トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:止観

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悟りへの道 に参加中!
「空海の夢」(春秋社)
「14.アルス・マグナ」を読みました。

《以下引用》
われわれの頭の中には知覚と学習とによって入力された情報がわんさとたまっている。これらは価値の序列も時間の序列もあいまいで、まことに頼りない状態でつまっている。

…おおざっぱな貯蔵領野は分かれているものの、…視覚野とか運動野とかアイテムでよばれていることでも察しがつくように、やっと感覚器官との関係、仏教でいえば六識との関係の混乱をふせいでいるだけである。

…われわれに入ってくる第二次的な情報系はそのままではあまり役に立たないということになる。第一次情報系とはヒトが生物史に内属して継承してきた情報系のことをいう。

この第二次的な情報系をすこし正確にストックするにはゆさぶることである。

…第二次的な情報系はこれによって蘇生し、第三次的なノンローカルな序列の中に位置づけられはじめる。

…情報組織はそのうちの適当な第三次的な情報系を選びながらこれを圧縮しはじめ(情報圧縮)、しだいに自己組織化をはたすというプロセスになる。これがふだんは漠然と認識世界だとか思考世界だとかとおもいこまれている当の正体である。

しかし当の正体とはいっても、これはちょうどテレビのチャンネルを次々に早く切り換えてみたときに見える映像のようなもので、常時フラッシュのごとき断面像をみせる“頭出し”の部分にすぎない。自分の認識世界であるというのに、これをゆっくり眺めるには、どこかのチャンネルを限定してつけっぱなしにし、切り換えの能力をあえていったん休止させなければならない。おそらく「止観」とはこのことであったろう。

《引用終わり》

「止観」の大脳生理学的解釈と言えるでしょうか。詳しくは本書をご覧ください。さらに、後の章でまとめるようですけど。

《以下引用》
…直観が場面集であるとするなら、方法は回路群だ。これが私の考える編集方法というものにあたっていることについてはすでにのべた。これは空海にとっては、鄭玄や淡海三船や大伴家持の編集方法にヒントをえて、さらには般若三蔵恵果からも示唆をえて、すでに半ばの設計がおわっていたはずの回路群である。問題はいよいよ、こうして準備のおわっている「直観」と「方法」とをいかに丹念に糾合させるかということだった。

槇尾山寺の日々、空海は直観と方法をあれこれ糾合させつつ、たったひとつの目標のために全力を傾注していた。それはまったく新しい密教世界をどうしたら創出できるかということである。

このとき空海がインテグレーションを進行させるにあたって最もこころがけたことは、「思考の内容を感情の内容とすること」(シュタイナー)であったかとおもう。新密教創出の当の担い手に分離や分断がおこってはならなかった。そのうえで、至高の存在にみずから導かれているのだという確固たる信念にしたがって歩みはじめた。右脳に直観、左脳に方法をもって…。
《引用終わり》

富士通にもホストコンピュータの膨大な回路をほとんど一人で設計したという伝説の天才がいました。どんなに膨大な体系でも、まとまったものを組み上げるのは、一人の天才の手に任せた方が良さそうです。

《つづく》

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哲学 に参加中!
複素数みたいなもの…全然数学的な意味ではなく、飽くまでもイメージなんですが…私たちの頭の中には現実(real)の座標軸と想像上(imaginary)の座標軸があるな、と突然思いました。

実数成分(real part)とは例えば、駅まで何分で電車が何時だから、間に合うとか間に合わないとか。あの品物が幾らで手持ちが幾らだから買えるとか買えないとか。現実的な判断。俗なことと敢えて言いたい。

虚数成分(imaginary part)とは例えば、「人間一人の命は地球より重い」というようなこと。地球の上には人間だけでも60億くらい(?)いるわけですから、realの座標軸では到底ソロバンが合いません。そういうトンデモ判断を可能にする。

でも、夢とか希望とか幸福とか、これは虚数軸だと思うんです。汚い紙に書いた落書きでも、娘が最初に書いたひらがなならば、親にとっては大変な価値のあるものです。高価なステーキも、いっぱいのかけそばにはかなわない時もある。鑑定団では全然値段がつかない物でも、大切な人の形見ならば何よりも大切な物になる。誰からも憎まれるような悪党でも、その人を我が身に代えても守りたいと思う人がいたりする。…

実数軸で計ったら、にっちもさっちも行かなくて、つらいことばかりの憂き世なのです。でも、そこで夢を抱いて、希望を持ち続けて、やがて幸福を感じたりできるのは、虚数軸があるからだと思います。

もちろん虚数軸にも負の方向性は有って、良いことばかりではありません。どうでもいいことに執着して執拗に復讐を繰り返す犯罪者の心理も、実数軸では理解できないものです。

が、ここでは正の方向性に着目して、聖なるものはここに含まれるだろうと指摘しておきます。そこに、逆境の中でも笑顔でいられる可能性があると。

さて、先日までの内容とリンクさせますと…

お金というか、物の値段というのは、基本的には実数軸だけの概念だと思うのです。現実世界での物々交換を円滑に進めるために発明した極めて俗なもの。でも、そこに虚数軸が関与してくると、どんな値が付くかは全然予想できなくなる。例えば、有名選手が着用したボロボロのユニホーム。その選手が好きか嫌いかで0円〜無限大まで値段の幅は広がります。

刑罰の量刑もそうですね。基本的には実数軸だけの概念です。犯罪の再発を防ぐため犯罪者にはそれに見合った刑罰を与えて、言わば見せしめとするわけです。これは治安維持という極めて俗っぽい事情によるものです。でも、そこに虚数軸が関与してくると、被害者は私のかけがえのない人というような要素が入ってきたり、逆に被害者は少し痛い目に遭った方がいい人だったんだという要素が入ってきたりで、無罪〜死刑まで幅は広がります。

聖なる存在は、虚数軸だけの概念だと思います。だから、値段付けをしたりはしないし、賭博場にも通わない(もちろん、賭博場で人々を静かに見つめるということはあるかもしれないけど)。法廷にも立たない。犯罪ごときでとやかく言わない(もちろん、悪いことをしていいというわけではないけれど)。

まあ、これは私の勝手なイメージなんですけどね。我々は実際のところ、虚軸と実軸を常に行ったり来たりしながら(正に虚々実々の駆け引き?)生きていますから、実と虚をこんなふうに区別したところで何の整理にもならないかもしれませんが。

ただ、実→虚とか、虚→実という変換の過程で1+1=(無限大)みたいなトンデモ判断が起こり得るということは意識した方がいいんじゃないかなということです。

虚軸の関与を、私たちは主観的とか感情的とか言って排除しますが、これが悪い作用ばかりではない。真っ暗闇の中で光を見ることができる術でもあるのですから。虚軸の過剰な排除が、私たちから夢や希望を失わせたのではないか?ストレス社会を生み出しているんじゃないか?と思うのです。

仏教的には実→虚が禅定(止)で、虚→実が正観とかだったりするかもしれません。少なくとも止観双修が虚軸とうまく付き合うためのトレーニングになることは間違いないです。

《最初から読む》

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心の向き に参加中!
大乗起信論(岩波文庫版)
第四段「信心の修行(修行信心分)」まで読みました。五門の中の止観門の方法について、以下、自分なりにまとめてみます。

止(心の安定)の方法
・静かなところで、正しい姿勢で坐り(結跏趺坐)、心を正す。
・一切の見たり、聞いたり、感じたり、認識したりするところに気をとめてはならない。
・あらゆる想いが生ずるごと(随念)に除き去り、除き去っているのだと想うこと(除想)も捨てる。
・「一切の現象は心のみであって、外界の対象は存在しない。そして、そのように思う心自体もまた、固有の相ではなく、刹那ごとに生滅し、知覚できない」と知る。
・坐禅していないときでもこれを心がけて習熟すると、真如三昧(真実のあり方をのみひたすら念ずる禅定)に入ることができるようになる。
・真如三昧に入ると法界一相(諸々の現象の根元は全て同一の相)をさとり、法身(一切諸仏の本性)と衆生の身とは根元において平等・不二であること(一行三昧)を知る。
・真如三昧は、あらゆる三昧の根本である。

以上の禅定だけでは、心が沈んだり怠惰になったりして、他者のために尽くそうという大悲から遠ざかるおそれがあるので、これを避けるために正観の修習が必要である。

正観の修習
1.法相観
すべての諸現象はその状態を持続することができず、たちまち変化して壊れる。一切の心のはたらきも刹那ごとに生滅する。ゆえに、それらの現象はすべて苦である。…と観ずる。

2.大悲観
一切衆生は無始よりこのかた根元的無知のはたらきに浸透されているので、今生においても未来世においてもその苦は限りなく、それを取り除くことは難しい。そしてそれに気づいていないとは何と憐れむべきか…と観ずる。

3.大願観
願わくは、わが心をして、主客・自他等の分別を離れ、一切の善行・徳行を実践し、十方世界へそして未来へあらゆる方便をつくして、すべての苦悩する衆生を救済し、涅槃の安楽を得させたい…と観ずる。

4.精進観
大願を立て、いついかなる処でもあらゆる善行をできる限り修習し、決して怠らない。

止観双修
禅定(止)を修習すれば、凡夫のもつ世間に対する執着を克服できる。正観を修習すれば、大悲心を起こさないという狭い了見を克服し、善根を修習しないという心も遠ざけることができる。共に具えていなければ、さとりへの道に入ることはできない。


《つづく》

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生き方を考える に参加中!
大乗起信論(岩波文庫版)
第四段「信心の修行(修行信心分)」まで読みました。以下、自分なりにまとめてみます。

信心には4種ある。

1.根本を信ずること(信根本)
心の真実のあり方(真如)を願い求める(楽念)。

2.仏は無量の徳性を具えていると信ずること
常に仏を思い、近づき、供養し、恭敬しつつ、善根を起こし、仏と同じ一切智を得たいと祈願する。

3.仏の教え(法)には大いなる利益があると信ずること
常に法を思い浮かべ、諸種の究極完全な行を実践する。

4.僧はよく自利の行、利他の行を実践するものであると信ずること
常に願って菩薩たちに親近し、如実の行を学ぶべく努める。(僧に対する戒め?)

修行には五門ある。その五門を通じて、信心を完成させる。

1.布施門(施門)
・財物を乞い求める人には、慳貪(ケチな心)を捨てて、自分の力の許す限り、分け与えなさい(財施)。
・災難に遭い恐怖する人、危険が迫っている人には、自分の力の許す限り、悩みと恐れを取り除いてあげなさい(無畏施)。
・教えを乞う人には、自分が理解しているのに応じて、教え(法)を説いてあげなさい(法施)。
・決して自己の名誉・利益、相手からの恭敬を求めてはならない。ひたすら自己と他者のために役立つことを念じ、その功徳をさとりに向け直す(廻向菩提)。

2.持戒門(戒門)
表現は若干違うのですが、十善戒を守る!ということでいいと思います。
十善戒とは…不殺生不偸盗不邪淫不妄語不綺語不悪口不両舌不慳貪不瞋恚不邪見

3.忍耐門(忍門)
他人から悩まされた場合、それに耐えて、決して報復を考えてはならない。利益と損害、不名誉と名誉、称賛と誹謗、苦と楽など、いかなる世間的評価にも煩わされず耐えること。

4.精進門(進門)
善事を成すに、怠ることなく、志を立て、決してひるまないこと。自ら利し、他を利益せしめ、速やかに諸々の苦からの解脱を心がける。諸仏を礼拝し、懺悔し、勧請し、教えに共感し(随喜)、得た功徳をめぐらす(回向)。

5.止観門(心の安定と正観の修行)
「止」(シャマタ)とは、心を安定・集中して、対象の相が現れないようにすること。
「観」(ヴィパシュヤナー)とは、諸々の現象の因縁によって生起する相(心生滅の相)を見分けること(分別因縁生滅相)。
これについては次回詳述。

《つづく》

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