トトガノート

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Tag:華厳経

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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「一.修行の階梯」の「さとりへの道のり」を読みました。

《以下要約》
瑜伽行派は、唯識説の完成をめざす実践の体系を『華厳経』の説く菩薩の十地説の上に位置づけ、五位の体系(資糧位・加行位・見道位・修道位・究竟道位)を仕上げました。

加行位(勝解行地とも、四種通達分とも、賢位の四善根位とも呼ばれる)の最終段階において唯識観を修した直後に唯識性に悟入し、菩薩の初地見道位を得るとされています。

このとき、無分別智が獲得され、識の機能が智のはたらきに転化します。これを転識得智とか「転依」とか「転依の転換(あるいは変貌)」とか言います。その後も修行は続いて、最後の究竟道に達して仏地に入ります。

この修行の完成までには無限の年数(3かける10の62乗)かかるとされています。これは「即身成仏」を説く密教と対蹠的見方と捉えることもできますが、菩薩は大悲心によって衆生済度のために永遠に成仏しない意と解することもできます。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》

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「唯識入門」(春秋社)
「第四章.識と縁起」の「三.識の内部での縁起」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第十偈・第十一偈が出てきます。

(1.10)覆いさえぎるから、成長させるから、導くから、統一させるから、完備させるから、三つのものの判別があるから、享受するから、引き起こすから、
(1.11ab)結びつけるから、現前のものとするから、苦しませるから、生あるものは苦悩する。

《以下要約》
・「覆いさえぎるから」:如実に見ることを(1)無明が覆いさえぎるから。
・「成長させるから」:形成力すなわち(2)行が過去の行為の習慣性(熏習)を次の識の中に置き、成長させるから。
・「導くから」:新しく生まれ変わる場所へ(3)識が導き到達させるから。
・「統一させるから」:心的物的存在すなわち(4)名色が、自己存在を他と区別された個体的存在として統一し、維持するから。
・「完備させるから」:六種の知覚の場すなわち(5)六入が個別の身体的存在を完備させるから。
・「三つのものの判別があるから」:六根・六境・六識の三つのものの接触すなわち(6)触が、楽・苦・不苦不楽の三種の感受に相応した感覚器官の変化を判別するから。
・「享受するから」:楽・苦・不苦不楽の三種の感受すなわち(7)受が、過去の善悪の行為の結果を享受するから。
・「引き起こすから」:過去の行為(業)によって、その結果として予定されている後の世への再生を愛欲すなわち(8)愛が引き起こすから。
・「結びつけるから」:後の世への再生の起こることを助長する愛欲などへ、執着すなわち(9)取が識を結びつけるから。
・「現前のものとするから」:再生したとき、生存すなわち(10)有なるものが、かつてなされた行為の結果を成熟させるために、その過去の行為を現実の場にもちきたらすから。
・「苦しませるから」:生まれることすなわち(11)生が、また、(12)老死が苦しませるから。
《以上要約…詳しくは本書参照》

(1)〜(12)の十二支は、これまでにも出てきましたが、唯識ではすべて識の中で展開すると考えるわけです。

これは唯識が初めて主張したことではないそうで、『華厳経』の「十地品」で、第六現前地において菩薩が明らかにすることとして、「三界は唯心なり」と説かれているそうです。まさにこれこそが「唯識」という考え方の起こりで、唯識説は『華厳経』唯心観をより詳細に解明すべく生まれた思想といってよい、とのこと。

《つづく》

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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「七章 心」の前半を読みました。

これまで修行の実践論が述べられましたが、その主体は何なのでしょうか?修行は自己の心を浄めることと言いながら、一方では無我を説いているのは矛盾ではないか?という問題が持ち上がります。

実践の主体を心とし、六根(眼耳鼻舌身意)の意、五蘊(色受想行識)の識が同じものとされている。即ち、心=意=識。

心は、刹那ごとに生じては滅する存在、一瞬と言えども存続しない存在(刹那滅)である。生まれてから死ぬまでの間は刹那生滅を繰り返しながら、相続(意識の流れ)し、個人存在としての連続性が成り立っている。

《以下引用》
…『般若経』は第一義、究極の立場に立ってすべてをながめるので、その間に差別を見ない。もちろん『般若心経』にあるように、「色即是空」といってすべての特殊性を否定しながらも、「空即是色」とすぐにつづけて、空性に裏づけられた個別性の世界(色・受・想・行・識)を別の立場(世俗の立場、ことばの世界、仮)から承認はしている。しかし、その諸法のうちでの心と、その他の存在、つまり主観と客観の機能的相違点については、何ら言及することがなかった。

この心ともの(対象)、主観と客観との間の機能的対立性ということに目をつけて、新しい理論構築をはじめたのが、瑜伽行派の人たちであり、その唯識説であった。それは『般若経』の立場の解明を旨としたナーガールジュナ(龍樹)とその後継者たち、すなわち中観派の人びとの主張する「空」の説を受けつぎながら、それを一歩すすめ、発展させた説であった。その学説が所依の経典として求めたのが『華厳経』十地品であり、三界唯心の教えであった。唯識説は『華厳経』の唯心説の直接の後継者なのである。…
《引用終わり》

心、アーラヤ識について
《以下引用》
…われわれの存在は、過去から未来につらなる――あるいは、未来のものが現在化して次の瞬間に過去していくという動きをつづけている――意識の流れ(心相続)にほかならない。この意識の流れには、しかしもう一つ、潜在的な、表面に現われない流れがあり、それもまた表面に現われる意識の流れに影響を与えている。そうでなければ、業のはたらきを説明できない。この業をつくるはたらき「心」の機能に求め、またそれを、潜在的な形成力(種子=行=業)をたくわえる場所(貯蔵庫)に見たてて、アーラヤ〔阿黎耶、阿頼耶〕識と名づけた(alayaは蔵とか宅と訳される)。
現在機能した心は、何らかの印象を残す。それが次の刹那の心にはたらきかけるが、同時にその一部はそのまま心に貯えられて、一定の時間をへて発現することもある。…その主客いずれの印象も、アーラヤ識としての心に印象し、それが次後の心の性格を決定し、はたらきを決定する。この印象としての側面から見たとき、このはたらきを「熏習(くんじゅう)」といい、印象を「習気(じっけ)」とよぶ。…
《引用終わり》

心の「意」の側面、マナスについて
《以下引用》
…このアーラヤ識の流れ(相続、刹那滅の継起)に対し、われわれはそれがわれわれの自我だと思っている。すなわち、アーラヤ識を「我(アートマン)」と誤認している。この誤認するはたらきもまた、主観としての意識にほかならない。しかし、機能的には明らかにアーラヤ識とは別である。そこで、このはたらき「意」manasとよんだ。これが自我意識である。…自我意識は、自己の所有(=我所、わがもの)の意識のもととなるし、それはあらゆるものを自己中心に考え、そこに執着をおこす…これを我執、我所執という。それがまた業をひきおこし、結果としての苦を生み、輪廻をひきおこす。自我意識のあるかぎり、苦の滅は望めない。そういう意味でこの「意」は、「汚れたマナス」(染汚の意)とよばれる。
《引用終わり》

心の「識」の側面、対象認識について
《以下引用》
…われわれの「こころ」は潜在意識としてのアーラヤ識(=心)と、それを我と誤認する…機能としてのマナス(意)とを背後にもったうえで、対象認識(識)の機能を営んでいる。この対象認識は、…眼・耳・鼻・舌・身・意の六識にいずれかによって行われる。この機能がいわゆる主観の機能であるが、主観は客観に応じて六種に分かれるだけで、過去した場合は、いずれも意(マナス)の名でよばれる。つまり六識の別は現在だけにかかわるのである。さらに、それは善悪などの性格づけをされるが、それはその心といっしょにはたらく「心所」の機能による。そして、背景に「アーラヤ識」と「汚れたマナス」をもっている点で、善も悪も、一様に「輪廻生存」をつづける力になっている。結局、アーラヤ識→マナス→六識という立体構造をもつ心が、輪廻生存をおこす根元とされるのである。これが、「我(アートマン)」がなくても、何がどうして輪廻するのかという課題に対する最終的解答となった。
《引用終わり》

総じてわれわれの認識にのぼらないものは無いに等しい。われわれは各自が勝手に世界を構築して、そのなかで生きている。われわれが対象としている世界はわれわれの心が仮構したものであり、真実ではない。「唯識」とは「唯だ識のみである」ということで、識は「識によって知られたもの」つまり知識内容として表象の意味である。

われわれはそのような表象の世界に実在感をもち、執着をおこしているのであって、すべて「こころ」のなせるわざである。唯識説では、われわれの認識構造そのものを誤った見方と考え、「虚妄分別」と名づけている。

これによって見られ、知られた所取(識の対象)・能取(識のはたらき)の対立の世界を、仮に構築された世界と言う意味で「遍計所執性」(へんげしょしゅうしょう)と呼ぶ。

表象としての所取・能取を現わしだす虚妄分別そのものは、過去の無明、業の力で形成されたもの、縁起したものという意味で「依他起性」(えたきしょう)と呼ぶ(他に依るというのは、現在の識が過去無限の刹那の印象を受けて、その果として生起している点をいう。アーラヤ識という不変の実体があるのではない、という意味)。

虚妄分別としてはたらき、主客の世界を現出しているアーラヤ識をおいて、ほかに悟りの当体となる心があるわけはない。アーラヤ識がアーラヤ識のままであるかぎりは悟りはないが、それが別の状態になった(転依:てんね)とき、悟りが現われ、涅槃が実現する。

それは、アーラヤ識が虚妄分別としてはたらかず、主客の対立をあらわさないときである。識は能所の対立を表すのが仕事であるから、それは「識が識でなくなるとき」である。「主客が無二」とも、「識が真如と一つになる」とも言われるが、識の機能としてみれば「無分別智がはたらく」といい、「識が智に転換する(転換得智)」ともいう。

この状態は、経典に説かれる法を知り、修行を積んだあとで達成されるので、「完成された状態」という意味で、「円成実性」(えんじょうじつしょう)と呼んでいる。

遍計所執性、依他起性、円成実性を三性と呼ぶ。これは、こころのはたらき方に応じて相互に転換するものであって、決してそれぞれが別の世界ではない。

悟りの世界では無分別智が真如と一つとなってはたらき、対象を見ないと言ったが、仏はちゃんと衆生のことを知り、思いをかけ、その救済に限りないはたらきを示す。その場合、能所の区別はあり、主客による認識構造は具わっている。これを唯識説では、「無分別智の後で得られる清浄な世間智」略して「後得智」と呼ぶ。

仏の心は能所に分かれてはたらきつつ、しかも能所を見ない。

《つづく》


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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「六章 悟りへの道」の後半を読みました。

今回は三学(戒・定・慧)について。前回の八正道は、戒を保ち、禅定を実践して、智慧を得ることに要約され、これが三学にほかなりません。「学」は学ぶというよりも、修行の意に近く、三学は修行道の全体の枠組みとしてしばしば用いられます。

(1)戒
・行為上の諸規範。
・他から強制されるものではなく、自発的に守って身につけなければならない。
・最も基本的なものは、不殺生、不偸盗、不婬、不妄語、不飲酒の五戒。
・大乗仏教では、十善業道(不殺生不偸盗不邪淫不妄語不両舌不悪口不綺語不貪欲不瞋恚不邪見

(2)定
・心を統一し、安定させること。音写して「三昧」「三摩地」と言う。
・心が静止するという意味で「止」(舎摩他)とも言う。
・具体的方法は「禅」と呼ばれる瞑想法が主なので、「禅定」とも言う。
・禅(静慮)は、仏教の教えるさまざまな教理を静かに慮る。これを「観」という。
・禅定は日常生活において心をコントロールすることである。仏典では心の状態を定心と散心にわける。散心は通常の状態をいう。禅定に熟達すると、容易に散心から定心にかわり、また散心にもどる。ブッダはつねに禅定に入っては、その階梯を容易に上下する。そして出定したあとで弟子たちに説法する。修行者もまた同じような訓練をうけるのである。
・その階梯にあたる九次第定(四禅、四無色定、滅尽定)についても、この章にまとめてあります。

(3)慧
・「般若」、いわゆる智慧。悟りに導く知恵。苦の滅=涅槃に導く手段としての知。
・出発点は仏の教えの聴聞、その法を受け入れて、自ら心の中に思いうかべて反芻して正しく知り、その教えに従って実践修行して、その知を深め、最後に悟りに達する。
・入門の初めから悟りにいたるまで段階に応じてはたらくので、聞慧、思慧、修慧に分けられる。「定」の内容として示される観法は修慧にあたる。
・仏と言えども、衆生を相手に法を説いているときは、通常通りの分別の世界にいる。つまり、知るはたらき(主観、能知)と知られる対象(客観、所知)に分かれる。しかし、凡夫のような疑惑、迷い、曖昧さ、不正確さ、対象に対する執着はない。

小乗の利他行:四無量心と四摂法

四無量心
1.「慈」他人に楽を与えること
2.「悲」他人の苦を除くこと
3.「喜」他人の楽を喜ぶこと
4.「捨」喜憂・苦楽を超越した平らかな心

四摂法:衆生を済度摂受する四種の徳行
1.「布施」ひとに慈しみの心をもって接し、財物や教えをよく施す
2.「愛語」ひとに接するに、つねに温顔とやさしい言葉をもってする
3.「利行」つねに他人のために利益となることを行う
4.「同事」自他の区別をなくし、他人と一心同体となって協力する

大乗の菩薩行:六波羅蜜
波羅蜜とは最高完全なる状態の意で、それぞれの徳目の完成ということ。
1.「布施」:在家の場合は財施、出家者は法施。菩薩は衆生に無畏を施すべき。
2.「持戒」:三帰依(仏法僧)と十戒。
3.「忍辱」:忍耐心。苦難に耐えること。忍には、法を真実として受け入れる意もある。
4.「精進」:善を進め悪を止める努力。他の五波羅蜜すべてにかかわる積極的態度。
5.「禅定」:空・無相・無願の三解脱門を観ずる三昧。
6.「般若」:大乗の悟り。真理(真如)と一体となる。「五蘊は〔自性として〕皆空であると照見する」こと。

華厳経では、般若波羅蜜のはたらきの内容をひらいて4項を加え、十波羅蜜が説かれている。
7.「方便」:他人を救済する手段ということで、慈悲にもとづく。
8.「願」:衆生を済度しようとする誓願。
9.「力」:衆生を救う実行力。仏の十力。
10.「智」:以上の諸力の根底にある、世間、衆生のすべてのことを知る智。

《つづく》

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の六」を読みました。

まずは華厳経についての記述。私が探し求めている「古き良き日本」の根源、武士道なのか仏教なのかと彷徨っていましたが、華厳経の中に見つかりそうな気配がします。

《以下引用》
…中国および日本の思想にこの経ほどつよい影響をあたえたものもないのではないかとおもえる。一個の塵に全宇宙が宿るというふしぎな世界把握はこの経からはじまったであろう。一すなわち一切であり、一切はすなわち一であり、ということも、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、また禅がしきりにとなえて日本の武道に影響をあたえた静中動あり・動中静ありといったたぐいの思考法も、この経から出た。この経においては、万物は相互にその自己のなかに一切の他者を含み、摂りつくし、相互に無限に関係しあい、円融無碍に旋回しあっていると説かれている。しかもこのように宇宙のすべての存在とそのうごきは毘盧遮那仏の悟りの表現であり内容であるとしているもので、あと一歩すすめれば純粋密教における大日如来の存在とそれによる宇宙把握になる。さらにもう一歩すすめた場合、単に華厳的世界像を香り高い華のむれのようにうつくしいと讃仰するだけでなく、宇宙の密なる内面から方法さえ会得すれば無限の利益をひきだすことが可能だという密教的実践へ転換させることができるのである。…空海はのちに真言密教を完成してから、顕教を批判したその著『十住心論』のなかで華厳をもっとも重くあつかい、顕教のなかでは第一等であるとしたが、このことはインドでの純密形成の経過を考えあわせると、奇しいばかりに暗合している。…
《引用終わり》

つづいて大日経について。

《以下引用》
…毘盧遮那仏は釈迦のような歴史的存在ではなく、あくまでも法身という、宇宙の真理といったぐあいの、思想上の存在である。…この思想を、空海ははげしく好んでいただけでなく、さらに「それだからどうか」ということに懊悩していたはずであり、その空海の遣り場のなかった問いに対し、『華厳経』は答えなかったが、『大日経』はほぼ答え得てくれているのである。大日経にあっては毘盧遮那仏は華厳のそれと本質はおなじながらさらにより一層宇宙に遍在しきってゆく雄渾な機能として登場している。というだけでなく、人間に対し単に宇宙の塵であることから脱して法によって即身成仏する可能性もひらかれると説く。同時に、人間が大日如来の応身としての諸仏、諸菩薩と交感するとき、かれらのもつ力を借用しうるとまで力強く説いているのである。…
《引用終わり》

空海の足跡の中での謎の七年間、私度僧として、社会的に肩身は狭いながらも自由な立場で、むしろそれを存分に利用して、大安寺や久米寺に出入りし、多くの経典に触れたようです。

《以下引用》
…かれは釈迦の肉声からより遠い華厳経を見ることによってやや救われた。死のみが貴くはなく、生命もまた宇宙の実在である以上、正当に位置づけられるべきではないかと思うようになったはずである。生命が正当に位置づけられれば、生命の当然の属性である煩悩も宇宙の実在として、つまり宇宙にあまねく存在する毘盧遮那仏の一表現ではないか、とまで思いつめたであろう。この思いつめが、後年、「煩悩も菩薩の位であり、性欲も菩薩の位である」とする『理趣経』の理解によって完成するのだが、その理解の原形はすでにこの久米寺の時期前後にあったであろう。…
《引用終わり》

私度僧になるということは、通常は「脱落」になります。でも、空海の場合はこの時期に思想の原形が出来上がったようです。

善無畏三蔵が725年に翻訳を終えた『大日経』が5年後には日本に伝わっていました。多くの経典の中に埋没していたものを私度僧空海が発見します。そして諸仏・諸菩薩との交感の方法を身につけるために、唐を目指します。

純粋密教は、中国でもインドでも消滅し、チベットでは変質してしまっているので、空海が確立したもの以外は残っていないそうです。

これほど有意義な「脱落」は世界史的にも稀でしょう。

《つづく》

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神の視点については以前も考察しました。今回は、集中から分散への移行という観点で見てみたいと思います。

視点の人間化が分散化とイコールとは言えないかもしれませんが、唯一絶対の神の視点から約70億いると言われる人間に視点が移動するわけですから、必然的に分散すると思うのです。

唯一絶対の神が存在するということになると、卑しい我々の身近にはいなくて、天界のようなところにいらっしゃって、この世のすべてを統括する…というイメージになると思います。

私が会社に入社したころは、コンピュータ・システムも一極集中でした。高性能のホストコンピュータ(正に神のような存在)に回線接続して、最低限のデータ入出力回路が付いた端末で作業をしていました。

これが数年後、クライアント・サーバー・システムに移行しました。ホストコンピュータは中程度の性能のサーバーに、端末は少し性能アップしたクライアントになりました。クライアントはデータの入出力だけではなく、ある程度の演算処理も行う。その分、ホストの負担が減るからサーバー程度の性能で良くなったわけです。処理の分散化です。神(ホストコンピュータ)よりも能力が劣る人間たち(サーバー)の手に物事が託されるようになった…

さらにグリッド・コンピューティングという究極の分散化まで登場しました。が、逆に最近ではセキュリティの問題から、クライアントに情報を残さないシン・クライアントという形になったり、クラウド・コンピューティングが登場したりということで、分散化には若干逆行する傾向かもしれませんけど。

さて、この世はすべて法(法則)に支配されているというのが、仏教の世界観のようです。その法則の一つとして万有引力を例に考えてみましょう。

この世のすべての物質は万有引力の法則に支配されている。質量ある物質間には引力が生じる。身近な例では、リンゴが地球に引っ張られて木から落ちる。

古典力学では、質点という考え方を用います。地球ならば、その質量を持つ体積ゼロの点が地球の中心(厳密には重心)に存在する。リンゴもその重心にその質量をもつ質点が存在し、引力は地球の半径分だけ離れた二つの質点の間に生じる。こういう簡単化をすることで、二点間の問題に帰着させて、問題を解く。これは、まさに視点を集中させています。

ガッテン流に擬人化すれば、地球の中心にいる大男が地球上のすべての物質を引っ張っているイメージ。

ところが、厳密には物質を構成している数え切れない原子どうしで重力は発生しています。地表で考えると、地面を構成している地殻は比重がおもく、海は水ですから比重が軽い。そのため同じ地球上でも、エベレストの近くのように地殻が厚いところでは重力は強く、太平洋上のように地殻が薄いところでは重力は弱い、という現象が観測されています。

これを再びガッテン流に擬人化すれば、物質の中には質量に比例した数だけ重力を生じる「重力くん」なるものが隠れている。地面が分厚いところには重力くんがたくさん隠れているので、リンゴを落とした時、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力が強い。太平洋上では重力くんの数が若干少ないので、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力は若干弱い。

地球の中心にいた大男が散り散りに分かれて、小人になって遍在する。視点の分散化であります。

さらに話を拡大しまして、万有引力のみならず、この世のあらゆる法則を成立せしめる小人がいると考えます。それは「法」そのものですが、擬人化して体をつけているので「法身くん」と呼ぶことにします。

法身くんの頭の中には、この世のすべての法則が入っています。数え切れない無数の法身くんたちが、この世のあらゆるものの中に普く存在する。これって華厳経とか如来蔵思想の世界ですね。

遠いところにいた神という大男が分散して、我々人間や物質の中にまで存在する。これこそ神の視点から人間の視点への移行ではないでしょうか?大乗は視点の人間化の流れをそのまま継承しているように私は思います。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「十二 如来の見聞供養によって善根を生むこと――如来出現の第十相」「十三 結び」を読みました。

・如来たちを見聞し善根を生むことをどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

ひとりの人が金剛石を食べたとしても、それは消化されずにそのまま現われてくる。それと同様に如来を見聞供養する金剛のごとき知恵は、煩悩を残らず絶滅させる。

草や枯れ葉を山のように積んでも、芥子粒ほどの火によって燃えてしまう。それと同様に如来の供養を少しでも果たせば、一切の煩悩を燃やし尽くして涅槃に入る原因となる。

雪山に「善現」なる薬樹があって、見聞すればどんな病でも治癒する。それと同様に如来を見聞すれば、一切の徳性を身につけて仏の知恵を得るに至る。

・結び
世間にある全ての比喩は何であれ、皆この仏の事跡から離れている。しかも世間を利益するために衆生に教示しようとして、如来は比喩を絶したものに道理を尽くして比喩を与える。これらの如来の秘密は凡夫には知覚できない。努力精進して知恵を備えてよく教化された者たちのみ、このような如来の秘密を聞くことができる。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「十 如来の転法輪――如来出現の第八相」「十一 如来の偉大なる死――如来出現の第九相」を読みました。

・如来たちの転法輪(法の車輪を前進させること)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

無比なる転法輪は知覚されない。退転することもなく、一切の時間を超越している。すべての文字を語ってもそのために文字が尽きることがないように、転法輪も辺際がない。

すべての文字は言及されたものに普くゆきわたるがどこにも定着しないように、転法輪も諸音声に普く存するがどこにも定着しない。

諸文字は内にあるのでもなく、外から生ずるのでもない。それらは尽きることなく、なんらの集積もない。

・如来たちの偉大なる死(大般涅槃)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

「如来がこの世に出現する」ということは、衆生たちが喜ぶことばである。「如来が涅槃にはいる、即ち死ぬ」ということは、衆生たちの愁いを生むことばである。しかし真実には、如来たちは真理の領域に住んでいるから、この世に出現することもなく、涅槃にはいることもない。衆生の願いをかなえてやるために、この世に出現しもするし、涅槃にはいることを示しもする。

如来の日輪は一切の限りない世界の真理の領域を普く照らす。一切の濁りなき世界の濁りなき心をもつ衆生という水の器すべてに、その影をあらわす。しかし、濁った心をもつ衆生の壊れた器には、如来の日輪は見られない。心が濁り、業と煩悩に蔽われた衆生の前で、如来たちが涅槃にはいることを示現したとしても、それを如来たちの欠陥と捉えるのは間違いである。

偉大なる死によって教化すべき衆生に対しては、如来たちは偉大なる死を示現する。しかし、如来たちはこの世に出現することもなく、この世から消えさること(即ち涅槃にはいること)もない。たとえば、火がこの世の全ての物を焼き尽くして鎮火したとしても、この世から火が無くなったわけではない。如来たちの偉大なる死とは、そのようなものである。

技術の習練を完了した幻術つかいがいて、まじないの力によって、世界じゅうのいたるところに長期にわたって幻術を示現したとする。やがて、その中のひとつの国では目的を達成したので、幻術つかいは姿を現さなくなった。しかし、一切の世界から、すべての幻術が失われてしまうわけではない。

如来たちは、偉大なる死を示現するときに、『不動』という三昧に入る。無数の如来たちの身のひとつひとつから無量・無辺の光明が現われ…そこには一切衆生と同じ数だけの如来の身が、仏の徳性のあらゆる飾り飾られて鎮座している。それらの如来の身は、どこかの場所にあるのでもなく、特定の方位にあるのでもなく、有でもなく、無でもない。如来の教えの偉大なる本願によって、衆生たちの能力が成熟した暁には、それらの如来の身もまた、完全な涅槃に入る。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「八 如来の活動領域――如来出現の第六相」「九 如来の明らかなさとり――如来出現の第七相」を読みました。

・如来たちの活動領域をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

真実ありのままなる絶対はまったく不生・不滅である。それはなんら限定された領域にとどまらず、あらわれない。世間のために利益をなす如来たちの活動領域も同じく無量で、その本性は真実ありのままなる絶対に等しく時間を超越している。

・如来たちの明らかなさとり(現等覚)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

一切の現象の証悟(さとり)は二とか無二とかの分別を離れ、正しく無対象である。それは虚空に等しく、我(アートマン)のあるなしにかかわりがない。

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「七 仏の知恵の対象――如来出現の第五相」を読みました。

仏の対象領域をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

比喩
大海は水と宝の集積をもって無量であり、衆生たちと餓鬼たちの住処に関しても無量であり、一味にして無雑である。そこに生まれた衆生たちは他の水のなかでは活動しないように…

仏の対象領域も知恵をもって無量であり、三宝(仏法僧)の依拠するところとして、宝の集積という点でも無量である。衆生たちや餓鬼たちをもっても無量である。

《つづく》

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