トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:無明

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十無記…ブッダが回答しなかったこと。

いずれも科学的には証明できない、将来的にもできそうもない事柄です。それらにコメントしなかったということは、仏陀は科学的センスをも備えていたと言えます。

儒教も「怪力乱神を語らず」と言い、孔子も分からないことは分からないとはっきり言う人だったようです。

西洋文明が科学的センスを身につけたのがカントの辺りだったとすると、随分時間の隔たりを感じます。一様に比較はできないでしょうけれども…。

科学が当たり前になった今日、私たちはこういった問題の答えを宗教に求めがちですが、少なくとも仏教では取り扱っていないのです。

逆に言うと、こういった問題を専ら取り扱っているような宗教とか団体とかお店とかは、怪しいと考えるべきです。

さて、日常の些細なことでも、証明できないことってあります。散らかしっぱなしにしたのは誰か、みんなが使うものをどこかに置きっぱなしにしたのは誰か、相手を傷つけるような言葉を最初に使ったのはどっちだったか…

こんなことをするのはいつもアナタだ!という先入観も手伝って、防犯カメラや録音も無いとなれば、この機会にいつもの不満をぶちまけてやろう!と思うことがあります。

こっちは証明できないから付け込んでいるわけですが、相手からも付け込まれかねない弱点でもあります。だから、ついつい、語勢で押し切ろうとする…。

向きになってしまう。

無記とすべきことほど、言いたい放題だから、つい向きになって強く言ってしまいがち。これも無明スパイラルの一端のような気がします。

向きにならずに、無記でいきましょう!
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濁点(煩悩)は後で書く(生じる)もの…

如来蔵を読んでいて漠然と浮かんだイメージなのですが、光(如来)そのものであるはずの我々に生じる無明(煩悩)とは相対的なものだと考えてはどうか?相対論の入門編みたいな話になりますが…。

スピードを出して前の車を追い抜けば、その車はあたかも後ろに進んでいるように見えます。相対的に速いものから見れば、遅いものは全く逆向きのベクトルで進んでいるように見える。でも、実際はどちらも同じ向きのベクトルなのです。

無明と言いますが、闇とは言わないのです。明るく無いだけなのです。光が完全に閉ざされているわけではないのです。明るいものと比べれば、それより明るく無いものは暗く見えます。全然光っていないようにさえ見えます。でも、実際はどちらも光っているのです。

「た」の右上が薄暗くなっていて、濁点が付いているように見える状態…。

全き善なる者からみれば、善の足りない者は悪魔のようにさえ見えるかもしれない。でも、善の足りない者も悪を指向しているわけではなくて、善を指向しているのかもしれない。

しかし、そんな小さな差異が大きな煩悩につながるとは考えにくいし、そんな小さな差異でしかないのなら修行して取り除く必要などないではないか?というのが、如来蔵に対する反論でした。

これに対する説明にはカオス理論を用いてはどうでしょうか?1匹の蝶の羽ばたきが、世界の気象にまで影響を及ぼし得るというやつです。定量化できるパラメータ間に全て因果関係が働くという前提の下でさえ、このような理論が成り立つのです。無明とか煩悩とか定量化できないものに関してはなおさら何が起こってもおかしくはありません。

デフレスパイラルと言った方が今日的でしょうか。「風が吹かないので桶屋どころか誰も儲からない」と言えばいいでしょうか。

無明スパイラルの渦が大きな煩悩を生み、より大きな妄念を創り上げていく。そのきっかけは、消えかけたような微かな濁点。

しかし、このスパイラル(悪循環)が心の中に生じないようにするためには、修行を重ねなければならないのです。
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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第一章「顕示正義」の第二門「心消滅」のD「さとりの力としての心の真実のあり方―仏」まで読みました。

Q&Aの形で説明されている内容が気に入ったので、まとめてみます。

一切の現象は本来、ただ心の現わし出すもののみ(唯心)である。その一切の現象を現わし出す心のはたらき(念)さえ真実には存在しないけれども、衆生のひとりひとりに虚妄な心作用(妄心)としてはたらいている。

衆生は心の真実のあり方をさとらない(不覚)ので、心の動きを起こし(起念)、対象を仮構して、それを実在と見る。それゆえ、この心の動きを起こす根元を根元的無知(無明)と名づける。

《つづく》
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「意識の形而上学」
第三部「実存意識機能の内的メカニズム」の「16.「熏習」的メカニズム」と「17.倫理学的結語」を読みました。
表紙にも模式図が描かれている「熏習」。強烈な匂いを発する物体のそばに、別の物体を置いたままにしておくと、いつのまにかその匂いが染み込んでしまう(移り香)現象のイメージだそうです。

《以下引用》…いま仮に、aが強勢、bが弱勢としよう。両者の相互関係性において、当然、aは積極的にbに働きかける。つまり、強い方からエネルギーが弱い方に向って流れていく。そしてその結果、bの内部にひそかな変質が現われ始め、bの性質は次第次第にaの性質に近付いていく。このような現象が起るとき、それを「熏習」と呼ぶのだ。《引用終わり》

起信論では、 熏習の関係2項(aとb)を、真如(覚)と無明(不覚)に限定しています。また、b→aという逆熏習(反熏習)も熏習構造の本質的な一側面として認めています。さらに熏習する側(能熏)と熏習される側(所熏)のダイナミックな相互交替性も認めています。

熏習の基本的な型として、「染法熏習」(無明→真如)と「浄法熏習」(真如→無明)があります。「染法熏習」は、無明熏習、妄心熏習、妄境界熏習の三段に分けられます。

第一段「無明熏習」
根源的無知(「不覚」)としての「無明」の強力なエネルギーが「真如」に働きかけ作用し、「業識」(「妄心」)を惹き起す。

第二段「妄心熏習」
前段で生じた「妄心」が反作用を起こして「無明」に逆熏習し、「無明」の勢力を増長させ、そのエネルギーが「妄境界」を生み出す。存在が多重多層に分節され、あたかも心外に実在する対象的事物であるかのように妄想される。

第三段「妄境界熏習」
前段で生じた「妄境界」が、今度は反作用で能生の「妄心」に逆熏習し、そのエネルギーを増長させ、人間的主体を限りない「煩悩」の渦巻きにひきずり込み、人生そのものを「我執・法執」(自我への執着・物への執着)の絡み合う陰湿なドラマと化してしまう。

現実が、重々無尽の「業(カルマ)」の実存領域として成立することになりますが、人間的実存のドラマはここで反転し、逆コースを取って向上の道を進む可能性も持っています。それが「浄法熏習」で、「本熏(内熏)」「新熏(外熏)」の二段に分けられる。

第一段「本熏」
全ての人間の「妄心」の中には、常恒不変の「真如」が本覚として内在している。本覚のエネルギーがおのずから「無明」(「妄心」)に働きかけて、「妄心」の浄化が起こる。己が現に生きている生死流転の苦に気づき、それを厭い、一切の実存的苦を超脱した清浄な境地を求め始める。

第二段「新熏」
前段で強烈な厭求心となった「妄心」が「真如」に逆熏習して、人をますます修行に駆り立て、ついに「無明」が完全に消滅するに至る。つまり「始覚」が完了して、完全に「本覚」と合一しきってしまう。

人はいつまでもこの過程を行ったり来たりしているということなのでしょうね…

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