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IT革命に付随した波がいろんな業種に方向転換を迫っています。人々のライフスタイルも変わってしまいましたから、今までの商売のやり方が通用しなくなっている…。

ひと月ほど前の「クローズアップ現代」では、新聞業界の苦悩が取り上げられていました。新聞が無くなってしまうのではないか?という業界の不安に対して、ゲストの立花隆さんは、絶対に無くならないと断じました。「必要なものだから」というのが理由でしたが、未来を見据えた前向きな意見というよりは、新聞で育ったジャーナリストとしての過去を懐かしんだ祈りのように感じました。

新聞が全く無くなってしまうとは私も思いませんし、それを望みもしませんが、今のような形は維持できないだろうと思います。

数年前まではネットでニュースを見るというスタイルにはどうしても馴染めなかったし、ましてやどこのだれが書いたか分からないブログから情報を得るなんてことは考えてもみませんでした。でも、最近は違っている…。

紙の新聞の購読は止めて、ネットで流れるニュースだけでも何とかやっていけるんじゃないか?と最近考え始めています。一般人が書くブログのほうが、速くて説得力のある情報だったりすることもある…。

立花さんに言わせれば、新聞の情報は信頼性が高いし、結局ネットに流れている情報もおおもとを辿れば新聞のようなマスメディアでしょう?ということでした。だから新聞は無くならないという論法なんですが、新聞をおおもととする情報がネットに流れているんだとしたら、新聞の情報をアップするサイトさえ読めば新聞は読まなくてもいいということも言えます。

だから、新聞はある程度の部数は売れるでしょうから、全く無くなるということはないかもしれないけれど、今までのように売れるということもないでしょう。要は、新聞社の採算ラインを超えるだけの売り上げを確保できるかどうか…。

採算ラインを超えられないとなれば、いわゆる新聞という形態は成り立たなくなるわけで、新聞の絶滅もありえない話ではない。

そうなれば、新聞の記事を書いていたようなジャーナリストが有料のサイトやメールで情報発信するような形が多くなってくるかもしれません。

「○○新聞」という看板の下に囲われていたジャーナリストたちが、そういう看板無しで勝負することになるとしたら、それはむしろ良いことなんじゃないかな?というのが、今回言いたかったことです。

現状では、新聞社の意向で掲載されない記事もあるでしょう。「○○新聞」という形で束ねるためには、どうしてもある種の情報操作は避けられないと思うのです。そのふるいのお陰で高い信頼性も保たれるのでしょうが、弊害として必ず情報には偏りが生じるはずです。これは検閲と本質的には同じです。

いくつかの新聞社や放送局があって、それぞれが違った特色を出しているからいいじゃないか、という反論は有るでしょう。が、そういう点では、新聞社や放送局の数が十分多いとは思えないし、それぞれが自由な主張をしているようにも見えません。

ひとつの大事件が起こると、どこのチャンネルでもそればかり扱ってるというのが普通ですから…。

それぞれの新聞社が180度違う意見を発信するというケースも少ない。もっともっと無ければおかしいです。

社会を行き来する情報のすべてを集めたとき、その中にあらゆる方向の論説が含まれていなければ、健全な情報群とは言えないと思います。(敢えて言えば、「空」の状態ではない)

邪な情報が行き来することもありましょうが、発信者の邪な部分をそのまま伝えるのも情報の務め…尤も、正邪の判断は主観的なものであり、基本的には受け手の判断に委ねられます。邪と判断して途中で遮断(フィルタリング)してしまうのは検閲…尤も、ウイルス駆除も広い意味では検閲の一種ですから、検閲の是非もまた主観的なもの…。

質の低い情報に翻弄されることは増えるでしょうが、そうしなければ情報を見極める力は養われないし、それが情報化社会で洗練されるということでしょう。

社会のこの大きな流れは、いつかは平衡点を見つけて、落ち着くこともあるかもしれません。でも、その社会が、今までのマスメディア中心の情報化社会と比べて良いと言えるかどうか、もっと遡って、かわら版から情報を得ていた社会と比べて良いと言えるかどうか、それぞれ長所短所があって優劣はつけられないそんな程度のものなんじゃないかとは思います。

それでも、この流れは止められない…。

IT革命と言っても、結局はテクノロジー(「T」の部分)の革命だったわけですが、その革命がITの本丸たるインフォメイションそのもの(「I」の部分)まで、いよいよ波及してきたということなのかもしれません。