トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:生きる意味

ブログネタ
人、生きる意味 パート2 に参加中!
先日書きました。「生きる意味なんて無いかもしれない。でも、あると思った方がいいんじゃないか。」

「意味」が見つからなければ、自分で作ればいいのだと思う。「意味」があれば「絶望」しないで済むかもしれない。「絶望」が単なる「苦悩」で終わるかもしれない。…と、「絶望の方程式」は言っている。

しかしながら…

科学が浸透して、みんなが自分を客観的に見つめるようになった。だからかな?

産業革命〜IT革命等々で生活が激変して、今まで考え方が通用しなくなった。だからかな?

宇宙にポツンと浮かぶ青い地球を見て、家だとか、町だとか、国だとか、社会的しがらみが陳腐なものに感じた。だからかな?

今は「意味」が、なかなか決められない。

「お前は長男なんだから、早く大きくなって、いっぱい稼いで、家を支えていかなくちゃダメだぞ」な〜んて、昔は言われたんじゃないだろうか?私は言われなかったけど。でも、そういう空気は私の世代でも、まだ何となく感じてました。

例えば、「リボンの騎士」とか「ベルサイユのばら」とか(こんな例しか、なぜか思い浮かびませんが)、運命に翻弄される人生。「意味」が向こうからやってきて、縛り付けてしまう。自由の無い人生は「苦悩」続きでしょうけど、「意味」があるから「絶望」はしないのかもしれない。

こんな束縛からの解放が、現代までの世界のテーマだったのかもしれない。でも、解放された我々は、束縛してくれる「意味」を探しあぐねている…

ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#74」(6月9日放送分)を見ました。障害学の福島智先生でした。前回の先生と同じく爆笑問題を見たことも聞いたこともない先生。但し、今回は少し事情が違います。目が見えず、耳が聞こえない、しかし東大教授。

障害を持っている人がずば抜けた才能を示すことがあると先日書きました。読字障害だったと言われる天才たちの他にも、最近話題になったのは盲目のピアニスト辻井伸行さん。番組中ではホーキングやスティービー・ワンダーを例に挙げて、太田さんが問いかけます。「障害って何なんだ?障害って本当に恵まれないことなのか?」

福島先生の回答もわかりやすかった。指点字を考案して、大学に通うまでになり、社会から注目を浴びた時、福島先生の一番の悩みは「アパートが見つからないことだった。」

障害者のことを英語ではハンディキャップという言葉で表しますが、肉体的障害がハンデなのではなくて、社会的バリアが真のハンデなんですね…

障害者なればこそ、「生きる意味」とか「幸せとは?」という疑問は切実に迫ってくるでしょう。でも、「バリアフリー実現の意義」という問題はそれぞれ別個に議論すべきである、と先生はおっしゃっていました。

「不謹慎ではあるけれど」という前置きで、太田さんが言ったこと。「飢えに苦しむ子どもが僅かな食事にありついた時の幸福感の方が、義務のように食事をしている我々よりも大きいだろう。そうなると、どっちが幸せか分からなくなる。」という指摘も私好み。

幸せはともかく「苦悩には意味があると思うことにしている」と先生。そこで話されたのが、フランクルの「絶望の方程式」。フランクルの「夜と霧」は有名ですが、私は読んだことがありません。先日紹介したのは「幸せの方程式」でしたが、今日は「絶望の方程式」です

・絶望=苦悩−意味

「苦悩の中で意味を失うことが絶望」

・絶望+意味=苦悩

「絶望も意味を見つければ苦悩に変わる」

「生きる意味」についても、障害者という立場を離れて一般論として、「生きる意味なんて無いかもしれない。でも、あると思った方がいいんじゃないか。」というようなことをおっしゃったと思います。

私も「そんなところかな…」と思ってます。かなり、私好みの内容でした。

《つづく》

ブログネタ
死なない理由 に参加中!
こんな私でもたまには部屋の掃除をします。忙しくない時には「できれば毎日したい!」と思います。

でも忙しくなると、「一日おきにしてもそんなに変わりはないし、手間は半分になるわけだから2倍の効率化になるんじゃないか?」と思い始めます。

「一日おきでも結構きれいなもんだな…二日おきにして効率を3倍にするか!」と思いつきます。

あとは想像に難くないと思いますが、間隔がしだいに空いて、「最後に掃除したのはいつだっけ?」という状態。そしてどんどん汚くなって、ふりだしに戻る…この繰り返しです。

「明日掃除をするのなら、今日掃除をするのは無駄」という考え方をしていたら、掃除なんてする気になりませんね。

最近、掃除をしながら思うのです。部屋がきれいであることは重要ではないのではないか?と。重要なのは部屋をきれいにしようとすること、そうしようとする心を持ち続けること、そういう行為を続けること。部屋がきれいであることはそれに付随してたまたま起こる結果であり、二次的な現象ではないのか?少なくともこういう考え方もアリじゃないだろうか?

現代人の捉え方は、あたりまえな話ですが、掃除は部屋をきれいにすることが主目的です。明日きれいにするのなら今日きれいにすることは無駄。今日掃除をしたあとに汚くなるのなら今日の掃除はしても無駄。つまり、意味が無い。

さて、生きる意味です。人生についても現代人は同じスタンスで測ろうとしていませんかね。人生の目的として、何かを作ることとか、有形無形を問わず何かを設定して、それを達成できたとき自分の人生に意味があったと評価する。

でも違うんじゃないだろうか。自分らしく生きようとすること、それだけなんじゃないだろうか?息が途絶えるまで夢中で自分らしくいられたら、何も目標達成できなくてもいいんじゃないだろうか?

生きるとは、「何(what)をしたか?」ではなくて、「いかに(how)生きたか?」ではないだろうか。うまく言い表せないのだけれど…

えんえんと砂の山を築くこと。それで自分らしさを発現し、かすかな喜びを感じることができればいい。せっかく積み上げた楼閣が波に消え去ろうとも、積み上げることに喜びを感じたのであれば無駄ではなかったはず。また、ゼロから積み上げればいい。

息絶えたとき、砂の山が高いからいいとか低いからダメとか言うものではない。高さには意味がないはず。だって、みんな違う高さに生まれ落ちて、スタートしてるんだから。

《最初から読む》

ブログネタ
●ブッダ倶楽部(☆ハロー ブッダ ステーション)● に参加中!
第五章「成仏論」の第一節「序説」と第二節「成仏への道」を読みました。

自己が自己に対して抱く矛盾による悩みは、人間として逃れられない宿命なのでしょう。その苦しみから這い上がろうとする気持ちが宗教的回心(発心)へとつながれば良い。

肉体的存在(因果に支配される自然的存在)と精神的存在(自由を求め因果の束縛から脱却しようとする価値的存在)という自己の中にある矛盾。そこでどんどん落ち込んでいくのではなく、そこを出発点として立ち上がるところに意味がある。それが言わば、人として「生きる意味」なのでしょう。

仏教では、発心あるいは発菩提心と呼びます。龍樹によれば菩提心は3つに分類されます。1は勝義心。一切の哲学や宗教の価値を批判し、智的に真の宗教思想を見出す心。自利のレベルです。2は行願心。一切衆生を我が身のように見て、普く救済しようという心。利他のレベル。3は密教独自のもので三摩地心。凡夫即仏の立場で実の如く自心を知るということ。

高校の倫理社会とか哲学は(難解なれど)面白かったのですが、勝義心のレベルで終わっているように思います。知情意として分類するなら知だけであり、自分だけが理解し高まればいいという感じがする。もちろん、深く勉強すれば更に深い境地はあるのかもしれないけれど。

真言密教にあっては、最初から智だけではダメで、実践が伴わなければダメ!ということが最初から声高に書いてある。智(頭デッカチ)は低いレベルに分類されます。そこが哲学と根本的に違うような気がしています。

《つづく》

ブログネタ
死なない理由 に参加中!
私たちに与えられているのは、限られた波長の光しか感じない目と、これまた限られた周波数の音しか感じない耳。犬より格段に劣る嗅覚。ちっぽけな脳細胞がいろんな機械を発明して、もともとの能力以上のことができるようになっているけど、全知全能には程遠い。

宇宙というのは複雑多岐。何次元かわからない。3次元空間に時間を足して4次元まで、我々はかろうじて認識できることになっている。だから、それ以上の次元はわからない。

認識能力を超えた次元を見ようとすると、どういうことになるか。これには影絵の喩えがよく使われる。影絵は3次元の物を2次元のスクリーンで捉えるもの。つまり、2次元しか認識できない目で3次元の物を見ること。

角度を変えれば、いろんな形になる。こういうことは大宇宙なんて大風呂敷を広げなくても、日常的に体験できることなんじゃないだろうか。身近な出来事、身近な人、見方を変えると全然違ったものに見える。

たとえば、目の前にいる私の奥さん。一人の人間は60兆を超える細胞でできているとのこと。そして、1個の細胞を構成している原子の数は…と考えたら、これは立派な小宇宙。こういった構成要素それぞれの都合を総合して、一人の人間が動いている。ずっと一緒にいても謎が尽きない。

そんな謎めいた奥さんと、謎めいた私と、その謎を引き継いだ娘たちが影響を与えあっている。我が家の中を見ただけでも何次元かわからない多次元の宇宙。

つゆと落ち つゆと消えにしわが身かな なにわのことも夢のまた夢…

生まれるとは、何か大きな全体からポツンと一滴、しずくが落ちるようなものじゃないかと思う。葉っぱの上を転がるしずくのように、表面張力をもって、なにわの中をコロコロ転がる。

限られた窓からしか他を見ることはできないし、聞くこともできないし、嗅ぐこともできない。そんな窮屈な表面張力が用意されているのは、何か意図があるのではないか?と思う。

見えないようにできているんだから、見えるところだけ精一杯に見ればいいと思う。聞こえないようにできているんだから、聞こえるところだけ精一杯に聞けばいいと。嗅げないようにできているんだから、嗅げるところだけ精一杯に。そして、生きているんだから…

生きる意味がわからない?死なない理由がわからない?じゃあ、死ぬ意味って何なんだ?わかるのかい?

《つづく》

↑このページのトップヘ