トトガノート

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Tag:般若心経

仏教と現代物理学

摩訶 般若 波羅蜜多

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

舎利子 色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是 舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減 是故空中無色無受想行識

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界

無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒無想 究竟涅槃 三世諸仏

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『仏教と現代物理学』(自照社出版)「序章 『般若心経』概説」(p1〜50)の「1.小心と大心」(p4〜19)を読みました。

『般若心経』の最初の2文字、「摩訶」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。

《以下引用(p2)》
これは天竺のことばなり。摩訶とは、大というこころなり。大というこころを知らんとならば、先ず我が小さき心を尽くすべし。小心とは、妄想分別なり。妄想分別あるが故に、我と人との隔てをなし、仏と衆生の隔てをなし、有無を隔てて、迷悟を分かち、是非・善悪の隔てあり。これを小心とはいうなり。この心を尽くせば、我と人の隔ても、仏と衆生の隔てもなくして、有無の心も、迷いということも、悟りということも、皆平等にして、さらに隔てあることを知らず。これを大心というなり。この意は、虚空の限りなきが如し。これ即ち一切衆生の我々の上に、元来備わりたる本性なり。しかれども、凡夫は妄想分別の小さき心におおわれて、この大心を見ることを知らず、色々分け隔ての心ある故に、有無の二つに迷い、生死の二つに隔てられ、種々に顚倒迷妄するなり。
《引用終わり》

「摩可」は「天竺のことば」と一休さんは解説していますが、「インドの古語であるサンスクリット語mahaの音訳」(p5)です。空海が「真言」と「陀羅尼」とか呼んだものと同じかと思います。

mahaは「大」という意味であるというところから、心にも「大」と「小」があるという話になっています。小心とは、「私たちが日常的に経験する生死・善悪・愛憎・悲喜・快苦・幸不幸・美醜・損得など」(p5)二元性をすべてと考え、それにとらわれてしまう心です。

こういった物事の区別を解する能力を分別と書き、「ふんべつ」と読んでも「ぶんべつ」と読んでも、現代社会を生きる上でとても必要なものです。これが無ければ社会的には尊敬されません。でも、仏教(一休)はこれを小心と呼んでいます。なぜなら、これが全ての苦しみの根源だからでしょう。

大心と小心を、浄影寺慧遠は心性と心相(p7)、空海は本心と妄念(p8)、親鸞は本心と散心(p8)、あるいは仏心と人心(p10)、王陽明は道心と人心(p10)、神道では赤心と黒心(p11)と、(全くイコールではないかもしれませんが)呼んでいるようです。

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昨年、人間としての自分を高めたいという欲求が増してきたのですが、高めるにも方向性がわからない、どっちが上かわからない、目標が決められないと悩みました。

自分が尊敬する人物像というのは昔の日本人の中にありまして、何か漠然としたイメージを目標とし、標語のようなもの作って毎日唱えようと思い立ちました。それって毎日お経をあげる昔の年寄りに似ているなあということになりまして、だったら自分が好きなお経を見つけてそれを読経すればいいな、ということになりました。

それで、最初に取り掛かったのが般若心経。「空」の概念は正確に説明することはできませんが、好きな考え方です。般若心経を暗記している頃に、ある方のブログを拝見していて、自分が求めているものは真言宗と多く重なるようだと感じました。

私の家は浄土宗なのですが、「南無阿弥陀仏」ととにかく唱えなさいという教えです。法然上人の言葉の中には、小難しい勉強なんかしなくていいというニュアンスが含まれていて、物足りなさを感じていました。現世を諦めているような気がする。

日蓮宗系の方にもご縁がありまして、身延山に行ったこともあります。法華経の現代語訳も簡単なものを読み、感想はこのブログにも書いています。でも、自分が求めていることは法華経には書いてありません。

禅にも興味がありまして、禅寺で座禅したこともあります。禅問答の本なんかも読んでみたいと思っていたのですが、「禅問答はただ消耗するだけだ」みたいなことを養老孟司さんが書いているのを読み、手が出なくなってしまいました。

さて、今度は密教概論です。ちゃんと理解するまでには何度も読み返さなければいけないようですが、まず一度読んでみなければ話になりませんので、挑戦してみます。

《つづく》

OD>密教概論改訂新版 OD版OD>密教概論改訂新版 OD版

 20年ほど前に買った般若心経入門という本を、また引っ張り出して読んでみました。般若心経は、「(この世の全ての)構成要素の本性は『空』であると見究めることによって、一切の苦しみから救われた」という文で始まります。この世は全て空だと見なせば、ストレスが無くなるよ!と言っている訳です。

 ストレス発散とか、ストレス克服という言葉はよく聞きます。現代人は、生じてしまったストレスをどう処理するか?ということは考えるのですが、ストレスを生じないようにするにはどうするか?という根本的なことには取り組んでいないような気がします。それに取り組んで、ひとつの発想法を見つけたのが、釈迦なのではないかと思います。

 自分の心の中にストレスを生まない発想法には他にどんなものがあるか?と考えても、ちょっと頭に浮かばないのですが、『空』という発想法が一番有効かつ実用的であるように私は思います。これを心がけて、それでも心が乱れた時には「修行が足りない」と反省した昔の人々はやっぱり偉いと思います。

 ただ、この発想法だけでは生きられないと思うのです。この世の全てが空だと言われたら、何もやる気がしなくなると思います。だから、麻薬のような強力な鎮痛剤として常備しておき、苦しいときに少しずつ使うべきものなのでしょう。

「うろん語」第二巻
目次
その2:「理想と現実と」
その3:「呼吸法」
その4:「雪に思う」
その5:「助さんはどこへ?」
その6:「古きを温めて」
その7:「師と士」
その8:「参加することに意義?」
その9:「テレビが使えなくなる!」
その10:「人を評価するということ」

「うろん語」第一巻目次(その1)を見る
「うろん語」第三巻目次(その1)を見る
「うろん語」第四巻目次(その1)を見る

 脳から出ている神経の全てを完璧な機械に一本一本つないで、頭の中に納まっている時と全く同じように神経信号のやり取りをすれば、脳は頭の外に自分が居ることに全然気付かないのではないか?と、小さい頃に空想したことがあります。これは、まさにSF版「胡蝶の夢」です。自分はそんな機械につながれてなんかいない!と、どうして決め付けることができるだろうか?自分は蝶々なのに、人間だと錯覚させられているんじゃないのか?

 デカルトも、そんなふうに「自分」を徹底的に疑った人だと思います。「我思う、ゆえに我あり」こんなに自分が思い悩んでいるんだから、自分が存在しているということだけは確かだ!と彼は考えました。

 では存在するということはどういうことなのか?箱の中にウサギがいるかどうかは、箱を開けて中を見た瞬間に決まる!というのが量子力学の考え方なのだそうです。箱を開けないうちは、ウサギはいるかもしれないし、いないかもしれない。物事は観測しないうちは決定しない。「あ、自分は今悩んでいる」と自分を観測した瞬間に自分の存在が決定する!?それじゃあ、ボーッとしていると、自分は消えてしまうのだろうか?

 量子力学には不確定性原理というのがあって、小さなものを観測する限界について述べられているそうです。これと似た名前で、数学には不完全性定理というのがあって、論理学の限界が述べられているそうです。論理のパズルをどんどんと組んで広げていくと、どこかで合わないところが出てくる。だから、皆が正しいと思うことをどんどん積み重ねていっても、いつか必ずつじつまが合わなくなるんですよ!ということが数学的に証明されているらしいのです。

 そんなことが、脳の研究のテーマのひとつにきっとなっているんだろうと思います。脳とはどんなものか?私たちが正しいとか合理的だとか思うのはどういうことなのか?そもそも思うというのはどういうことなのか?

 するってぇーと、「思う」がわからなかったら、自分が存在しているかもわからないじゃないか?自分が人間か蝶々かよりももっと肝腎なこと、自分がいるかどうかわからない!デカルトさんは随分簡単なところで結論を出してしまったもんだ。

 こんなどうしようもない問題を一言で表したのが、「色即是空」じゃないかと思います。最近、般若心経を唱えているお年寄りを見ると、スゴイ!と思います。だいたいみんな意味はわからない。でも、それでいい。わかるということがどういうことか、そもそもわからないのだから。

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