トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:松岡正剛

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「空海の夢」(春秋社)
「20.六塵はよく溺るる海」を読みました。

《以下引用》
われわれがつねに考えなければならない最も怖るべき問題のひとつは、「生命は生命を食べて生きている」ということにある。この怖るべき事実から唯一のがれられるのはわずかに緑色植物の一群だけである。
《引用終わり》

「生命とは何か」という問いには完全ではないながらも、科学で何らかの説明ができるようにはなってきています。しかしながら、「生命が生命を食べる矛盾」には何ら答えが見つかってはいません。

《以下引用》
…「生命が生命を食べる矛盾」は、ひとり人間のみが尊大な善人面をしていられないことを、また悪人面をしてもいられないことを、生命史の奥から告発しているかのようなのである。
《引用終わり》

人は何かを食べなければ生きられません。何かとは他の生き物。他の生き物を殺し続けながら、私たちは生きていかなければならない。

《以下引用》
…矛盾を犯してまで前進する生物史は、またあくなき冒険の歴史でもある。摂取と排泄の爆発、海中から淡水への前進、「性」の発現、水生から陸生への転換、地上から空中への飛翔、樹上から地上への逆退転――。生物史はその矛盾と冒険に充ちたプロセスにおいて、信じられないほど多くの発明をし、また失敗をくりかえしてきたあげく、結局のところはふたつの相反する特徴を残すことになったのである。

第一にはそれらの生物が共存するということ、第二にはそれらの生物は共食するということだった。第一の特徴が認められないかぎり第二の特徴はなく、第二の特徴が認められないかぎり第一の特徴も成立しない。
《引用終わり》

私たちは他の生物を殺さない限り生きられない。そして、他の生物を全て殺してしまったら、私たちも生きられない。ウイルスのモラルにも似た微妙な関係。

かの名文「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」には、この矛盾が含まれているということのようです。

『秘蔵宝鑰』を読むとき、この章を再読したいと思います。

《つづく》
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「空海の夢」(春秋社)
「19.即身成仏義体験」を読みました。

《以下引用》
…では、最も大事なことを書いておきたい。『即身成仏義』において最も注目すべき個所は「重重帝網を即身と名づく」という一行であろうということだ。

重重帝網の「帝網」とは帝釈天が世界に投じた網のことである。その帝網が重なりあい、さらに重なっている。その網目のすべてには光り輝く宝珠がついている。互いの宝珠は互いに鏡映しあっている。そのさまこそが「即身」というものだと、そう空海は言ってのけたのだ。

ここで帝網とはホロニックなネットワークをイメージすればいい。どんな部分も全体を反映しているホロンのネットワークである。空海は、そのホロニック・ネットワークの一点ずつがそのままそれ自体として「即身」ととらえたのである。

この思想的直観は、本書の最後にのべるように、世界哲学史上においてもとくに傑出するものだ。そこには現代科学の最先端のフィジカル・イメージさえ先取りされている。このイメージはのちに〈華厳から密教に出る〉の章に詳説するように、もともと華厳世界観にあったものだった。華厳世界観の前にはウパニシャッドにも芽生えていた。空海はそれをのがさなかったのである。「帝網のイメージ」は密教的生命を得ることによって現代につながったのだ。

空海はそれだけで満足したわけではない。その「帝網のイメージ」が身体のコズミック・リズムと同調していることに気がつく。身体重視思想なら密教の独壇場である。空海は「帝網のイメージ」に「身体のイメージ」をぴったりと重ねあわせた。それこそは沙門空海が若くして四国の大滝や室戸岬で感得した不二の感性の理論的再生というものであったろう。
《引用終わり》

宇宙と自己存在を語る上でいろいろな比喩がありますが、網の喩えは知りませんでした。「ネット」という点でも、現代を先取りしていると言えそうです…。

《つづく》
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「空海の夢」(春秋社)
「18.和光同塵」を読みました。

《以下引用》
…空海の神々にたいする態度はなかなか凛としている。

弘仁十年・空海は高野山の七里四方を結界するのであるが、そのときの啓白文は「敬って十方諸仏、両部大曼荼羅海会の衆、五類の諸天および国中の天神地祗、ならびに此の山中の地・水・火・風・空の諸鬼等に白さく」という高らかなファンファーレではじまっている。さらに壇場を結界するときの啓白文では、「諸々の悪鬼神等、みなことごとく我が結界するところ七里の外に出で去れ、正法を護らん善神鬼等の我が仏法の中に利益あらん者は意に随って住せよ」と、これまた決然と宣言する。神仏習合による七里結界によほどの自信があったかとおもわせる。…

…以上の高野結界にあたっての空海の活動はいわゆる和光同塵の先駆性が発揮された例として重視されるべきである。しかもこの傾向はその後もしだいに強まり、密教は日本全国の神仏習合に拍車をかける主役をになうことになる。

修験道ばかりではない。とくに台密がおこした山王一実神道や、中世において伊勢神宮の内宮と外宮を金胎両部のマンダラにしてしまった両部神道の出現はことのほかおもしろく、それこそ第七章にのべた密教のエントレインメントの特徴をよく体現したのであるが、残念ながら空海を主人公とした本書の主題からややはずれてしまうので割愛することにする。
《引用終わり》

エントレインメントとは習合のことなのかもしれません。

《つづく》
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「空海の夢」(春秋社)
「17.イメージの図像学」を読みました。

《以下引用》
…カイヨワはその著書『反対称』のなかでこのように書いている。「確立された完全な対称の中に、部分的で偶発性のものでない破壊が突如として生ずることがある。この破壊はすでに形成されている平衡を複雑にする。このような破壊が厳密な意味での反対称である。反対称は、結果として、反対称が生じた構造あるいは組織を豊かにする。すなわちこれらに新しい特性を与え、より高度の組織の水準に移行させる」。…

マンダラにもそれがあてはまる。マンダラが全体においては大同の対称性を求め、かつ部分においては小異の反対称を演じているという知られざる秘密をこめていることは、「ゆらぎの科学」が発達するにつれ、今後さらに興味深いテーマになってくるにちがいない。
《引用終わり》

この文章が書かれたのは、プリゴジンの散逸構造論が注目を集めたころだったろうと思われます。「ゆらぎ」は扇風機の制御にも使われ、とても身近なものになりました。「ファジー」はボケたときの言い訳によく使われました。

昨年これを語るなら、益川敏英先生らの「対称性の破れ」が使われたかもしれません。

《以下引用》
さきに、空海は『即身成仏義』において「須弥山=宇宙身=マンダラ」という等式を発見したと書いた。空海は須弥山を六大に同定したのである。これを一口に「随類形の構想」と名づけてもよいかとおもう。

随類形とは類にしたがって形をあらわすこと、仏教用語では所生、すなわち「生みだされるもの」の意図である。空海は六大を能生、すなわち「生みだすもの」ととらえ、その六大が四種法身とマンダラと三種世間を生みだすと考えた。六大という能生によって、マンダラなどの所生がもたらされていることである。ソシュール言語学でいうのなら、所生を「シニフィアン」(指し示すもの・意味するもの)と、能生を「シニフィエ」(指し示されるもの・意味されるもの)とみなしてもいいだろう。しかも空海にとっては、この能生と所生は不即不離なのである。マンダラは「生みだすもの」と「生みだされるもの」の関係の同時性のうちにとらえられるべきものだったのだ。日本語にもしばしば「造作なく」という用法がつかわれる。造(な)すというも作(な)されるというも、これは両義的な象徴表現である。空海はそこを一口に「法爾の道理に何の造作かあらん」と書いていた。
《引用終わり》

この世はすべて造作ないこと。造作なく生きればいい…。

《つづく》
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「星」という字は星らしく、「湖水」という字は湖水のように、「鳥」は鳥らしく…文字ひとつひとつの書体を変えていた書家がいたと言う…

ひとつの文章で、書体を統一する必要など、実は無いのだ。それじゃあ、ワープロと同じじゃないか。それじゃあ、手書きの意味がないじゃないか。

「書は人なり」というけれど…

ひとつの人生で、自分を統一する必要など、実は無いのだ。それじゃあ、ロボットと同じじゃないか。それじゃあ、生身の人間の意味がないじゃないか。

我を忘れて…エゴを忘れて…

でも、

自分に束縛される苦悩と、自分が見つからない苦悩と、

どっちが辛いんだろう…
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「空海の夢」(春秋社)
「16.カリグラファー空海」を読みました。

《以下引用》
…「書は散なり」とは、空海の書のみならず、その思想の特徴を知るうえでもすこぶる重要な指摘である。書を散らして書きなさいというのではない。書する心のほうをあれこれ景色にあてがいなさいと言うのだ。景色とはまた気色であるが、ようするに対象に陥入してアイデンティファイするということなのだ。

ふつうアイデンティティは自己同一性というふうに解釈されて、主体性の一貫を申しひらく意味につかわれる。簡単にいえば「自分らしさ」である。けれどもこれは近代自我がつくりあげた勝手な弁論だった。本来、個人主義的な主体性などというものはない。ましてそれが一貫するなどということがあってはたまったものじゃない。それではただひたすら「私」という得体のしれぬ者の筋を通すために、他は犠牲になるばかりである。…

しばしば文字を見れば人がわかると言われる。そうだろうか。文字を見て人がわかるとは、その人が自分にこだわっているさまがよくわかるという意味である。エゴイズムが見えてくるということにすぎない。

空海の書は入唐後、そのエゴイズムをこそ脱しようとした。文字を見て人をわからせるのではなく、文字を見て万物をわからせるほうに努力を傾注したのだった。これがなかば批判がましく空海の雑体書風とよばれる当の本体である。

《引用終わり》

空海がその場面に合わせて書体を変えていたことは知っていましたが、「益田池碑銘」では文字ひとつひとつの書体を変えていたそうです。

「星」という字は星らしく、「湖水」という字は湖水のように、「鳥」は鳥らしく…

書のような絵というか、絵のような書というか。Sing like talking というか、Talk like singing というか。

《つづく》
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「空海の夢」(春秋社)
「15.対応と決断」を読みました。

最澄が空海を認めてくれたことにより、最澄との微妙な友情関係を構築し、国内での足場固めをする時期を「対応」とし、最澄と決別し密教と顕教を対峙させる瞬間を「決断」としています。

“他者の眼”を気にせず行動したと思われる最澄と、“他者の眼”を計算して動いた空海との差が描かれています。

《以下引用》
…すでに平安仏教界の第一人者となっていた最澄が、まったく惜しみもなく空海の密教活動の拡大することに力を貸したのだ。おかげで朝野の在俗の士も最澄のプロモーションに心を動かされ、空海の評価はいやがうえにも増すことになった。

こうした事態に一番驚いたのは南都の仏教界であったろう。南都諸宗を攻撃する最澄が空海に三顧の礼をつくしているのだから、これはただならぬ状況の変化と映った。しかし最澄自身はこれらのプロモーション活動を展開するうちに、しだいに密典秘籍にたいする関心から『大荘厳論』などによる密教的助力を重視するという関心に移っていった。「一乗の旨、真言と異なるなし」という主張をしだいに強める最澄なのである。

《引用終わり》

南都諸宗を攻撃する最澄、空海がこれを討つことを画策したであろう南都諸宗の僧たちのことは以前も書きました。最澄と空海の接近をハラハラしながら見ていたことでしょう。

《以下引用》
…ひるがえってみれば、空海も当初は最澄からもたらされるやもしれぬ天台止観に多少の期待があったのだろうし、最澄がしきりに求める“秘密宗”についての典籍貸与や法門教授についても、いったい自分の構想する大いなる術がこの当代随一といわれる最澄の眼にどのように判断されるかを知っておきたかったのだろうとおもわれる。それに、この時点までは空海の密教思想を中央の誰が正当に評価したわけでもなかった。もとより嵯峨天皇や冬嗣は文化や政治の関心で空海を見ていたのであったし、広世や真綱も外護者の立場にとどまっていた。僧綱所には密教思想の十分の一も理解できる者はない。唯一、最澄こそが空海の本意とはいわないまでも、その方向を評価していただけである。

こういう事情では、空海もしばらくの沈黙による「対応」をはかっているしかなかった。その存分の「対応」が可能であったこと自体、空海の怖るべき思想の重量をわれわれに、伝えるものであるが、さらに「対応」がいつしか完了を迎え、いつのまにか緊張をみなぎらせた「決断」におよんでいるというその急転直下にもいっそう驚かされるところであった。

《引用終わり》

「顕教とは報応化身の経、密蔵とは法身如来の説」という表明あたりを皮切りに、空海の決断が遂行されていきます。

著者は、果分可説の表明を「すこぶる強烈」と書いています。そう言われて、私も少し考えてみたら、宇宙観が少し変わったような気がします。

《つづく》
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「空海の夢」(春秋社)
「14.アルス・マグナ」を読みました。

《以下引用》
われわれの頭の中には知覚と学習とによって入力された情報がわんさとたまっている。これらは価値の序列も時間の序列もあいまいで、まことに頼りない状態でつまっている。

…おおざっぱな貯蔵領野は分かれているものの、…視覚野とか運動野とかアイテムでよばれていることでも察しがつくように、やっと感覚器官との関係、仏教でいえば六識との関係の混乱をふせいでいるだけである。

…われわれに入ってくる第二次的な情報系はそのままではあまり役に立たないということになる。第一次情報系とはヒトが生物史に内属して継承してきた情報系のことをいう。

この第二次的な情報系をすこし正確にストックするにはゆさぶることである。

…第二次的な情報系はこれによって蘇生し、第三次的なノンローカルな序列の中に位置づけられはじめる。

…情報組織はそのうちの適当な第三次的な情報系を選びながらこれを圧縮しはじめ(情報圧縮)、しだいに自己組織化をはたすというプロセスになる。これがふだんは漠然と認識世界だとか思考世界だとかとおもいこまれている当の正体である。

しかし当の正体とはいっても、これはちょうどテレビのチャンネルを次々に早く切り換えてみたときに見える映像のようなもので、常時フラッシュのごとき断面像をみせる“頭出し”の部分にすぎない。自分の認識世界であるというのに、これをゆっくり眺めるには、どこかのチャンネルを限定してつけっぱなしにし、切り換えの能力をあえていったん休止させなければならない。おそらく「止観」とはこのことであったろう。

《引用終わり》

「止観」の大脳生理学的解釈と言えるでしょうか。詳しくは本書をご覧ください。さらに、後の章でまとめるようですけど。

《以下引用》
…直観が場面集であるとするなら、方法は回路群だ。これが私の考える編集方法というものにあたっていることについてはすでにのべた。これは空海にとっては、鄭玄や淡海三船や大伴家持の編集方法にヒントをえて、さらには般若三蔵恵果からも示唆をえて、すでに半ばの設計がおわっていたはずの回路群である。問題はいよいよ、こうして準備のおわっている「直観」と「方法」とをいかに丹念に糾合させるかということだった。

槇尾山寺の日々、空海は直観と方法をあれこれ糾合させつつ、たったひとつの目標のために全力を傾注していた。それはまったく新しい密教世界をどうしたら創出できるかということである。

このとき空海がインテグレーションを進行させるにあたって最もこころがけたことは、「思考の内容を感情の内容とすること」(シュタイナー)であったかとおもう。新密教創出の当の担い手に分離や分断がおこってはならなかった。そのうえで、至高の存在にみずから導かれているのだという確固たる信念にしたがって歩みはじめた。右脳に直観、左脳に方法をもって…。
《引用終わり》

富士通にもホストコンピュータの膨大な回路をほとんど一人で設計したという伝説の天才がいました。どんなに膨大な体系でも、まとまったものを組み上げるのは、一人の天才の手に任せた方が良さそうです。

《つづく》
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「空海の夢」(春秋社)Amazon
「13.初転法輪へ」を読みました。

帰国し、大宰府滞在を経、和泉国の槇尾山寺に止まるまでの期間について、考察しています。

《以下引用》
…このときの詩が、私が空海の詩文に接した最初のものである。…七言絶句、上声篠韻。

閑林独坐す 草堂の暁
三宝の声  一鳥に聞く
一鳥声あり 人心あり
声心雲水  倶に了了

…槇尾山寺の空海が何を沈思黙考していたのか、それはわからない。しかし、空海六十二年の生涯をいろいろ眺めまわして比較してみると、謎の七年間を除けば、結局はこの山中の空海が一番だったと思う。

…語る相手といえば老境の律気な阿刀大刀と、それに空海をひそかに訪ねてきたであろう奈良の僧たち、修行者たちだけである。奈良仏教者たちは空海に期待を寄せていた。最澄の痛烈な南部仏教批判をはねかえせるのはいまや空海ただ一人であったからだ。

しかし山中の空海はまだそうした現実にまみれようとはしていない。それらにたいするひとつの「超越的な位置」を確立しようとするだけの時期である。これは空海の存在学の確立期であったろう。
《引用終わり》

この山中で、壮大な体系が構築されていきます…

《つづく》

空海の夢
空海の夢(Livedoor Books)
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「空海の夢」(春秋社)
「12.長安の人」を読みました。

空海の長安での生活について、松岡さんが考えを列挙しています。
《以下引用》

(4)密教は、すでにのべたように不空の黄金時代が終わり、一行から恵果の時代に進んでいた。空海は当初からこの線を狙っていたのだが、あえて四ヶ月を費やして動静を読む一方、「長安に空海あり」の噂が青龍寺に過熱する日を待っていたふしがある。
そんな空海にさまざまな指示を与え、方針指導をしたのは般若三蔵である。一方、漢人として初めての金胎両部の付法を受けた恵果はこれを門人に伝えようとしていたが、恵果が両部を授けた唯一の門人であった義明はちょうどこの前後に死の床についてしまった。恵果は義明の代わりを探さなければならなかった。空海はそうした情報を般若三蔵からも入手しただろう。
《引用終わり》

般若三蔵の名は、司馬遼太郎の『空海の風景』にも何度となく出てきておりますが、このブログでは取り上げていませんでした。

《以下引用》
…般若三蔵とは、北インドはカシミールの人である。…二十三歳でナーランダー寺院に入り仏教を究めた後、南海の波濤を越えて広州から唐に入った般若三蔵は、…長安にとどまって訳経布教に従事した。『宋高僧伝』によれば、貞元二年(786)、『六波羅蜜経』七巻を訳出したものの意義通ぜず、二年後に十巻に改訳、ついで『大乗本生心地観経』や今日なおわれわれが親しむ『般若心経』を漢訳し、このころ南インドから『華厳経』入法界品の梵本がもたらされると、二年をついやしてこの翻訳にあたったとある。
これが有名な「四十華厳」であった。
正式名を『大方広仏華厳経』という。…

空海はその博覧の般若三蔵に師事した。当然に新訳華厳の一部始終に目を通すか、その奥義を口頭で聞かされたにちがいない。
《引用終わり》

般若三蔵から受けた影響はかなり大きいようです。

《以下引用》
般若三蔵については、日本に渡ろうとしていたという話もある。老齢の般若がこれをはたせなかったのはやむをえないところだろうが、その熱情がおそらくは空海を動かした。なぜ、インドからはるばる来て二十余年を布教訳経に努めた賢人が日本などにおもむこうとするのか、と空海はおもったろう。そしてしばらくしてその本意を見抜いたにちがいない。もはや唐土には真の仏教が実る可能性が少ないのではないか。般若三蔵ほどの僧が親しみ慣れた唐土を去る決意をしているのなら、自分が留学生として二十年をこの国に送ることはまったくの無駄ではないか。
むろん空海は最初から留学生としての二十年をあたら長安についやす気などなかったであろうが、しかしどこで切り上げるのか、何を成果とするのか、また日本に帰るよりも唐にいたほうがより充実した日を送れるかもしれない…といった迷いを払拭する強烈なトリガーが必要でもあったろう。私にはそのトリガーが般若三蔵の日本布教の大企図だったようにおもわれる。
《引用終わり》

司馬遼太郎の文章を読むと、なぜ長安に留まらなかったのか?という疑問は強く残ります。が、上の文章を読むと納得できます。

語学の面でも、般若三蔵が空海に与えた影響は大きかったことでしょう。

《つづく》
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