トトガノート

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「釈尊の生涯」(春秋社)
「9.さとりの内容」の中ほどを読みました。

釈尊当時のインド思想界で、本体論に次いで問題となったのが現象論だそうです。現象界がいかにして発生し、いかに変化するかということです。当時のシャモン、バラモンの主張は…

1.神意論(自在化作因説)
最高神を立てる正統バラモンの主張。現象世界の発生・持続・消滅すべては全知全能の神(自在天とか梵天)によって支配されており、人間の幸・不幸の運命も神の意志によって決まるとする。

この理論では人間の自由意志が全く認められず、我々は自身で自分の運命を開拓することが許されない。責任もなく、自分の意志による修養努力もなくなってしまう。

2.宿命論
我々の運命は、前世の行い(宿業説)や、生まれながらの階級(階級因説)や、地水火風などの要素の結合状態の良否(結合因説)によって、あらかじめ定まっているという考え方。

神意論と同じく、我々の自由意志の介入する余地が全くない。

3.偶然論(無因無縁説)

因とは直接原因、縁とは間接原因をいう。我々の運命は、最高神やその他のものに左右されることはない。

運命は偶然に起こるから、偶然の好機を捉えることだけが必要であり、機会が到来した時に直ちに把握し享受すべきであるという、刹那的享楽主義になってしまう。

***

真理はいずれにあるか、という問題なのかもしれないのですが、真理であることを証明することも難しい問題です。ですから、前掲の三つの論の問題点を考慮し、自分の運命に対する考え方としてどんな理論が哲学的・宗教的に意義深いか、という思索を釈尊は巡らしたのではないかと思います。

自分の運命に対してどんな捉え方をすれば、人々は生老病死の苦悩から解放され、元気に生きていくことができるのか…それが釈尊の、宗教デザインのコンセプトのようです。

《つづく》


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神の視点については以前も考察しました。今回は、集中から分散への移行という観点で見てみたいと思います。

視点の人間化が分散化とイコールとは言えないかもしれませんが、唯一絶対の神の視点から約70億いると言われる人間に視点が移動するわけですから、必然的に分散すると思うのです。

唯一絶対の神が存在するということになると、卑しい我々の身近にはいなくて、天界のようなところにいらっしゃって、この世のすべてを統括する…というイメージになると思います。

私が会社に入社したころは、コンピュータ・システムも一極集中でした。高性能のホストコンピュータ(正に神のような存在)に回線接続して、最低限のデータ入出力回路が付いた端末で作業をしていました。

これが数年後、クライアント・サーバー・システムに移行しました。ホストコンピュータは中程度の性能のサーバーに、端末は少し性能アップしたクライアントになりました。クライアントはデータの入出力だけではなく、ある程度の演算処理も行う。その分、ホストの負担が減るからサーバー程度の性能で良くなったわけです。処理の分散化です。神(ホストコンピュータ)よりも能力が劣る人間たち(サーバー)の手に物事が託されるようになった…

さらにグリッド・コンピューティングという究極の分散化まで登場しました。が、逆に最近ではセキュリティの問題から、クライアントに情報を残さないシン・クライアントという形になったり、クラウド・コンピューティングが登場したりということで、分散化には若干逆行する傾向かもしれませんけど。

さて、この世はすべて法(法則)に支配されているというのが、仏教の世界観のようです。その法則の一つとして万有引力を例に考えてみましょう。

この世のすべての物質は万有引力の法則に支配されている。質量ある物質間には引力が生じる。身近な例では、リンゴが地球に引っ張られて木から落ちる。

古典力学では、質点という考え方を用います。地球ならば、その質量を持つ体積ゼロの点が地球の中心(厳密には重心)に存在する。リンゴもその重心にその質量をもつ質点が存在し、引力は地球の半径分だけ離れた二つの質点の間に生じる。こういう簡単化をすることで、二点間の問題に帰着させて、問題を解く。これは、まさに視点を集中させています。

ガッテン流に擬人化すれば、地球の中心にいる大男が地球上のすべての物質を引っ張っているイメージ。

ところが、厳密には物質を構成している数え切れない原子どうしで重力は発生しています。地表で考えると、地面を構成している地殻は比重がおもく、海は水ですから比重が軽い。そのため同じ地球上でも、エベレストの近くのように地殻が厚いところでは重力は強く、太平洋上のように地殻が薄いところでは重力は弱い、という現象が観測されています。

これを再びガッテン流に擬人化すれば、物質の中には質量に比例した数だけ重力を生じる「重力くん」なるものが隠れている。地面が分厚いところには重力くんがたくさん隠れているので、リンゴを落とした時、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力が強い。太平洋上では重力くんの数が若干少ないので、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力は若干弱い。

地球の中心にいた大男が散り散りに分かれて、小人になって遍在する。視点の分散化であります。

さらに話を拡大しまして、万有引力のみならず、この世のあらゆる法則を成立せしめる小人がいると考えます。それは「法」そのものですが、擬人化して体をつけているので「法身くん」と呼ぶことにします。

法身くんの頭の中には、この世のすべての法則が入っています。数え切れない無数の法身くんたちが、この世のあらゆるものの中に普く存在する。これって華厳経とか如来蔵思想の世界ですね。

遠いところにいた神という大男が分散して、我々人間や物質の中にまで存在する。これこそ神の視点から人間の視点への移行ではないでしょうか?大乗は視点の人間化の流れをそのまま継承しているように私は思います。

《つづく》

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今読んでおります「犀の角たち」では、科学の世界で起きた「神の視点」から「人間の視点」への移行について描かれています。ドキリとする捉え方ですし、ワクワクしながら読んでおります。ただ、「神」についてちょっと気づいたことがあります。

大雑把に言うと、科学史において最初に立てた理論を「神の視点」によるものとし、実験によって変更・矯正されたものを「人間の視点」によるものとしています。前者から後者への移行を堕落と捉えれば、科学は下降していく傾向にあるというものです。

「堕落と捉えれば…」というところに、「最初に立てた理論が崇高なものとは必ずしも言えない」という含みがあるように思います。最初の出発点となる視点、即ち「神」とは、言わば原始的な崇拝対象(ちと言い過ぎかな)でありまして、それが高い位置にあるとは必ずしも言い難い。

「神」には唯一絶対の全知全能な存在という意味もありますが、少なくともこの本ではそういう神を指しているわけではなさそうです。そういう神を想定して理論を打ち立てたら、科学としてどうしてもつじつまが合わなくなってしまったという例を、列挙したのがこの本と言えます。

* * *

私はこれまでこの「堕落」を、合理論から経験論への移行だと捉えてきました。もともと高い位置には居なかったから、「堕落」すなわち「垂直下降」ではなく「水平移動」。昔より物事を精細に見れているという点では、下手すると「垂直上昇」かもしれない。出発点となった「神」は、むしろ低い位置にいる…

合理論は、「人間の理性は神に近いものであり、真実を理解する能力を持っている。ゆえに人間が正しいと感じる物は、正しい。」という感じの考え方だと思います。

でも、人間は誤解を繰り返してきました。「人間は経験から学ばなければ何も分からないんだ。」という感じの考え方が生まれて、それが経験論だと思います。

合理論と経験論が現代哲学においてどう扱われているのかは全然知りませんが、実験によって理論を矯正していくという手法は正に経験論です。最近はコンピュータによるシミュレーションで仮想的な実験を行い、理論を構築したりもしています。人間の理性には限界がある、というよりも、かなり御粗末なものであるということが分かってきました。

* * *

まだ、半分しか読んでません。最後まで読めば気が変わるかもしれません。

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第二章 進化論」の前半を読みました。

今度は進化論における「科学の人間化」(神の視点が人間の視点に移っていくこと)を見ていきます。

《以下引用》…
本来のラマルク説は、進化に神の意志が反映しているという点ではキュヴィエと同様、神の視点に基づいて成り立つものであったが、こと人間の地位に関しては衝撃的な転換を要求することになった。…ラマルクは「もちろん人間も、進化という視点から見れば動物の一種である。それは猿から進化したのである。」と平然と言ってのけたのである。
…《引用終わり》


ここに「人間の視点」が始まります。ただ、神が個別に生物を創ったとするキリスト教的世界観とは相容れないため、とても衝撃的でした。仏教徒であれば、そんなに驚かなかったことでしょう。

《以下引用》…
ラマルク進化論では、生命を下等なものから高等生物への段階的移行によって捉える。これによってすべての生物は、進化という環によって一体化することになる。この点、ダーウィンもまったく同じである。また、人間も別枠ではなく、他の動物と同じように、この環に入っている。これもダーウィンと同じ。違うのは、進化が起こるそのメカニズムである。ラマルクはそれを、「生命の体制をどこまでも複雑化させようという外部からの不思議な力と、自分をよりよく変えたいという生命側の積極的で切実な要求の合一」だと考えた。…

ではダーウィンはどう考えたのか。鳩のような家畜・家禽類の考察から出発して、彼はついに変異と自然淘汰という二本柱に到達する。

遺伝の本質が何なのか、詳しくは分からないが、とにかく現実の現象として、生物個体は親に似てはいるがある程度の幅の相違をもって生まれてくるということをダーウィンは大前提とした。これは、特別な時期にだけ起こる特別な現象なのではない。変異は、あらゆる生物種においていつでもどこでも同じペースで起こっている、ごく普通の出来事である。しかもそれは、特定の方向性を持っておらず、まったくランダムな現象である。…

こうして、まったく無方向に、ランダムに起こる変異が、自然淘汰という選別を通して、より環境に適応した形に方向づけられていく。このプロセスの積み重ねが、進化の原動力となる。
…《引用終わり》


進化論は確かに衝撃的でしたが、猛烈に拒否されたわけでもありませんでした。やはり、ガリレオの時代とは違います。

《以下引用》…
進化論に納得するキリスト教信者も多かった。『種の起源』が当時としては驚くべき売れ行きだったことからもそういった状況が裏づけられる。…すでに十九世紀後半は、…聖書に書かれているのとは別の、真の歴史があるということは大方の常識となっていたのである。問題は、ダーウィンの進化論を認めても、神の存在の全否定にはならないということである。
…《引用終わり》


全否定にならないということは、進化論だけでは「人間の視点」への完全な移行にはならないということでもあります。

《以下引用》…
では現在の我々ならば否定できるだろうか。ダーウィン時代にはなかった遺伝の原理やDNAに基づく分子生物学は、人間が他の生物となんら変わることのない一生物種にすぎないという事実を強く裏づけている。しかし問題は、身体形質ではなく知能・知性である。…我々は、それが特別なものではないとは、まだ断定できない。この議論に終止符を打つことができるのは脳科学である。…《引用終わり》


以前に取り上げた本でも人間と動物の境目に知能・知性を据えていました脳科学もそういう関心を持って研究が進められているようですし、言葉こそが決定的な違いであるという研究者もいます。

でも、仏教徒としてはあまり線引きは好みません

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第一章 物理学」の後半を読みました。

相対論の説明を読んで、著者の切り口のうまさを感じました。神の視点で記述した古典力学を、人間の視点で記述し直したのが相対論。人間は光で観測するがゆえに、光速による座標変換が必要になる…言われてみれば、なるほどです。

量子力学の説明は、もっと鮮やかでした。まず、ヤングの2本のスリットの観測装置で、光が粒子と波の双面性を持つことを説明する…これは基本ですね。

2本のスリットに観測装置を追加するとスクリーンの像が変化する。これで、「波の収縮」や「シュレディンガーの猫」を説明するのもどっかで見たような気がします。

でも、盛り場通いの山田博士と後任の斎藤博士を登場させて、「量子暗号」を説明してしまうのは鮮やかでした。

「多世界解釈」というは「パラレル・ワールド」のことだと思います。量子力学の考え方を発展させれば、「多世界解釈」になるのが一番自然だと私も思います。宇宙は複雑多岐で何次元なのか分からないと以前書いたのは、「パラレル・ワールド」が頭にあったからです。

久しぶりに、ワクワクする本に出会いました。

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第一章 物理学」の前半を読みました。

《以下引用》…
科学というのは、世界のありさまを、あるがままの姿で記述することを目的として生まれたものではない。特にキリスト教世界の中で誕生した近代科学が目指したものは、この世界の裏に潜む、人智を超えた神の御業を解明し、理解することにあった。法則性の解明がそのまま神の存在証明になり得たのである。したがって、科学によって解明されるべき世界の構造は、単一的で合理的で、そしてエレガントなものでなければならなかった。神が不格好で複雑で鈍重なものをお創りになるはずがない。…そして人々は、頭の中で、単一的で合理的でエレガントな世界像をいろいろと考え出し、それらのうちで現実によく合うものを選びとって、「これが世界の基本構造である」と主張した。…

頭の中の理想体系は、各人それぞれがそれぞれの個性に応じて生み出すものであるから、しょせん現実の世界と完全に対応するはずがない。大枠は似ていても、食い違いは出る。その食い違いをどう解決するか、そこが科学者の正念場である。ガリレイやデカルトは、外部世界が突き付ける不合理を拒否して、頭の中の理想世界を優先した。…その代償として、現実世界を正確に記述する物理体系を生み出すことはできなかったのである。これに対してニュートンは、己の直覚よりも、実際の現象を優先して、重力という正体不明の概念を導入することで、現実ときっちり対応する体系を創成した。…

本書は科学の方向性をテーマのひとつにしていると言ったが、その要点はここにある。脳の直覚が生み出す完全なる神の世界が、現実観察によって次第に修正されていく、悪く言えば堕落していく、そこに科学の向かう先が読み取れると想定するのである。…

神の視点が人間の視点に移っていくことを、自分の勝手な言い方で「科学の人間化」と呼び、それを堕落だと考える傾向を「下降感覚の原理」と呼んでいる。ただしここで注意しなければならないのは、神の視点というのが、もちろん実際の神を想定して言っているのではなく、我々が頭の中で常識的に最も端正で納得できる美しい形として捉えている視点のことを指しているという点である。「神の世界はこうあるべし」というそのような見方のことである。先にも言ったように、脳の直覚が生み出す完全なる神の世界が、現実観察によって次第に修正されていく、それが「科学の人間化」なのである。
…《引用終わり》


とても私好みの指摘です。漠然と同じことを考えてきましたので、うまく言葉に置き換えていただいたようで、気持ちがいいです。自分も同じような考え方をしていたとはいえ、言葉にできず、発展させることもできませんでした。著者がどのように展開させるのか、先が楽しみです。

もともとの「神」というのは結局、脳の中に居るのですね。そしてそれは脳の都合に依存した「神」であるから、思い込みの影響も受けるし、脳の生理学的あるいは構造的(解剖学的)制約も受けます。(結局は感覚器官に由来する)現実観察によって補正を繰り返してきたのが科学史と言えます。

脳はそもそも「神」を理解するだけの容量や能力を持っているのか?言い換えれば、本当の「神」を脳は「単一的で合理的でエレガント」だと感じるだろうか?逆に、現実観察というのは絶対に確かだと言えるのか?この辺のところを固めないと、科学は足元からすくわれて完全にひっくり返る可能性さえあると思います。

《つづく》

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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「1中論」の「第21章」から「第27章」(最後)まで読みました。各章、好きな一文を抜き出します。

第21章.生成と壊滅との考察
9.空なるものには、生成も壊滅もありえない。空ならざるものには、生成も壊滅もありえない。

第22章.如来の考察
16.如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。(真実のブッダとは、われわれの経験している世界にほかならない)

第23章.転倒した見解の考察
2.浄と不浄と転倒とに縁って起こるそれらのものは、それ自体としては存在しない。それ故にもろもろの煩悩は、本体についていえば、存在しない。

第24章.四つのすぐれた真理の考察
40.この縁起を見るものは、すなわち苦、集、滅、および道を見る。

第25章.ニルヴァーナの考察
24.〔ニルヴァーナとは〕一切の認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい〔境地〕である。いかなる教えも、どこにおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。

第26章.〔縁起の〕十二支の考察
12.〔十二因縁のもろもろの項目のうちで〕、それぞれの前のものの滅することによって、それぞれの〔後の〕ものが生じない。このようにして、このたんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する。

第27章.誤った見解の考察
16.もしも人間が神と異なったものであるならば、しからば〔このような見解は〕無常〔を執するもの〕となるであろう。もしも人間が神と異なったものであるならば、個体としての連続はありえない。

《つづく》

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第14章「「神」と人間のあいだで」を読みました。

《以下引用》…イスラム教徒は思想に対して非常に大きな不信感をいだき、強制的なきびしい修行によって、ものを考える力を捨て去ってしまっている。…《引用終わり》

これはイスラム教徒ではない私でさえも非常に不快を感じる文章です。自分たちの神を崇拝し、仲間内で盛り上がるのは結構ですが、他人の神様にケチをつけるのはいかがなものでしょうか。この著者は、他の宗教に関して、ものを考える力を捨て去ってしまっているようです。

《以下引用》…きわめて優秀な頭脳を持ち合わせた人々の一部には、もう一つの反論が深刻に受け止められているらしい。それは、人間に危害を加える無用このうえない生物の存在を神がなぜ許しているのか、という反論だ。つまり、ガラガラヘビや黒後家グモ、マラリアの媒体であるハマダラカ、恐るべきライ病菌、種の存続を脅かす梅毒の病原菌はなぜ存在するのか、こういうたぐいのものは、すべて神のもつ善意と両立しないではないか、と言うのである。…《引用終わり》

これに対する説明はこうです。

《以下引用》…もし、ある最高の力が真実の諸法則を「創造した」という事実を受け入れるならば、これらの法則がいったん形づくられると、みずからその機能を果たしていく、という事実をも受け入れなくてはならない。言い換えれば最高の力自体でも、さまざまな現象がこうした法則の定める方向に展開していくことを食い止められないのだ。さもなければ、法則などもはや存在せず、気まぐれだけが残ることになる。…《引用終わり》

これは全然納得できません。諸法則が実行されていくとモンスターを生み出してしまうという弊害があるのなら、そんな法則は最初から創造しなければいい。そんな言い訳は神ならぬ身のみができることなのであって、そんな法則を創造してしまうのであれば全知全能の創造主ではないということになります。

私は、道徳という分野に関してさえも、絶対的な善悪の判断基準というのは無いと思っています。まして、科学者が生物を善玉と悪玉に分類するなんて、正気とは思えません。

これについては、明日、もう少し書きたいと思います。


《つづく》

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チャプタ?の「君はまだ「神」を殺していない」「貧者の一灯」を読みました。

《以下引用》…アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』で考察したのは、神によって罰を受け、岩を押して坂道を上ることを永遠にくり返す運命に落とされた男の物語である。男は、その宿命から逃れることができない。死ぬこともできない。永遠にそのような意識の流れの中に閉じ込められてしまっている。しかし、そのような定めから離れて彼の生命はなく、それこそがまさに自身の自己同一性の証しであるということに思い至ったとき、男は無限の自由を感じるとカミュは書く。…《引用終わり》

茂木さんも、これを引用して、「生の有限性」を経由せずして思考の自由はない、と説きます。人間は「自分はカスなんじゃないか?」という絶望感に直面しないようではダメなんじゃないか?と前に書きました。

自己嫌悪、自己否定に苦しみながらも、その嫌な「自分」から抜け出せないということは、逆に言うと「自分」という殻が強固なものである証です。殻とも見なせるし、鎧とも見なせるし。その確固たる「自分」の中では、ある種の自由を感じることができるのではないだろうか?

実際には、心身ともに刻一刻と変化しているのが「自分」です。自己同一性が保たれることの方が不思議なんですけどね…

《以下引用》…くり返し言おう。宇宙は不条理である。この世にはさまざまな物質のあり様があるだけであり、私たち人間の倫理規則にどんな根拠があるのか、そんなことはわかりようがない。私たちを感動させる芸術体験も、その表象的起源がどこにあるのか、わかりはしない。現代のすべての学芸は、そのような無根拠の砂の上につくられた楼閣である。…《引用終わり》

いまさらこんなことがこの本の結論だったのか…とちょっと驚いてしまいました。理工学から法学にいたるまでを日本の最高学府で学んだ茂木さんでさえ、こんなものなのかと。私が探しているのは、まさにその先であります。

《以下引用》…今の私たちにできることは、時代の制約をわがこととして引き受けて、ささやかな貧者の知の一灯を点すことであろう。…《引用終わり》

これが結語なのですが、「一灯照隅」(最澄の言葉)を思わせるこの一文には苦笑してしまいました。やはり仏教しかないのかな…

《最初から読む》

最近、神仏をよく拝むようになりました。それで気になるのが、「ふげん」とか「もんじゅ」とか「あたご」という名前の施設が事故を起こしているということ。こんなに有難い名前を頂いているのですから少しは真面目に仕事して欲しいものです。神仏に対する冒涜です!

たとえば「ふきげん」とか「もんじゃ」とすれば、熱くなりすぎないよう焼け過ぎないように気をつけたのではないでしょうか?

「あたふた」とか「あごちゃご」という名前にしたら、運航ルールなど守りそうにないから漁船も敵国の船に遭ったようなよけ方をしたのではないでしょうか?

被害に遭われた方や家族の方にはいささか不謹慎な内容かもしれませんが、とても真面目なコメントなどできない腹立たしい出来事です。

注:「あごちゃご」は方言かもしれません。きちんと揃えなければいけないものを間違えているそそっかしい様子のことです。

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