「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十五」を読みました。
この章は、泰範という僧について書いてあります。
《以下引用》
泰範は最澄から天台学を最初にまなび、弘仁元年正月、叡山の学頭になった。もっともこの間のことは、最澄が手をとって天台学を泰範に教えたということは、情景としてはなかったに相違ない。さきに入唐した最澄は、国家からあたえられた任務が請益僧であるということもあって、唐の現地で学ぶことをせず、請益の字義どおりただ経典その他のいっさいをもたらすことだけをして帰国した。最澄はそれらの経典類を叡山の上に据え、それらをみずからあらためて読みはじめた。こういう伝来の仕方を最澄は他の場合において「筆授」といったが、いずれにせよ、書かれたことを読むことによって、叡山の天台学は成立した。読むについては、最澄も読み、同時に泰範も読んだ。双方、請来されたぼう大な文字の量を読みつつ、弟子や後進に教えるというかたちが、すくなくとも数年つづいたであろう。その意味では、泰範は厳密な意味では最澄の弟子ではなく、同学の人だったともいえる。
…帰国後、最澄は国政面における天台宗を奈良六宗と同格の存在にするためなどで奔走し、叡山にいる時間がすくなかった。最澄が請来した経典その他は、最澄よりも泰範のほうが読む時間が多かったかもしれず…
《引用終わり》
悪く言えば、最澄は、唐に本を買い付けに行っただけとも言えます。もちろん、優れた目利きではあったでしょうが。
弘仁二年(最澄帰国後6年目)の八月に、泰範は辞任書を最澄に提出しています。それでも最澄は、翌年五月に遺書を公表し、泰範を自分の後継者に指名しています。しかし泰範は、六月に「謹ンデ暇ヲ請フ」という手紙を最澄に送っています。
こんな遣り取りの数ヵ月後に、最澄が空海に懇願して実現した金剛界潅頂が高雄山寺で行われます。最澄一門が揃って参加していますから、当然泰範も最澄に誘われているのですが、泰範は来ませんでした。しかし、その翌月に行われた胎蔵界潅頂には現われました。そして、そのまま高雄山寺、即ち空海の下に残りました。
最澄は弟子の円澄らを空海に託し、泰範も自分が指示したように取り繕いましたが、泰範だけは自発的な行動でした。
《以下引用》
…この時期の泰範の様子をみるに、高雄山寺潅頂以来空海のもとにゆきっきりになって、もはや最澄のもとに帰って来そうにないことが、たれの目にもあきらかになっていた。泰範が空海とその法流に魅せられていることはどうやらたしかなようだが、それにしても最澄とその法流をそこまで好まないというのも、異常なばかりである。たとえば泰範にして密教が好きというなら、天台にも遮那業という密教部門がある。げんに泰範はそれを学ぶために空海のもとに委託生として留学しているのである。叡山にかえっても遮那業に専一できるはずであるのに、そこまで帰ることを拒むというのは、最澄に対する感情であるかともおもえる。それだけに、最澄も、感情的になっていた。
《引用終わり》
泰範あての手紙で、最澄は自分のことを「被棄老」、つまり棄てられた老人と呼んでいます。
最澄と空海の確執については、どちらかと言うと最澄を善玉、空海を悪玉とする傾向があるそうです。しかし、泰範の一件を考慮すると、最澄側にも言い表しにくい「何か」があったような気がします。
《つづく》
「下巻の二十五」を読みました。
この章は、泰範という僧について書いてあります。
《以下引用》
泰範は最澄から天台学を最初にまなび、弘仁元年正月、叡山の学頭になった。もっともこの間のことは、最澄が手をとって天台学を泰範に教えたということは、情景としてはなかったに相違ない。さきに入唐した最澄は、国家からあたえられた任務が請益僧であるということもあって、唐の現地で学ぶことをせず、請益の字義どおりただ経典その他のいっさいをもたらすことだけをして帰国した。最澄はそれらの経典類を叡山の上に据え、それらをみずからあらためて読みはじめた。こういう伝来の仕方を最澄は他の場合において「筆授」といったが、いずれにせよ、書かれたことを読むことによって、叡山の天台学は成立した。読むについては、最澄も読み、同時に泰範も読んだ。双方、請来されたぼう大な文字の量を読みつつ、弟子や後進に教えるというかたちが、すくなくとも数年つづいたであろう。その意味では、泰範は厳密な意味では最澄の弟子ではなく、同学の人だったともいえる。
…帰国後、最澄は国政面における天台宗を奈良六宗と同格の存在にするためなどで奔走し、叡山にいる時間がすくなかった。最澄が請来した経典その他は、最澄よりも泰範のほうが読む時間が多かったかもしれず…
《引用終わり》
悪く言えば、最澄は、唐に本を買い付けに行っただけとも言えます。もちろん、優れた目利きではあったでしょうが。
弘仁二年(最澄帰国後6年目)の八月に、泰範は辞任書を最澄に提出しています。それでも最澄は、翌年五月に遺書を公表し、泰範を自分の後継者に指名しています。しかし泰範は、六月に「謹ンデ暇ヲ請フ」という手紙を最澄に送っています。
こんな遣り取りの数ヵ月後に、最澄が空海に懇願して実現した金剛界潅頂が高雄山寺で行われます。最澄一門が揃って参加していますから、当然泰範も最澄に誘われているのですが、泰範は来ませんでした。しかし、その翌月に行われた胎蔵界潅頂には現われました。そして、そのまま高雄山寺、即ち空海の下に残りました。
最澄は弟子の円澄らを空海に託し、泰範も自分が指示したように取り繕いましたが、泰範だけは自発的な行動でした。
《以下引用》
…この時期の泰範の様子をみるに、高雄山寺潅頂以来空海のもとにゆきっきりになって、もはや最澄のもとに帰って来そうにないことが、たれの目にもあきらかになっていた。泰範が空海とその法流に魅せられていることはどうやらたしかなようだが、それにしても最澄とその法流をそこまで好まないというのも、異常なばかりである。たとえば泰範にして密教が好きというなら、天台にも遮那業という密教部門がある。げんに泰範はそれを学ぶために空海のもとに委託生として留学しているのである。叡山にかえっても遮那業に専一できるはずであるのに、そこまで帰ることを拒むというのは、最澄に対する感情であるかともおもえる。それだけに、最澄も、感情的になっていた。
《引用終わり》
泰範あての手紙で、最澄は自分のことを「被棄老」、つまり棄てられた老人と呼んでいます。
最澄と空海の確執については、どちらかと言うと最澄を善玉、空海を悪玉とする傾向があるそうです。しかし、泰範の一件を考慮すると、最澄側にも言い表しにくい「何か」があったような気がします。
《つづく》