トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:濁点

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濁点(煩悩)は後で書く(生じる)もの…

如来蔵を読んでいて漠然と浮かんだイメージなのですが、光(如来)そのものであるはずの我々に生じる無明(煩悩)とは相対的なものだと考えてはどうか?相対論の入門編みたいな話になりますが…。

スピードを出して前の車を追い抜けば、その車はあたかも後ろに進んでいるように見えます。相対的に速いものから見れば、遅いものは全く逆向きのベクトルで進んでいるように見える。でも、実際はどちらも同じ向きのベクトルなのです。

無明と言いますが、闇とは言わないのです。明るく無いだけなのです。光が完全に閉ざされているわけではないのです。明るいものと比べれば、それより明るく無いものは暗く見えます。全然光っていないようにさえ見えます。でも、実際はどちらも光っているのです。

「た」の右上が薄暗くなっていて、濁点が付いているように見える状態…。

全き善なる者からみれば、善の足りない者は悪魔のようにさえ見えるかもしれない。でも、善の足りない者も悪を指向しているわけではなくて、善を指向しているのかもしれない。

しかし、そんな小さな差異が大きな煩悩につながるとは考えにくいし、そんな小さな差異でしかないのなら修行して取り除く必要などないではないか?というのが、如来蔵に対する反論でした。

これに対する説明にはカオス理論を用いてはどうでしょうか?1匹の蝶の羽ばたきが、世界の気象にまで影響を及ぼし得るというやつです。定量化できるパラメータ間に全て因果関係が働くという前提の下でさえ、このような理論が成り立つのです。無明とか煩悩とか定量化できないものに関してはなおさら何が起こってもおかしくはありません。

デフレスパイラルと言った方が今日的でしょうか。「風が吹かないので桶屋どころか誰も儲からない」と言えばいいでしょうか。

無明スパイラルの渦が大きな煩悩を生み、より大きな妄念を創り上げていく。そのきっかけは、消えかけたような微かな濁点。

しかし、このスパイラル(悪循環)が心の中に生じないようにするためには、修行を重ねなければならないのです。
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ひらがなを覚え始めた頃、次女が「『だ』ってどう書くの?」と聞いてきました。「『た』に点々だよ。」と教えたのですが、次女は点々を書いてから『た』を書きました。

「書き順が違うよ」と注意しましたが、考えてみると、発音するときにはdを発音するかtを発音するかは最初から決めなければいけません。書く場合には、取りあえず『た』を書いておいて、後で『だ』にするという手順になりますから、逆の関係だと言えなくもない。

と、ひとりで納得しましたが、当時4歳にもなっていなかった次女がそこまで考えているはずがない。考えていないことは、すぐに分かりました。なぜなら『た』を書くときに、『だ』を書いてから点々を消しゴムで消していたからです。それも一度だけじゃなくて、二度も三度も…

「どうせ消すんだから、点々書かなくていいでしょう?」と注意しましたが、濁点を後で消すという手順が何とも示唆的で、心に残りました。

先日、濁点の有無で大きく違ってしまう「かん細胞」と「がん細胞」の話を書きました。神の如き「かん細胞」が濁点が付いただけで悪魔の如き「がん細胞」になる。それは紙一重よりも小さな違いのように思いました。

濁点の無い姿を「如来蔵」と捉えれば、塵の如き濁点はまさに煩悩(客塵煩悩)。濁点を消す次女の姿が、己の煩悩を消し去ろうとする修行者と重なりました…

しかし、「点々は書かなくてもいい」という私の言葉に向きになって、ひたすら『だ』を書いてから『た』にする作業を繰り返す反抗心は、さすがに菩提心には程遠い…凡夫の生き様そのものです。
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