トトガノート

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Tag:脳科学

なぜ、それを好きになるのか?脳をその気にさせる錯覚の心理学の「第3章.なんとなく好きにさせる王道テクニック」(p51〜104)の「第2節.サブリミナルで好きを作り出す」(p71〜88)を読みました。(小林教室収蔵

サブリミナル効果について初めて知ったのは、刑事コロンボ「意識下の映像(Double exposure)」ででした。子どもながらに、不思議なことがあるものだと思いました。大人になってから、悪用できないものかと(笑)モヤモヤ思い続けましたが、実行しないまま今日に至っています。今ならITを駆使して簡単に仕込めそうですが、幸いそんなのも面倒な年齢になってしまいました。

前回も脳で処理しやすいものを私たちは好きと感じるようになるということでしたが、この「処理の流暢性の誤帰属」は無意識下のサブリミナルでも起こります。というよりも、無意識(それを見たという自覚が無い)の方が強く作用するケースがあるというのは興味深いことです。

自分が好きな映像を見ているときに、無意識下で見た物のことは好きになる傾向があるそうです。人気アニメに、こっそり勉強の映像を仕込んでおけば、勉強が好きになっていくかもしれません。これは悪用ではないですよね…。

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なぜ、それを好きになるのか?脳をその気にさせる錯覚の心理学の「第3章.なんとなく好きにさせる王道テクニック」(p51〜104)の「第1節.処理の流暢性の誤帰属が好きな気持ちを作り出す」(p52〜70)を読みました。(小林教室収蔵

前回、脳で処理しやすいものを私たちは好きと感じるようになるということでしたが、これを専門用語で言ったのが「処理の流暢性の誤帰属」です。

処理の流暢性をもたらす方法として、「単純接触効果」が挙げてあります。繰り返し見ている(単純接触している)と、それを脳で処理するのがスムーズ(流暢)になるので、何となく好きになってしまう(誤帰属)ということです。

本書に例示されていないことで思い浮かぶのは、「習うより慣れろ」ということ。勉強しなければいけないものは、理解することはできなくても、取りあえず見てみる。英語ならば、聞き取れなくても、取りあえず聞いてみる。嫌にならない程度にちょっとだけ見て(聞いて)、やめる。また、思い出したら、ちょっとだけ接触してみる。これを頻繁に繰り返すと、慣れてくるはず。つまり、処理の流暢性を獲得し始めたことになります。

何度も足を運んでくれる営業マン。誘うと必ず顔は出してくれる付き合いの良いヤツ。通勤・通学の時、必ず出会うお姉さん(お兄さん)。毎日目にする風景。単純な接触を重ねることで、憎めない、愛着ある存在になる…。

でも、これ、単純じゃないといけないみたいです。来るたびにしつこく営業されたり、来るなと言っても来たり、帰れと言っても帰らなかったり…は、当然のことながら大嫌いの原因になります(笑)。

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なぜ、それを好きになるのか?脳をその気にさせる錯覚の心理学の「第2章.見た目の情報で「好ましさ」が決まる」(p27〜50)の「第2節.好きは無意識の精神活動が作り出す」(p40〜50)を読みました。(小林教室収蔵

「心理学」とは?「鬱病」とは?の捉え方が面白い!というか、なるほどと思いました。

人間は、生まれた時はタブラ・ラサの状態、パソコンなら何もインストールしてない状態だと思います。DNAはハードウェアの仕様で、大きくなってからの行動パターンはこれに由来する部分もかなりあるとは思います。が、その他は生まれてからの経験をもとに神経のネットワークが構築されていくのでしょう。

視覚・聴覚といった五感は、目や耳などのセンサーから来た信号をそのまま使っているわけではなくて、脳がかなり処理を加えていることが知られています。これをこれからうまく活用して行こうというのがバーチャル・リアリティの技術だと思います。また、これが不思議な具合に作用してしまうのが錯覚と呼ばれる現象なわけです。

目とか耳というセンサーはDNAによって若干仕様が違うと考えられます。生まれてから、実際に見たり聞いたりする中で、その人なりの、目や耳から送られてきた信号を画像処理・音声処理するソフトウェアが構築されていくわけです。

そうやって得られた周囲からの刺激をもとに、感情を動かしたり、思考をめぐらしたり、ということが繰り返され、神経ネットワークがさらに複雑に構築され、脳の中のソフトウェアが出来上がっていくわけです。

間違いの無い(?)ソフトウェアを買ってきてインストールできればいいのですが、人間は自己学習型です。生まれてからの環境に大きく依存します。しかも、残念なことには、どんな環境に置けばどんな神経ネットワークが構築されていくかという因果関係が殆ど分かっていない…。

この本によれば、この辺のところを取り扱う学問が「心理学」ということであり、このソフトウェアの動作段階での不具合が「鬱病」などの心的疾患と言えるようです。

このソフトウェアの処理は無意識に行われるので、便利でもあり、厄介でもあります。そして、この無意識の処理がスムーズに行われる対象(絵や音楽や言葉などなど)を、私たちは何となく好きだと感じるのだそうです。

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なぜ、それを好きになるのか?脳をその気にさせる錯覚の心理学の「第2章.見た目の情報で「好ましさ」が決まる」(p27〜50)の「第1節.見た目が優位な理由は脳にある」(p27〜39)を読みました。(小林教室収蔵

人間の脳は大脳・小脳・脳幹の3つの部位に分類され、大脳は75%を占めているとのこと。その大脳の50%が視覚、10%が聴覚、10%が味覚・触覚、20%が運動、残りの10%がいわゆる勉強で使われる…。

これは、なぜ人間は見た目に騙されやすいか、とか、なぜ勉強よりもスポーツが好きなのか、といった疑問に対する最も説得力のある答えのような気がします。

脳のしくみから見れば視覚:聴覚の比率は5:1ですが、実際のところ、「百聞は一見にしかず」と言われるように100:1くらいの差があるかもしれません。

ただ、これは平均的な配分比率のはずで、みんなこの比率ということは無い筈です。なぜなら、目が見えない人は大脳の半分は働いていないのか?ということになりますから。実際は、画像処理の仕事が無くなった大脳の半分は他の仕事に再分配されるはずです。目の見えない人が、聴覚や触覚や思考において超人的な才能を発揮することが多々ありますから

英才教育とは、この配分比率を変えようという試みなのかもしれません

ともかく、一般的な人は圧倒的に視覚偏重の脳を持っているわけで、文字だけの本よりはマンガ、ラジオよりはテレビ…メールや投稿記事も写真の有無で全然説得力が違います。

「好き」にさせるためにこの視覚を利用しましょうというのが、この章のポイントです。

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なぜ、それを好きになるのか?脳をその気にさせる錯覚の心理学の「第1章.すこし愛して、ながく愛して」(p14〜25)を読みました。(小林教室収蔵

たまたま、ラジオを聞いていて、この本を知りました。「大好き」と「なんとなく好き」は別物!と言われて、なるほどと思えることが多々あるような気がして、読んでみたくなりました。

「大好き」に関係しているのはドーパミン。分泌量の低下が原因で起こる病気はパーキンソン病でした。対局にあるとみなすべきではないかもしれませんが、大量に分泌される状態が例えば恋愛

ドーパミンがもたらすのは、「好き!」というよりも「欲しい!」という感情。薬物などの依存症をもたらす原因ともなっているようです。

こう言われて、若い頃に悩んだことを思い出しました。好きな人ができると、その人のことを考え、24時間一緒にいたいと思うのですが、告白して断られた場合はいいとして(笑)、OKと言われたらどうしよう…と悩んでいました。デートの経験が乏しいからだと自分なりに解釈していたのですが、今思えば「欲しい!」なのであって、「好き!」ではなかったんですね。

恋愛状態にあるとき、好きな人のことを考えるとドーパミンが分泌されます。快感となり、疲れを忘れ、力がみなぎってきます。先日見てきた「アナと雪の女王」でも、運命の人を思う「愛」の力が全てを救う至上のものという扱いで、キリスト教を強く感じました。

でも、キリストは本当にこういうのを「愛」と呼んだのだろうかと、私は疑問に思っています。とても不安定で、危険を孕んでいるように思えるからです。その点、仏教で「愛」と言えば渇望した状態を意味し、この本が指摘する「欲しい!」という状態と合致します。

この本は「好き!」と「欲しい!」をしっかり区別した上で、「好き!」について、それも「猛烈に」ではなく「なんとなく」の方について、取り上げています。

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哲学 に参加中!
「犀の角たち」(大蔵出版)
最後まで読み終えまして、自分なりの「第5章」を書いてきました。

視点の人間化が進むとどうなるんでしょうか?さらに個別の人間の視点に下降(堕落)していくのかもしれません。人間一般(平均的な人間)の視点から個々人の視点への、さらなる分散化です。

量子力学では山田博士と斎藤博士の実験結果が違ってくるという現象(個人差)が起きました。生物学はDNAレベルまで解析できるようになって、個人別の医療(テーラーメイド医療)の可能性が広がってきました。

「科学は人間の視点から見た一つの見解」というポアンカレの指摘は、個々人の視点でそれぞれ違った科学ができる可能性をも示唆しているように思います。脳科学により個々人のシナプス結合の相違が解析されれば、個人別に「私」の数学体系、「私」の論理学体系ができてくるかもしれない。

さて、宗教はどうでしょうか?宗教の人間化も個別対応ということになるのではないでしょうか?大乗仏教は様々な人に個別に対応したがゆえに多様化したのではないでしょうか?そう考えると、大乗こそ最も視点の人間化の進んだ宗教のように思えてならないのです。(世界中のすべての宗教を知ってるわけではないですけどね…)

教義を変えないことが宗教として最も重要なことなのでしょうか?教義を変えないということは、唯一絶対の教義に人間を歩み寄らせてきた宗教ということであり、結局は神の視点から抜け出せない宗教ということではないでしょうか?

唯一絶対の教義を強要されれば、そこに新たな苦しみが生じます。結果として、その教義に歩み寄れない人間を救うことはできません。

人間に合わせて教義を付加したり変容させていく宗教が、人間化の進んだ宗教と言えるのではないでしょうか?

仏教はあらゆる思想やアイデアを含むということなので一見不統一のようでもありますが、理論的に整合性が取れるように先人たちが腐心したと思われる箇所に気づくことも多く、全体としてはうまくまとまっているんじゃないかと思います。(正確には全体をまだ見渡せていないので、そう期待して仏典をこれからひとつひとつ読んでいこうと思っています。)

そんな仏教の姿が、進化の名残を体の器官のいたるところに残しながら高等生物として生きている人間とダブってしまいます。

生物進化に照らし合わせて多様化を見てみますと、教義を変更しない宗教とは大腸菌のような自己コピーで増殖する生物、つまり有性生殖をしない生物に似ています。自分のDNAが変化することを許さない生き方です。一方、アショカ王時代の破僧の再定義は多様化が進むという点で、有性生殖をする生物の登場に似ています。

生物の歴史において、多様化は種族の存続に大きく寄与します。同じ種族の中に寒さに強い個体、暑さに強い個体、体の大きな個体、体の小さな個体など様々な個体が登場することによって、生息する地域を広げることもできるし、環境の激変に対応することもできるからです。

多様性を持つことで、仏教も宗教としての大きな生命力と可能性を得たと思います。そのおかげで、約2500年も昔に遠いインドの国に生まれたある一人の人間の考えが、多くの人に受け入れられ、伝わり、広がり、山を越え川を越え谷を越え砂漠を越えアジアに広がり、海を越え日本に伝わった。日本の中でも独自の発展を遂げ、実績を上げて、現代の我々がそれに触れることができる。

まさに「百千万劫にも遭い遇うこと難し」と言われる奇跡を生んだ。

※ ※ ※

著者がラブレターとしたこの本。私も夢中になっていろいろと考えてしまいました。こういう情熱はいつまでも持ち続けたいと思います。

《最初から読む》
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ブログネタ
哲学 に参加中!
「犀の角たち」(大蔵出版)
「第四章 釈尊、仏教」の前半を読みました。

まず、脳科学についての指摘。

《以下引用》…
脳科学は、様々な領域で科学理論が成立していく、その成立機構を解明するにすぎない。脳科学自身が主役となって、そこにすべての科学理論が収束するなどということはあり得ない。科学というものは、あくまで外界からの情報が材料となって作られるものであるから、それと無関係に脳が勝手に科学的世界を構築できるはずなどないのである。
最近は脳科学が過大評価されて、「すべての科学理論は、社会状況に応じて脳が作り上げる仮想の体系だ」と主張する人たちもいるが、それは違う。外界からの情報は確実な実在であり、それをもとに、脳が人間独自の解釈法で作り上げるのが科学理論なのである。
…《引用終わり》


私は外界の存在に懐疑的な気持ちも少しあります。が、外界くらいは実在と認めなければ科学自体がナンセンスなものになりますね…。「脳」は体の一器官に過ぎませんし、人体の中には潜在的(automatically)に動いている部分がたくさんある。「腸」は自律神経の支配も受けますが、結構独立した存在らしい。『腸は考える』(藤田恒夫著・岩波新書)という本があるくらいだから、「腸科学」というのがあってもいい(笑)。

《以下引用》…
仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい。科学の人間化を一本のベクトルとした場合、出発点にはキリスト教をはじめとした一神教世界があり、反対側の到着点に仏教がある。もちろん科学が最終的に仏教になるなどと言うのではない。両者はそもそも求める目的が違う。しかし、その目的を求めて我々が活動する、その活動の場が、仏教と科学では同次元なのである。
…《引用終わり》


この指摘は面白いですね。理学部に仏教学科があってもいいかもしれない…

《以下引用》…
仏教とは、そういう言葉のパレードをことごとく許容してしまう恐るべき寛容さ、もっと率直に言えば恐るべきいい加減さを含んだ宗教である。…「こだわらないこと」が仏教なら、仏教徒は脳天気な阿呆の集団になってしまうではないか。
まず大切なのは、仏教のそういったいい加減さというものは、仏教が本来持っていた特性ではないということを認識することである。…
ではなぜ、本来は「ある特定の教義を主張する一個の宗教」だったはずの仏教が、今のような「なんでもあり」の宗教になったのか。それは、そうならざるを得なかった歴史があるのである。
…《引用終わり》


確かに、矛盾する言葉をくっ付けて文を作ると、仏教的に聞こえます。

《以下引用》…
仏教という宗教は、二千五百年間にわたって東アジア全域で展開してきた宗教運動であるが、それは多様化の歴史でもあった。その中にはおよそありとあらゆる形の思想、アイデアが含まれている。
どんなことでもよいから好きな思想やアイデアをひとつ挙げてみてほしい。それと似たものは必ず仏教の中に見つかる。…華厳経フラクタルを見たり、法華経量子論をくっつけたり、宇宙論にマンダラを持ち込んできてもなんの意味もない。面白いかもしれないが、そこから何が生まれるわけでもない。ただの思考のお遊びにすぎない。むしろ驚くべきことは、なんでも見つかるその仏教の幅の広さである。これは…仏教が常に分化分裂を続けた結果、きわめて多様な形態を含み込んだ複合的宗教になったことが原因である。
…《引用終わり》


その多様さは、思想的な部分だけにとどまりませんね…

《以下引用》…
その多様な仏教のそれぞれの要素は、長い時間を経て生まれてきたものであるから、それぞれが独自の歴史的背景を持っている。…
たとえば釈尊時代の仏教の要素と後期密教時代の教義は、千年近くのずれがある。それをひとつにまとめて考えても実際は意味がない。ありもしない架空の仏教を想定することになるし、下手をすればとんでもない邪説を生み出してしまうことにもなる。
…《引用終わり》


イギリスによるインド植民地政策の話もとても面白いのですが、ここではパスします。

《つづく》
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