トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:自己同一性

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「星」という字は星らしく、「湖水」という字は湖水のように、「鳥」は鳥らしく…文字ひとつひとつの書体を変えていた書家がいたと言う…

ひとつの文章で、書体を統一する必要など、実は無いのだ。それじゃあ、ワープロと同じじゃないか。それじゃあ、手書きの意味がないじゃないか。

「書は人なり」というけれど…

ひとつの人生で、自分を統一する必要など、実は無いのだ。それじゃあ、ロボットと同じじゃないか。それじゃあ、生身の人間の意味がないじゃないか。

我を忘れて…エゴを忘れて…

でも、

自分に束縛される苦悩と、自分が見つからない苦悩と、

どっちが辛いんだろう…
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悟りへの道 に参加中!
「空海の夢」(春秋社)
「16.カリグラファー空海」を読みました。

《以下引用》
…「書は散なり」とは、空海の書のみならず、その思想の特徴を知るうえでもすこぶる重要な指摘である。書を散らして書きなさいというのではない。書する心のほうをあれこれ景色にあてがいなさいと言うのだ。景色とはまた気色であるが、ようするに対象に陥入してアイデンティファイするということなのだ。

ふつうアイデンティティは自己同一性というふうに解釈されて、主体性の一貫を申しひらく意味につかわれる。簡単にいえば「自分らしさ」である。けれどもこれは近代自我がつくりあげた勝手な弁論だった。本来、個人主義的な主体性などというものはない。ましてそれが一貫するなどということがあってはたまったものじゃない。それではただひたすら「私」という得体のしれぬ者の筋を通すために、他は犠牲になるばかりである。…

しばしば文字を見れば人がわかると言われる。そうだろうか。文字を見て人がわかるとは、その人が自分にこだわっているさまがよくわかるという意味である。エゴイズムが見えてくるということにすぎない。

空海の書は入唐後、そのエゴイズムをこそ脱しようとした。文字を見て人をわからせるのではなく、文字を見て万物をわからせるほうに努力を傾注したのだった。これがなかば批判がましく空海の雑体書風とよばれる当の本体である。

《引用終わり》

空海がその場面に合わせて書体を変えていたことは知っていましたが、「益田池碑銘」では文字ひとつひとつの書体を変えていたそうです。

「星」という字は星らしく、「湖水」という字は湖水のように、「鳥」は鳥らしく…

書のような絵というか、絵のような書というか。Sing like talking というか、Talk like singing というか。

《つづく》
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ブログのタイトルを変えてみました。どんな内容になるか分からないブログに取りあえず試しに付けた名前がずっとそのままでしたから、変えたいと思ってました。いろいろ考えましたが、「トトガ・ノート」というシンプルなものにしました。

ずっと続けてきたブログ。毎日更新と決めてから、思いついたものをとにかく投稿しています。だから、まとまりなどあるはずがない。ところが、出来上がってきたものを見直してみると、結構関連があることに気付きます。

諸行無常というように、自分の体は毎日構成分子が入れ替わっていますし、シナプス結合が心ならばやはりそれも日々変化しています。忙しく走り続ける毎日の中で、「自分」をどこかに置き忘れているんじゃないか?「自分」という輪郭はどんなものなのだろう?「自分」はどこに行こうとしているんだろう?そんな不安を抱いていました。

とりとめのないものを書き綴っていったら、自分の統一の無さがますます露わになるんじゃないか?そんな不安…

ところが、記事の中には関連のあるものが非常に多いことに気付きました。それを整理する意味で、リンクでつないでみました。ブログの検索機能を使って遡ってみると、ずっと前に書いた内容でも同じことを言っているものが多々ある。

何だか、螺旋階段みたいだな…

忙しく駆けているようで、同じところをグルグル回っている。興味や考え方が変わらないと捉えれば、進歩が無いことになります。でも、自己同一性が保たれている証しでもあり、少なくとも前述のような不安は要らないのだな、と思いました。

「トトガ・ノート」は、そんな雑記帳です。
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チャプタ?の「君はまだ「神」を殺していない」「貧者の一灯」を読みました。

《以下引用》…アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』で考察したのは、神によって罰を受け、岩を押して坂道を上ることを永遠にくり返す運命に落とされた男の物語である。男は、その宿命から逃れることができない。死ぬこともできない。永遠にそのような意識の流れの中に閉じ込められてしまっている。しかし、そのような定めから離れて彼の生命はなく、それこそがまさに自身の自己同一性の証しであるということに思い至ったとき、男は無限の自由を感じるとカミュは書く。…《引用終わり》

茂木さんも、これを引用して、「生の有限性」を経由せずして思考の自由はない、と説きます。人間は「自分はカスなんじゃないか?」という絶望感に直面しないようではダメなんじゃないか?と前に書きました。

自己嫌悪、自己否定に苦しみながらも、その嫌な「自分」から抜け出せないということは、逆に言うと「自分」という殻が強固なものである証です。殻とも見なせるし、鎧とも見なせるし。その確固たる「自分」の中では、ある種の自由を感じることができるのではないだろうか?

実際には、心身ともに刻一刻と変化しているのが「自分」です。自己同一性が保たれることの方が不思議なんですけどね…

《以下引用》…くり返し言おう。宇宙は不条理である。この世にはさまざまな物質のあり様があるだけであり、私たち人間の倫理規則にどんな根拠があるのか、そんなことはわかりようがない。私たちを感動させる芸術体験も、その表象的起源がどこにあるのか、わかりはしない。現代のすべての学芸は、そのような無根拠の砂の上につくられた楼閣である。…《引用終わり》

いまさらこんなことがこの本の結論だったのか…とちょっと驚いてしまいました。理工学から法学にいたるまでを日本の最高学府で学んだ茂木さんでさえ、こんなものなのかと。私が探しているのは、まさにその先であります。

《以下引用》…今の私たちにできることは、時代の制約をわがこととして引き受けて、ささやかな貧者の知の一灯を点すことであろう。…《引用終わり》

これが結語なのですが、「一灯照隅」(最澄の言葉)を思わせるこの一文には苦笑してしまいました。やはり仏教しかないのかな…

《最初から読む》
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