トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

《以下引用(p213)》
…この場合、無は形(色身)について言われている。形が無くなれば、そこが直ちに虚無であるとは限らない。たとえそうであっても修道を経ていないあなたが知る由もない。次に、もしあなたが本当に後天から先天虚無の一炁に帰ることができたなら、さらに生を受けることはなかったであろう。あなたは凡から聖ともなり得たはずだ。しかし、実際は後天の炁が織りなすエネルギーの余習(積習之炁 )故に、輪廻する凡夫に甘んじていることから推して知るべきである…。

成道はあなたの本性である虚無に帰ることであったが、ここにとても微妙な問題がある。というのはあなたとあなたの本性は並び立つことはできないということ、つまりあなたが無とならなければ虚無の真源へは辿り着けないという矛盾なのだ。道(タオ)とはあなたが成し遂げる何かではない。むしろあなたが道への障害になっているのだ。それは修道における錬己からもうかがえる。道を達成するのはそれほど難しいことではない、難しいのは錬己だと道家は言う。「私」故に生死(有生有死)を繰り返しているのだから当然と言えば当然であるが、錬己は「私」を鍛えることではない。それは言うならば人の道。錬己は逆にあなたが無(無己)となるプロセス、言い換えれば、如何にして「有私」から「無私」になるかということだ。この無私になることが修道において最も難しいことなのだ。

ところで、有私(有我)と無私(無我)の違いは何に依るかというと、あなたが心を有するか、そうでないかの違いなのだ。有心ならば有私、無心ならば無私。劉一明の存在範疇は基本的には二つに分類される。

〕心すなわち有私……有生有死……有漏身……順造化――凡人の道
¬疑瓦垢覆錣遡技筺帖通祇弧技燹帖通杵蛙函帖諜嫗げ宗宗柔臺の道
《引用終わり》

以前の記事、「無自己実現」に相当する内容かと思います。


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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

《以下引用(p211)》
それでは実際に、真我(真身)を知るにはどうすればよいのかというと、あなたの神炁(心身)を知ればよい。しかし、神炁といっても先天(真)と後天(仮)の違いがあり、道を修し、悟りに至るためには先天の神炁に基づいてなされなければならない。仮を借りて真を修するのが道教(仙道)における修道の基本である。…

具体的に言えば、真身は色身の内側に隠されているのだから(色身中蔵真身)、色身の外に真身を求めるのでも、また色身に捕らわれてもならない。いわば即身成仙(成仏)ということ。つまり道(タオ)の高みに到達するために色身の内側を深く掘り下げ、真身へと辿り着かねばならないのだ(欲上高処先當下)。
《引用終わり》

「蔵」というと如来蔵を思い出します。その真身へ向かうことは本源へ帰ることでもあります。

《以下引用(p212)》
返本還源、即ち本源に還るだけですべてが尽くされる(知得一萬事畢)という思想は、劉一明の宇宙観(造化之道)と分かち難く結びついている。…

造化の道は、虚無→一炁→陰陽→三体→万物と展開してくる。…

…現在われわれはこの道の最果てに来ているが、ここで私たちは迷ってしまったのだ。…そこに示された道標が劉一明の言う逆運の道である。造化の道を逆修して再び虚無の本源(真源)へと帰るということだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

《以下引用(p210)》
道教(仙道)における修道には命(炁)と性(神)を修する有為の道(修命)と無為の道(修性)がある。そして、修命(身)を伴わない悟りは究極の悟道にはなり得ないと言う。たとえ何らかの方法で性、つまり心の空性を悟ったように見えても、不死の命(金剛不死人)に復さない限り、成道には闕ける。それは炁に漏失があるために生死を離れられないからだ(…)。そこで劉一明は無漏の金剛身(真身)となるために有為の道から始めるよう勧める。これは修性(心)に傾きがちな宗教に対する彼の批判ともとれるが、それなら有為の道だけでよいのかというとそうではない。命(炁)を錬るばかりでは(簡単に言えば身体を鍛えるだけでは)成道はおぼつかない。性(神)、つまり心の本性を悟る無為の道がそれに続くのでなければならない。劉一明が成道の学を性命双修した所以である。
《引用終わり》

釈尊も、禅定で挫折し苦行で挫折し、後に悟りに至っています。全くのイコールではないでしょうが、禅定は修性、苦行は修命に近いと思われます。

修命(身)を伴わない修道とは、越三昧耶にも似てますね。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

《以下引用(p207)》
「長生不死の神方」とは親鸞の言葉であるが、その長生不死を求めたのが道教(仙道)の思想家たちであった。いつの時代でも人間は死を恐れ、死によってすべてが失われるがゆえに、永遠の生を求めずにはおれなかったのであろうが、道(タオ)が永遠であるとは、それが生まれることもなければ滅びることもない(不生不滅)という意味において言われる。肉体(色身)がそれにあてはまらないことは明らかであるが、それでも長生不死などと聞くと、どこかで「私」は死ぬことはないのだろうと考えてしまうが(ある意味でそれは正しい)、今ある「私」が不死になると言っているのではない。むしろ「私」ゆえに生滅(生死)を繰り返しているのであり、いつか死ぬであろうと不安に駆られるのも、この「私」から来ているのだ。そこで生死脱離ということが言われることになるが、だからといって生死(肉体)を離れたところに永遠(道)を求めるということではない。生死の問題を解決せずして、生死の外に永遠の生があるというように考えてはならないのだ。
《引用終わり》

空海は「三教指帰」で、道教(当時の日本に広まっている道教ということになると思うが)を、今で言う「極端なダイエットを薦める健康セミナー」のように批判しています。しかし、「道」を上記のように捉えれば、これまで読んできた神秘主義と同じであり、仏教とも同じであると言えそうです

《以下引用(p207)》
人は道の真っ只中にいながら、それに気づいていない。ちょうど水中の魚が水の存在を忘れているようなものだ」と劉一明は言う。道とは、魚にとって水がそうであるように、われわれの生命そのものなのだ。道なくして一瞬たりとも存在できないにもかかわらず、われわれがそれを知らないでいるのは何故であろうか。基本的には先天(真)から後天(仮)へと退転したわれわれが真仮を弁えず、あらゆるものの本源である道を仮象の現実(仮境)でもって覆い隠す。荘子の言葉を借りるなら、現実がより大きな夢(大夢)であることを知らず、夢を貪るあまり、その根底にある道を忘れているのだ。
《引用終わり》

「瞑想の心理学」にも出てきた「夢の比喩」です。「道」というのは、これまで見てきた神とか仏とかに近い概念のようです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

《以下引用(p202)》
順造化の場合、あなたは人間であっても基本的には動物と同じ、種の保存にかかわっている。…基本的にあなたは過去から引き継いだ情報(DNA)を未来に伝える単なる伝道者(道具)に過ぎず、あなた自身は同じ生死の円環を巡るばかりで本質的に何も起こっていない。一方、逆造化の場合、あなたは神でもって精炁に働きかけ、後天(仮)から先天(真)へ、生々死々する人間から不生不滅の仙仏へ行き着こうとする。順逆は自然の造化に順じて炁を性的に外へ流すか、逆修によって内へ流すかの違いだ。それが人(凡)となり、また仙(聖)となる別れ道なのだ…。
《引用終わり》

われわれは遺伝子の乗り物に過ぎない…というようなことをドーキンスが言っていたような気がします。

《以下引用(p205)》
…愛の対象を求めて外を駆けずるのではなく、あなたがすでに持っている陰陽のニ炁を再び調和させる。つまりあなたの内側で男性エネルギーと女性エネルギーを統合すると、そこにエネルギーの円環が形成され、炁の漏失を避けることができる。陰は陽に、陽は陰にと分裂していた二つのエネルギーは一つに融け合い、恍惚杳冥の間に一点の生機(一陽)が萌すと(男女の交媾から推し量ればよい)、あなたは自分自身を全く新しい存在(真身)として産むことが可能となる。ナグ・ハマディ文書を参酌すれば、あなたの内側で「男性と女性を一つにして、男性を男性でないように、女性を女性でないようにする」ならば、あなたは自分自身に新たな誕生をもたらすことができる、となろうか。この新しい実存が「宗教的単独者」といわれるものであり、絶対的に独りでありながら、全体を包む不生不滅の「独露全身」(『百字碑註』)なのだ。これが逆造化、すなわち仙仏の道である。いずれの道も陰陽のニ炁を出ないのであるが、炁の流れる方向(外と内)が逆なのだ。

…仙仏となるか、生々死々する人間に甘んじるか、それ程大きな違いがあるわけではない(仙凡路隔只分毫)。だから私はいずれの道を選ぶかはあなた次第であると言ったのであり、あなたの境界がどのようなものであれ、責任を負うのもあなたをおいて他にはないのだ。
《引用終わり》

女から産まれなかった者」が「トマスの福音書」に出てきました。これを説明した文章は、今になって思えば道教による説明のようです。

《以下引用(p206)》
翻って、陰陽分裂があらゆる二元論の根底にある。そこから男女、生死、快苦、悲喜、愛憎等、後天の用事はいつ果てるともなく生じてくる。逆造化によって陰陽のニ炁を統合して、先天虚無の一炁とすることができたら(便陰陽交合帰於一炁)、やがて有漏の身体(色身)から無漏の身体(真身)が現れてくる。無漏の真身となることで、われわれは陰陽(男女)が織りなす自然の造化(生死)を越えてゆくのである。
《引用終わり》

「性こそあらゆる二元性の根源であるから、性を超える時、人はすべての二元葛藤から自由になるのだ。」という文章が「自己認識への道」の中にありました。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

《以下引用(p201)》
では、色身(rupakaya)と真身(dharmakaya)の相違は何に依るのかというと、炁(エネルギー)の流れに依る。ここで中国道教(仙道)の重要な三つの概念(三宝)、精・炁・神についてまとめて説明しておくのが分かりいいだろう。

まず、神は精神(こころ)の機能、炁は生命エネルギーと解しておこう。しかし、神炁といっても先天(真)と後天(仮)の違いがあり、道を修し、悟り(成仙、成仏)に至るには先天の神炁(元神、元炁)に依るのでなければならない。炁について言えば、ひとつは誰もが生まれながらに具えている先天の炁で、陰陽五行を含む先天虚無真一の炁とも言われる。これが仙仏の種子であるのだが、いまだ錬成を経ないと陰陽分裂して後天の炁、つまり性エネルギーと化し、一方、神は道心と人心に分かれ、遂には後天私欲の人心が欲情に走るにおよんで精は外へと流れ始める。従って、精は性中枢が刺激をうけることによって走泄する後天の炁と考えておこう。

炁が動いて精となり、神(こころ)の赴くにまかせるとき、自然の造化に従って新しい生命(色身)が生まれてくるが、おしむらくは永遠不滅ではない。これを順造化の道、あるいは人道という。一方、もし神を以て精を迎え、錬成を加えるならば精は化して炁となる(煉精化炁)。この炁を仙仏の種子としてさらに温養するならば、あなたは死すべきもの(色身)から不死なるもの(真身)に行き着く。これを逆造化の道、あるいは仙(仏)道という。ところが世の人はあげて順造化はよく知っているけれども、逆造化については全く知らない。その結果、人は生老病死、輪廻して息(や)むことがないのだと劉一明は言う。
《引用終わり》

順造化のみの傾向は、現代の方が激しいと思われます。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

トマスの福音書」を読んだ時、仏教もキリスト教も究極は同じだという印象を持ちましたが、道教についても同じことが言えそうです。違いは術語。

《以下引用(p199)》
男女陰陽ニ炁が聚まれば形をなし、散ずればたちまち形は消える。形は炁の離合集散であり、有形有炁のものは成敗生死を免れない。劉一明が形と言えば、一義的には肉体(色身)を指しているが、私たちは形に捕われ、自分自身を肉体と同一視する。この観念が道を誤らせ、あなたをしていつまでも肉体に繋ぎとめる(流浪生死常没苦海永失真道)。その結果、あなたは形あるが故の煩いと果敢なさを繰り返し嘆くことになる。「吾が大患あるゆえんは、吾が身あるがためなり。吾が身なきに及んでは、吾何の患かあらん」。劉一明は老祖を例にとりながら、地上における人間の煩いはすべて肉体(色身)あるがためだという。もし肉体などというものが何の煩いもなかったであろう。しかし、私たちは彼の言葉を短絡的に理解してはならない。なぜなら肉体の内側にあらゆる煩いからかけ離れた誰かがいる。それを彼は真我とも、本来人とも呼ぶ。そればかりではない、道家(タオイスト)の究極の目標である道(タオ)もまた肉体を離れてはないのだ。

道在身、身中又蔵一個人。寤寐行為常作伴。

このようにあなたの内側にもうひとりのあなたがいる。それはあなたが目覚めていようが、眠っていようが常にあなたに寄りそい、喜びのときであれ、悲しみのときであれ、あなたを見つめている目である。だからといってそれは卑小なあなたの殻に閉じ込められるようなものではない。それは宇宙創造の根源にある普遍的な力であり、星辰はこの力に動かされて巡る。何よりもあなたはこの真形(主人公)をしっかりと見とどけなければならないと劉一明は言う。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十章 劉一明」(p197〜220)を読みました。

若き空海は「三教指帰」で道教を批判しています。そして新しい仏教である密教を日本に導入すべく、唐に渡り、持ち帰ったわけです。しかしながら唐では道教が重用され、インドからもたらされた密教は余り広まらないまま日本に伝わり、間もなく仏教は廃れます。その後、中国の思想は道教を中心に発展していったのでしょう。

《以下引用(p197)》
一般に宗教は心(神)を重要視するあまり身(炁)を貶しめる傾向にあり(心身一如を標榜する宗教もあるけれども、全くかみあっていない)、科学はいまだに心(神)を扱いかねている。

道教は、今もよく見かける、そうした宗教や科学の独善的な学問体系とは初めから無縁だったようだ。というのも道教は人間を含む一切のものが神炁の両者によるエネルギーの運動と捉えているからだ。しかし、神炁といっても先天(真)と後天(仮)の違いがあり、私たちは真仮を弁えないで、後天の自己を維持するために多大のエネルギーを注いできたが、意に反して、私たちは絶えず死に晒され、死ぬことを死ぬ程恐れるのは何故か。本来死とは後天の自己を解体して神炁の根源に立ち帰り、先天の自己に行き着くことである。その時、私たちは実在(リアリティ)と一つに融け合い、道(タオ)の人として甦る。道とは私たちが帰趨する生の源泉(gzhi)のことだ。
《引用終わり》

劉一明は、これまで「未生身以前の面目」とか「凡夫の道」と「仙仏の道」という言葉で出てきています。

《以下引用(p198)》
今回取り上げる清代の神秘思想家劉一明(1734〜1826?)は、極めてラジカルな全真教北派の流れをくみ、『参同契』を初め、多くの金丹道の典籍(仙書)に注解をほどこし、自らも晩年に至って『悟道録』などを著している。思えば、カルガリー大学留学中に、たまたま手にしたLin I-ming(劉一明)の著作に中に私が見たものは、すでに紹介した思想家と相通ずるものが多くあったとはいえ、かえってそのことが私には新鮮な驚きであった。充分咀嚼したとは言い難いが、謗りを恐れず書いてみよう。
《引用終わり》

「トマスの福音書」が取り組んだ男女問題(笑)に、重なる内容が有ったようです。この「神秘主義の人間学」に劉一明の章があるために、敢えて「自己認識への道」を読んでいた時に保留にした部分です。

さてさて、楽しみです。

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

今回は、「瞑想のバルド」について。瞑想、大乗起信論で言うところの「止観」が目指す境地だと思います。

《以下引用(p192)》
無意識、集合的無意識、宇宙的無意識と辿る無意識の現象学を『死者の書』はb堊曚離丱襯匹噺討屐死者が辿るバルドについても言えることであるが、それを一様に解説することはもちろん不可能である。各人を形成している個人的、集合的な背景(カルマ)の違いによって現れもまちまちであるからだ。…ただ自分自身を観察し、自分の心を見つめるだけでいいのだ。…無意識に意識の光をあて、自覚にまで昇ってくると無意識は自然に消えるからだ。それは丁度、夢を自覚すれば夢が消えるようなものだ。

しかし何もしないで自分自身を観察するのは簡単なようで実際はそうではない。なぜなら自我は絶えず何かをしたがるからだ(何もしなければ眠ってしまう)。そしてたとえ行為は伴わなくとも、内側で思考(感情)は動き続けるだろう。それをいいとか悪いとか一切判断を加えずに見るのだ。そうすると思考はしだいに消える。

さらに記憶はどうであろうか。心はあなたのすべての過去、即ち今生に限らず過去生における喜びと悲しみの経験をひとつ残らず記録している。その記憶が呼び覚されることがあるかも知れない。…記憶は忘れられることはあっても失われてしまうことはないからだ。そしてそれに伴う心理的、肉体的な傷があなたを苦しめ、また性的な幻想に悩まされようとも、一切かかわらず見ていればそれもまた消える。たとえ過去生を知ったとしてもそれでどうということはない。事情は同じなのだ。この無意識を越えると事はさらに複雑になってゆく。
《引用終わり》

つまり、無意識から集合的無意識へと…

《以下引用(p193)》
実際刃向かう敵がいるはずもないのに自分を取り巻くあらゆるものが敵愾心をあらわにし襲いかかろうとする。苦痛が責めさいなむ恐怖はいつ果てるともなく続くように思われる。しかしこれは怒り、冷酷、憎悪、嫉妬……など歪んだ感情を取り込んだあなたの心が投影した幻覚なのだ。従ってそれと戦ったり逃げだそうとしても何の解決策にもならない。むしろそれが自分自身の内側から生まれてくる幻覚であると知れば、それはおのずと消える。と、あなたはほのかな光に包まれ、見るもの聞くものすべてが調和し、この上もない美に魅せられる。聖なる恍惚があなたを充たし、愛は限りないように思える。あなたは神を知ったと思うかも知れないが、それもまたあなたの心が投影したものなのだ。…だからといって何のリアリティもないというのではない。それどころかそれを見ている者にはまさにそれが現実なのだ。

そこで見るものは文化、習俗(あえて宗教とは言わない)の違いからまちまちで、『死者の書』が描くような怒りと柔和の神々が現れてくるというのでもない。しかし集合的無意識の領域にはある共通する類型的なイメージや象徴を見てとることはできる。一例として挙げれば、キリスト教世界では神はイエスとして現れてくるかも知れない。しかし神を見るということが実際はあなた自身が投影した幻影を見ていることがある、この点に注意しなければならないのだ。この事実が時に神の裁きなどと結びつくと、人を脅したり、希望を約束したりと宗教は最も質(たち)の悪い独善となる。いずれにせよさらに超越が必要なのだ。
《引用終わり》

さらに集合的無意識から宇宙的無意識へと…

《以下引用(p194)》
あれやこれやの悲しみではない。人類の全歴史を通して流された悲しみの涙でもない。「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」というとき、それは集合的無意識から得た感慨である。それらを含む全宇宙が救いようもなく失われているという根源的な悲しみ。人間の感情や同情など一切入る余地のない絶望的な嘆き。それにもかかわらず決して終ることのない宇宙的遊戯(リーラ)の不可解。果たしてこれ程までの孤愁を身を持して堪えている人がいるかどうか私は知らないが、それさえも消え、すべての感情や思考が収まると、あなたは微動だにしない広漠たる空間にひとり佇む。そしてあなたの意識は何もない虚空に溶け合い、すべての束縛から解き放たれたような自由がそこにはある。しかし、それとともに自我の輪郭は曖昧になり、あなたは無の深淵に臨んで、恐怖の余り、もと来た現実へと引き返そうとするだろうが、それはサンサーラの世界へ舞い戻ることを意味している。そして、今体験した自由と宇宙との合一を空性の体験と称して、原初あるいは心の本性に到達したと考えるかも知れないが、そうではない。誤解があっては困るが、心の本源に到達したまでのこと。心の本源(kun-gzhi)は生死が兆す根本であり、万物が生々流転する宇宙的無意識の深淵なのである。
《引用終わり》

そしてニルヴァーナへと…

《以下引用(p195)》
ゾクチェンは心の本源をも越え、空性のダルマ・カーヤを自己の本性と見てとれない限り(不覚)、あなたにとってそのダルマ・カーヤが幸・不幸、愛憎、生死、輪廻と涅槃……など、あらゆる二元性を生み出す宇宙的無意識(kun-gzhi)になるという。従ってそこから退いてはならないのだ。あなたは宇宙的無意識の中へと消え去らねばならない。そこにとどまって自らの死と対峙すべきときなのだ。これが死の練習の意味である。無の中に自らを解き放つことは間違いなくあなたの死となるからだ。もちろんあなたはこのカタストロフィーに怖れ戦くだろうが、それに身も心も委ねることができたら、やがて闇から光へ、あなたは宇宙意識へと目覚めるだろう。この覚醒(ye-shes)が仏性(神性)の目覚めであり、ニルヴァーナなのだ。しかし事実は、あなたが消え去れば心の本源でもある宇宙的無意識も消えるから(無心)、そこにはもはや輪廻とか涅槃という概念すらない。無明(ma-rig-pa)はここに尽き、明知(rig-pa)が輝くだろう。これをエンライトメント(光明)の体験と呼ぶ。あなたはひとりの覚者、ダルマ・カーヤ(真理の身体)へと辿り着いたのだ。
《引用終わり》

生物学的に死んではいませんから、即身成仏ですね。

《以下引用(p196)》
…宗教的真理(悟り:エンライトメント)の体験はある意味では体験ではない。そこに体験するあなたはいないからだ。たとえ神秘的なビジョンを見たとしても、それが神であっても、また宇宙との一体感を味わったとしても、そこにあなたがいる限り、それは宗教的真理の体験とは言わないのだ。それに対してあなたが消え去るとき宇宙も真にあるがままの姿を現す。あなたが悟ればあなたは宇宙の本質をも悟るということだ。その意味は、あなたが仏性に目覚めるときあなたを取り巻くすべてのものがすでに仏性を得ている。換言すれば、あなたを含むすべてのものが仏(神)であると知るのだ。ひとり仏(神)だけが存在している。あなたなど一度として存在したためしはない。すべては終りなき絶対者の遊戯(リーラ)なのだ。
《引用終わり》

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第九章 ロンチェンパ」(p175〜196)を読みました。

今回は、「再生のバルド」と言われるシパ・バルドについて。

《以下引用(p184)》
Ε轡僉Ε丱襯匹郎得犬離丱襯匹箸い錣譴襪茲Δ法△修譴能わりというのではなく、再び〆生のバルドへと生まれてくるプロセスなのだ。終りは初めへと続く果てしない旅というわけだ。ここではカルマによる幻覚に逃げまどい死ぬほどの恐怖を味わうことはあっても、空それ自体が姿をとって現れたあなた(意成身)が死ぬことは決してない。むしろこの混乱した状況の本質、即ちあなたの投影である幻影とあなたの双方が本来何の実体もない空であると悟るべきなのだ。これが迷悟の分岐点となる。しかしそれが叶わないときあなたは輪廻を終えることができず、再生のための子宮へと逃れゆく。
《引用終わり》

再生というと聞こえがいいですが、要は「ふりだしに戻る」なんですね。

《以下引用(p185)》
するとそこに男女が交歓している幻想が現れてくる。再生の機会は無数にあり、殆どの人の場合それは無選択のうちに起こる。この苦しさから逃れられるのならどこに生まれようともかまわないとするあなたの絶望的な願いと、男女の欲望が内外和合して初めてあなたは新しい生命として再生してくるが、この生命が本質的に新しくもないことは説明を要しないであろう。われわれはこれまで一度として産むものと生まれるものの関係を問うてこなかった。というか何故か曖昧にしてきた。私もまたこれ以上は口をつぐむが、一つのヒントにはなるだろう。ただ、いわゆる生が真理(ダルマ・カーヤ)を悟り得なかったあなたの馴れの姿だとは言っておこう。

そしてここにもうひとつ、性的な幻想にひかれてゆくあなたにエディプス・コンプレックスを思わせる愛憎の萌芽を見てとることができる。「もしあなたが男性として生まれるときは女性に愛着をもち、男性に敵意をいだくであろう。逆に女性として生まれるときは男性に愛着をもち、女性に敵意をいだくであろう」。いずれにせよその歓喜(サハジャ)の中であなたは無意識になる。

翻ってこの地上が愛憎うずまく世界であることを誰が否定し得よう。しかも人間の無意識の裡に埋め込まれた情念が愛憎であったと知れば、その根の深さも頷けようというもの。どんな人間も愛の道具であり、また犠牲者なのだ(生死本源の形は男女和合の一念、流浪三界の相は愛染妄境の迷情なり)。かくしてあなたは子宮を隠れみのに再生への第一歩を踏み出すことになる。同じ生のパターンを繰り返すために……。
《引用終わり》

「なるほど」という内容だったので、ほとんど全部引用してしまいました。「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く…」というフレーズや理趣経が想い起され、空海を思わずにはいられない内容です。最後の空海の章が楽しみです。

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