トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:華厳

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「空海の夢」(春秋社)
「26.華厳から密教に出る」を読みました。

華厳の教理は主として法蔵と澄観によって大成されたとのこと。

法蔵は華厳宗第三祖で、第二祖までの断片的な華厳性をほぼ独力で一挙にまとめて華厳思想とした。

法蔵の思想で重要なポイントは、第一に華厳別教の一乗思想を確立したこと、第二は「五教判」と「華厳の十心」という観点。

本書に思想体系が整理してあるので見ていただくとして、法蔵の「十玄縁起」の7、因陀羅網法界門のイメージが面白いのでメモっておきます。
《以下引用》
まず、互いに映しあう主体がすでに鏡球(宝珠)になっている。したがってこの鏡球には十万四周のあらゆる光景が映りこむ。そういう互いに互いを映しあう鏡球が一定の間隔でびっしりと世界をうめつくす。ということは一個の鏡球には原則的にはほかのすべての鏡球が包映されていることになり、その一個の姿はまたほかのどの鏡球の表面にも認められることになる。
《引用終わり》
これを「部分が全体を包括しあうようなホロニックな関係」と言っています。

さて、澄観の方ですが、空海の総合主義はむしろ澄観に近いとのこと。澄観からは四種の法界縁起をメモっておきます。

《以下引用》
最初の「(1)事法界」は事象に個性を認めている段階である。個性の共存段階というべきか。それが次の「(2)理法界」になると理が事のほうに近づいて精神優位となり、なんとか意識のうちでは事象の差が薄くなってきているのだが、事態のほうにはまだ事物の相互性がこだわっている。

ついで「(3)理事無礙法界」になると、事法と理法とはちょうどよいぐあいに溶けこんできてライプニッツのモナドが充ち、互いを隔てるいっさいの障害がなくなってくる。認識世界と現象世界の区別がまったくないという超越状態なのである。ユンクやパウリのシンクロニシティがあまねく充ちている状態ともいえる。ところが華厳世界ではこれが終点ではない。もう一度、精神世界が脱落しなければならなかった。完全なる「物質の自由」という極地であり、意識の微粒子はおろか、彼方からの情報の来臨もない。いったいそんな世界がありうるのかどうか、まったく保証のかぎりではないけれど、それが華厳の相即相入の「(4)事事無礙法界」というものである。
《引用終わり》

空海については『秘密曼荼羅十住心論』の略本、『秘蔵宝鑰』に関する記述をメモっておきます。
《以下引用》
空海は略本ではそれぞれの段階に密教的発端があるはずだという確信を吐露したのである。10の「秘密荘厳心」(密教心)を1から9までの段階からひとり隔絶した超越点におくだけではなく、1から9までのそれぞれに10の萌芽を含ませたいという意図になっている。
《引用終わり》

これも重重帝網のような、ホロニックな構成ということのようです。

《つづく》
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「空海の夢」(春秋社)
「19.即身成仏義体験」を読みました。

《以下引用》
…では、最も大事なことを書いておきたい。『即身成仏義』において最も注目すべき個所は「重重帝網を即身と名づく」という一行であろうということだ。

重重帝網の「帝網」とは帝釈天が世界に投じた網のことである。その帝網が重なりあい、さらに重なっている。その網目のすべてには光り輝く宝珠がついている。互いの宝珠は互いに鏡映しあっている。そのさまこそが「即身」というものだと、そう空海は言ってのけたのだ。

ここで帝網とはホロニックなネットワークをイメージすればいい。どんな部分も全体を反映しているホロンのネットワークである。空海は、そのホロニック・ネットワークの一点ずつがそのままそれ自体として「即身」ととらえたのである。

この思想的直観は、本書の最後にのべるように、世界哲学史上においてもとくに傑出するものだ。そこには現代科学の最先端のフィジカル・イメージさえ先取りされている。このイメージはのちに〈華厳から密教に出る〉の章に詳説するように、もともと華厳世界観にあったものだった。華厳世界観の前にはウパニシャッドにも芽生えていた。空海はそれをのがさなかったのである。「帝網のイメージ」は密教的生命を得ることによって現代につながったのだ。

空海はそれだけで満足したわけではない。その「帝網のイメージ」が身体のコズミック・リズムと同調していることに気がつく。身体重視思想なら密教の独壇場である。空海は「帝網のイメージ」に「身体のイメージ」をぴったりと重ねあわせた。それこそは沙門空海が若くして四国の大滝や室戸岬で感得した不二の感性の理論的再生というものであったろう。
《引用終わり》

宇宙と自己存在を語る上でいろいろな比喩がありますが、網の喩えは知りませんでした。「ネット」という点でも、現代を先取りしていると言えそうです…。

《つづく》
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「空海の夢」(春秋社)Amazon
「13.初転法輪へ」を読みました。

帰国し、大宰府滞在を経、和泉国の槇尾山寺に止まるまでの期間について、考察しています。

《以下引用》
…このときの詩が、私が空海の詩文に接した最初のものである。…七言絶句、上声篠韻。

閑林独坐す 草堂の暁
三宝の声  一鳥に聞く
一鳥声あり 人心あり
声心雲水  倶に了了

…槇尾山寺の空海が何を沈思黙考していたのか、それはわからない。しかし、空海六十二年の生涯をいろいろ眺めまわして比較してみると、謎の七年間を除けば、結局はこの山中の空海が一番だったと思う。

…語る相手といえば老境の律気な阿刀大刀と、それに空海をひそかに訪ねてきたであろう奈良の僧たち、修行者たちだけである。奈良仏教者たちは空海に期待を寄せていた。最澄の痛烈な南部仏教批判をはねかえせるのはいまや空海ただ一人であったからだ。

しかし山中の空海はまだそうした現実にまみれようとはしていない。それらにたいするひとつの「超越的な位置」を確立しようとするだけの時期である。これは空海の存在学の確立期であったろう。
《引用終わり》

この山中で、壮大な体系が構築されていきます…

《つづく》

空海の夢
空海の夢(Livedoor Books)
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「空海の夢」(春秋社)
「12.長安の人」を読みました。

空海の長安での生活について、松岡さんが考えを列挙しています。
《以下引用》

(4)密教は、すでにのべたように不空の黄金時代が終わり、一行から恵果の時代に進んでいた。空海は当初からこの線を狙っていたのだが、あえて四ヶ月を費やして動静を読む一方、「長安に空海あり」の噂が青龍寺に過熱する日を待っていたふしがある。
そんな空海にさまざまな指示を与え、方針指導をしたのは般若三蔵である。一方、漢人として初めての金胎両部の付法を受けた恵果はこれを門人に伝えようとしていたが、恵果が両部を授けた唯一の門人であった義明はちょうどこの前後に死の床についてしまった。恵果は義明の代わりを探さなければならなかった。空海はそうした情報を般若三蔵からも入手しただろう。
《引用終わり》

般若三蔵の名は、司馬遼太郎の『空海の風景』にも何度となく出てきておりますが、このブログでは取り上げていませんでした。

《以下引用》
…般若三蔵とは、北インドはカシミールの人である。…二十三歳でナーランダー寺院に入り仏教を究めた後、南海の波濤を越えて広州から唐に入った般若三蔵は、…長安にとどまって訳経布教に従事した。『宋高僧伝』によれば、貞元二年(786)、『六波羅蜜経』七巻を訳出したものの意義通ぜず、二年後に十巻に改訳、ついで『大乗本生心地観経』や今日なおわれわれが親しむ『般若心経』を漢訳し、このころ南インドから『華厳経』入法界品の梵本がもたらされると、二年をついやしてこの翻訳にあたったとある。
これが有名な「四十華厳」であった。
正式名を『大方広仏華厳経』という。…

空海はその博覧の般若三蔵に師事した。当然に新訳華厳の一部始終に目を通すか、その奥義を口頭で聞かされたにちがいない。
《引用終わり》

般若三蔵から受けた影響はかなり大きいようです。

《以下引用》
般若三蔵については、日本に渡ろうとしていたという話もある。老齢の般若がこれをはたせなかったのはやむをえないところだろうが、その熱情がおそらくは空海を動かした。なぜ、インドからはるばる来て二十余年を布教訳経に努めた賢人が日本などにおもむこうとするのか、と空海はおもったろう。そしてしばらくしてその本意を見抜いたにちがいない。もはや唐土には真の仏教が実る可能性が少ないのではないか。般若三蔵ほどの僧が親しみ慣れた唐土を去る決意をしているのなら、自分が留学生として二十年をこの国に送ることはまったくの無駄ではないか。
むろん空海は最初から留学生としての二十年をあたら長安についやす気などなかったであろうが、しかしどこで切り上げるのか、何を成果とするのか、また日本に帰るよりも唐にいたほうがより充実した日を送れるかもしれない…といった迷いを払拭する強烈なトリガーが必要でもあったろう。私にはそのトリガーが般若三蔵の日本布教の大企図だったようにおもわれる。
《引用終わり》

司馬遼太郎の文章を読むと、なぜ長安に留まらなかったのか?という疑問は強く残ります。が、上の文章を読むと納得できます。

語学の面でも、般若三蔵が空海に与えた影響は大きかったことでしょう。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十三」を読みました。

この章は、嵯峨天皇が空海を乙訓寺に移させたことについて詳しく書かれています。が、ここでは、奈良六宗に対する最澄の空海の立場の違いについて述べた部分だけを取り上げます。

《以下引用》
「奈良六宗などは、仏教の本質ではない」
と、最澄は渡唐する前にそう思い、帰朝後は最澄の保護者だった桓武天皇に説き、他にも説き、奈良の諸僧にも説き、ついには奈良仏教から独立して叡山に天台宗を新設することを国家に認めさせた。奈良仏教は論である。あくまでも論であって、釈迦の言葉が書かれている経を中心としていない、さらには人間が成仏できるということについての体系も方法も奈良は持っていない、と最澄ははげしく言いつづけているのである。


…奈良にとって最澄の天台学がおそろしいのではなく、仏教は本来、中国をへた外来のものであるということが、問題であった。奈良仏教は古い時期に渡来した。しかしながら最澄がもたらしたものは時間的な鮮度がもっともあたらしく、また体系としても斬新であった。旧も新もいずれもが外来の体系である以上、新しいものが古いものを駆逐するというこの国の文化現象の法則が、この時期、史上最初の実例として奈良勢力を動揺させていると言える。

『十住心論』にみられるように以下は空海の持論だが、
――華厳はなんとかなる。

ということを、かれは奈良の長老たちに繰りかえし言ってはげましていたにちがいない。なんとかなる、というのは、空海の思想世界でいえば旧仏教であることから密教のレベルへもう一跳びでたどりつけるということである。華厳経は宇宙の運動法則とその本質を説明する世界で、あくまでも説明であり、あるいは純粋に哲学といえるかもしれない。その哲学を、密教の目標である即身成仏という世界へ宗教として変質させるということが可能だというのが空海のなんとかなるという意味であった。その言葉により、奈良の長老たちは願望をもった。「東大寺を密教化してもらえないか」ということであった。そのことは、長老たちの思想家としての本心から出たのか。それとも、
――ざっとした鍍金(メッキ)でいい。
ということだったのか。
《引用終わり》

空海は高雄山を出ないと宣言したにもかかわらず、嵯峨天皇の便利のために乙訓寺別当を命ぜられ、奈良仏教からの依頼で東大寺別当をも勤めることになりました。

最澄の存在感が急速に失せているのと、これまた対照的であります。

《つづく》
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