな俗っぽさを感じます。

神様が俗界の象徴みたいな「お金」に手を出すんだろうか?「神様は賭博場に通うのか?」的な批判は当時無かったんでしょうかね。八百万の日本ならば、賭博場の神様も居そうですけど。

「神の裁き」とか「最後の審判」とか、西洋の神様は裁判がお好きなようです。だから、裁判とは神聖なもの…と思いがちです。でも、最近、私は違うような気がしています。天罰のようなものは除外するとして、少なくとも民事とか刑事とかの裁判は神聖なはずがないと。

本当に神聖な存在は人を裁くだろうか?神様が賭博場に通うことに違和感を覚えるのと同じように、神様が法廷に立つことも奇妙なことに思えてならないのです。

裁判員制度は、司法における「神の視点」から「人間の視点」への移行ではないでしょうか?神に近いと思われる良識ある専門家たる裁判官から、一般の人間へと判断が委ねられる…

科学史を展望して気付いたのは、「神」と呼んでいたものも結局のところ人間が想定したものに過ぎません。政治・経済・司法等々の様々な分野でも、いたるところに「神」は現れ、極めて俗っぽい作業にもその手を染めていました。

でも、それは「神」の手ではありませんでした。われわれ「民」の手だったのです。

《つづく》

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裁判員制度 に参加中!
裁判と鑑定団て似てるな、とふと思いました。裁判というのも、罪の重さを鑑定するという点では「なんでも鑑定団」みたいなもんじゃないだろうか?と。「何をバカな!」とおっしゃる方が多かろうことは重々承知の上です。

市場では、物の値段は売り手と買い手との間で折り合えば、基本的には成立します。そこが、裁判とは違うでしょうかね。被害者と加害者、あるいは検事と弁護士が相談して罪を決めるわけではないですから。でも、大体が両者の間を取って決めるのであれば、大差ないかもしれません。

「なんでも鑑定団」は買い手がいないかわりに、鑑定士が玄人の判断を下します。裁判官みたいですよね。

裁判員制度への反対意見として「『あなたは死刑ですよ。死んで下さい。』と我々一般の人間が宣告することなんですよ!そんなことできますか?」というものがあるということは先日書きました。死刑を含む罪の重さと、物の値段とでは全然深刻さが違うじゃないかという意見もあるでしょう。

例えば、こんな場合どうでしょう。親父の形見の骨董品がたくさんあるから、いざとなればそれを売っぱらえばいいやという考えで、借金をしまくっていた人がいたとします。そして、いよいよ骨董品に手を付けざるを得ない日がやってきました。ところが鑑定してもらうとガラクタばかり。全部売っても二束三文でした。借金取りに追われたその人は、自殺するしかありませんでした…

値段をつけることが、死刑宣告みたいなことになる場合だってある。

もっと拡大させれば、普段の何気ない一言がきっかけで、一人の人間の人生を変えてしまうことは結構あるものです。「一般の人間が、他人の人生に介入するようなことはできない」と裁判員制度反対の人は言うのですが、お互い介入しあって生きているのが人生なんじゃないでしょうか?

他人の人生を変えたり変えさせられたりし合うのが、社会なんじゃないでしょうか?

《つづく》

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裁判員制度 に参加中!
昨日も今日も触る話です。町田痴漢冤罪事件に関する報道を、先日テレビで見ました。映画「それでもボクはやってない」のモデルになったと言われています。

満員電車の中で痴漢と間違われて、法廷で無罪を主張しても一向に認められず、裁判費用に一千万円も費やし、懲役一年6カ月の判決を受け、無実を信じる妻や娘に泣かれながら刑務所に入るところが映されていました。

これを見た妻、妙に憤っていました。「私は痴漢にも変態にもまだ会ったことがない!」というビミョウな前置きをした後で、「こんなことが許されていいのか!?」「あなたならどうする!」と捲し立てます。

「ボクは5万円で済むんだったら…家族にさえ信じてもらえればいいかな…」
ガリレオでさえ「それでも地球はまわる」と呟きながら天動説を認めたのだし…

僕なりのこの事件のポイントは、推定無罪の原則はどこに行ったのか、ということです。やったかやってないかは二の次…と言っては語弊がありますが、被告側も被害者側も決定的な証拠というのは出せていない(満員電車の中では普通不可能だと思う)のです。だから、やったかやってないか分からない時には「被告人の利益」なのではないのですか?という疑問。

「やった!やってない!」の水掛け論では埒があかないから、男性が認めて5万円払えばそれでいいですよという鋼の慣行ができあがっているんですね。だから、ガリレオ的妥協ができない人(これが真っ当な人なんですけど)はひどい目に遭ってしまう。

「反省してない」と判断されて、痴漢ごときで(と言ったら語弊がありますが、凶悪犯罪ではないですよね)懲役になる…一方「やった」とさえ言えば5万円で済むというのは絶対おかしい。これなら殺人の方がいいですよね…精神異常の演技に成功すれば無罪なんですから。5万円払う必要もない!

ということで、司法において一般人では理解し難い理不尽な慣行が存在することは間違いないわけで、法廷は開かれなければいけないという思いを強くするのです。

その処方箋として裁判員制度があるとしたら、凶悪犯罪だけでなく、痴漢のような裁判にも適用されるべきではないかとさえ思います。

裁判員制度を司法の側から始めたこと、一般人がそれにむしろ反対していること、は奇妙な逆転現象じゃないのかな…

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NHK「爆笑問題のニッポンの教養#78」(7月7日放送分)を見ました。刑事訴訟法の後藤昭先生でした。さわやかな笑顔で、重い問題をサラッと話す先生でした。裁判員制度(どちらかと言えば)賛成派の私としては心地よい30分でした。太田さんが突っ込む隙が無かった。頭のいい先生ですね。

裁判員制度に対する最も多い感想は「関わり合いたくない」ということでしょう。赤の他人たちが仕出かしたことのために忙しいところ呼び出されて、最悪の場合死刑宣告にまで自分が加担しなければいけない。確かに迷惑千万な話です。裁判官というプロが居るんだから、そいつらがやれよ。そのために税金払ってんだ。職務放棄じゃないのか?その意見も正しいとは思いますが、私は別な考え方により強く賛同します。

まず、裁判は他人事ではないということです。「死刑」に関して言えば、死刑という制度を廃止することもできるのに、アクションを起こさずに黙認しているのは他ならぬ我々です。執行人を税金で雇っているのも我々、法務大臣を雇っているのも我々です。全然知らない人が、全然知らないところで裁かれて、全然知らないところで処刑されたから、私は無関係である!というのはどうなんでしょうか?

プロに任せていれば間違いないんですか?というのが第二の疑問です。後藤先生が話されたことですが、「疑わしきは被告人の利益に」という推定無罪のケースでは裁判員の方が無罪にしやすいのだそうです。もちろん欧米の調査結果ですが。

「関わり合いたくない」という意見を聞けば聞くほど、「法律は自分たちのルールである」ということを思い出す必要性を感じます。それには裁判員制度しかないのではないか、という気さえします。

もちろん、良い結果ばかりを生むとは思いません。悪いことの方が多いかもしれない。でも、それは出さなければいけない膿ではないかと。

「かくして法廷は開かれた そこにいる者全員の人生観が試される場が」というのが、後藤先生の最後のまとめ。現代人は忙しくて、人生観を試されることから逃げているのかもしれません。本来は、妻、子ども、あるいは家族以外でも、周囲の一人一人と対峙した時に、人生観は常に試されるものだと私は思います。

《つづく》

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裁判員制度 に参加中!
3月29日にテレビで放送された劇場版の相棒「絶体絶命!東京ビッグシティマラソン」を見ました。ある裁判の判決を不服として国民全員を逆恨みする、というような動機…映画の中ではフェイクっぽかったけど…リアリティが無いとは言えません。ひょっとしたら正論かもしれない。フィクションとは片づけられないように思いました。

裁判員制度反対派の人に言わせれば、一般の人間が判決に関与することでますますそういう逆恨みは現実味を帯びる、ということになるでしょうけど…

昨年のNHKスペシャルに出演した一般の人の意見で気になったのは、「『あなたは死刑ですよ。死んで下さい。』と我々一般の人間が宣告することなんですよ!そんなことできますか?」というものでした。非常に説得力のある意見だと思いました。

しかし、この意見には「プロの裁判官が宣告するのなら問題無いけれど」という前提があるような気がします。私はその前提を疑っているので、裁判員制度には賛成なのです。

現行の制度では、被告や被害者に関係が無ければ全く関係が無いと思いがちです。もちろん判決に対して、妥当だとか妥当でないとか意見を持つことはありますが、あくまでも第三者という認識です。

これは、間違いなんじゃないかな?と思うです。

ある裁判官が下した判決に、我々一般の国民は全く無関係ではないと思います。その裁判に全く関わりを持たなかったとしても、1人の死刑囚が処刑されることへの責任は、国民一人一人にあると思うのです。逆に、処刑されなかったとしても、やはり責任がある。

判決の重みを裁判官だけに背負わせていいんですか?それが仕事だからいい、ということでいいんですか?

少しでも、我々にも関係があり、責任があると思うべきなんじゃないでしょうか?

そのためには裁判員制度も悪くないんじゃないでしょうか?

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もう昨年のことなのですが、このブログを見たNHKのディレクタさんからメールを頂きました。11月上旬のころでした。「日本の、これから」(12月6日放送分:テーマは裁判員制度)の準備をしているということで、アンケートの回答を返信しましたら、取材したいということでわざわざ「さくらんぼ東根駅」まで来て下さいました。

ただ、読んでいただいたブログの内容は死刑制度に関するものでしたし、私の興味関心も「裁判員制度」よりは「死刑制度の是非」の方でした。それに、私は裁判員制度賛成派でしたが、意見・年齢・性別・住んでいる地域などで私とかぶる人が他にもいるということでした。そんなわけで、出演者の選には漏れてしまいました。

まあ、テレビに映って失敗したばかりだったので、出たくもなかったんですが…

それに、その日は家族旅行の日だったので、出演ということになると、東京ドームから渋谷に直行しなければならなくて、ホテルで家族とゆっくりなんてできませんでしたからね…

お陰さまで、ゆっくりさせて頂き、放送もホテルのテレビで10分ほどしか見れませんでした。「今回は出演者も少なくしたいんですよ…」とディレクタさんはおっしゃっていたんですが、結構たくさん出てました。どうしても出たいという方が多かったのでしょう。消極的な私が漏れるわけです。

裁判員制度については、後日、書きたいと思います。

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さて司法と国民のねじれですが、裁判員制度はこのねじれ解消の方策だと私は捉えています。こういう方向に動き出しているということは、立法・行政に携わる人たちよりも的確に現状把握ができていると思います。

48年の最高裁大法廷判決というのがあるそうで、「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」という補足意見が述べられているとのこと。司法でも最終的な判断は民意に委ねられるべきですね。専門家がどう考えようが、国連が何と言おうが。

最近の殺人事件の判決について一般国民の80%が「軽い」と回答したというアンケート結果もあります。先日の広島高裁の死刑判決(光市母子殺害事件差し戻し審)は妥当なものと言うべきでしょう。

「心神喪失状態ならば責任能力はなく無罪」という専門家の常識も、一般の人間にはなかなか受け入れられないものではないかと私は思います。心神喪失状態と刑罰は別々に考慮すべきことなのではないかと。心神喪失状態になると人を殺してしまうような人ならば、なおさら野放しにはできないのではないかと。先日の三橋歌織被告に対する東京地裁の有罪判決も妥当なものだと思いました。

裁判員制度の施行を一年後に控え、問題点を挙げる論調ばかりが目立つのですが、少なくとも上記2つの判決は画期的なものだと思います。街頭インタビューでは、他人の運命を自分の判断で変えてしまう責任の重さに耐えかねるという意見が多いようでした。でも、その「他人の運命」を司法試験に合格するような特殊な人たちだけで決めていいのか?という疑問の方が私は大きいのです。

司法と国民のねじれを少しでも小さくしていく方法として、裁判員制度は前向きに取り組んでいくべきだと思います。立法・行政も政治家だけに任せていいのか?と心配しているところです。国会議員や大臣の一部も、裁判員のようにくじ引きで決めてはどうでしょうか?

本当にキムタクが総理になるかもしれませんが、今よりはマシになるのではないかと。検事もやったことあるしね。


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